欽明天皇二十五年(五六四年)甲申十一月朔日創祀され、朝廷の崇敬篤く、
日本三大実録・延喜式・大日本一宮記・神社考其の外の諸書に載せられています。
即ち貞観二年(八六〇年)従五位上に、同十五年正五位下に進められ、
延喜の制小社に列して祈念の国幣に預かりました。
のち二条天皇應保の頃(一一六一年)には肥前国一の宮とされ、
亀山朝の弘長元年(一二六一年)正一位を授けられました。
かくて一国宗祀の主要な地位を占め、五月、八月の神事に際しては、国衙方奉仕の事がありました。
鎌倉時代に入っては、院宣並びに関東御教書を賜ひ、
肥前一箇国平均の課役により社殿の造替遷宮を営むを例とし、
後醍醐天皇元亨二年には後宇多院の院宣並びに幕府の御教書を賜って、
本殿以下の造替を行ひ、八月二十九日を以て遷御の儀を執行しました。
かくて社殿の如きも、付近一帯に亙り、四条天皇仁治年間(一二四〇年)には、
二百七十余町の神佛事料免田を、更に伏見天皇正應年間(一二八八年)には、
一万三千四百七十余町の造営免田を有するに至りました。
降って室町戦国時代には、地方豪族、武門、領主、藩主から、肥前国鎮守一宮として篤く尊信され、
神領の寄進、安堵下文、祈願等がなされた事は、その蔵する多数の古文書、
或は鍋島家の古文書から知ることが出来ます。かくて社領として田畑三五〇町を保持しました。
別名河上神社、俗に「淀姫さん」とも呼ばれています。
旧社格県社(明治四年)。
戦前、国幣社昇格の儀が進められましたが、準備が整わぬ中に終戦となり、実現できませんでした。
佐賀市街地から嘉瀬川に沿う国道263号を旧大和町方面へ車を走らせるとあります。
ちなみに、この日は福岡市内から三瀬峠を越えて、佐賀市に入りました。
福岡市と佐賀市が隣接しているとは、こちらに来るまで知りませんでした。
この神社では、佐賀県以外ではほとんどお目にかからない與止日女命を祀っています。
その正体ははっきりとは分かりませんが、一説には縄文人の女性首長とも言われています。
2014年に神社創建から1450年を迎えます。
社務所の建て替えが予定されていますので、これを機に『開かずの間』を開けると、
数点の銅鏡が見つかったそうです。現在は、銅鏡の鑑定が出来る人を探しているようです。
肥前巨石パークの巨石群を見なかったのだけが心残りです。
社殿創建前はご神体と考えられていたようです。