古事記(伊勢本)には「故、其伊邪那岐大御神者、坐淡路之多賀也」、
日本書紀には「伊弉冉尊神功既畢霊運當遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長隠者矣」と、
古典に當神宮の創祀を記してゐる。
淡路島神、多賀明神、津名大明神、一宮皇大神などとも別称され、
地元では「いっくさん」と尊称されてゐる。
境内地は、神代の昔に初めて夫婦の正道を契り定められ、大八洲の国々を修理固成され、
更に萬物萬象と神々を生成された伊弉諾大神が、ご神功を竟へ給ふた後、
御子神たる天照皇大御神(お伊勢さま)に譲位され、「淡路の多賀」の地に
御自ら幽宮(終焉の御住居)を構へられたと伝へる故地で、「 日之少宮 」ともいふ。
神門前の神橋が架かる放生の神池は、周濠の遺構といはれてをり、現在のご本殿は、
明治初年の大造営にあたって、御陵周辺を整地し、その真上に移築建立されたものである。
ご皇室の始祖神として朝廷の尊崇厚く、坂上田村麻麿の末裔(田村家)が下向して祭祀を司るなど、
高い格式をもって奉斎された。また、阿波藩主蜂須賀家歴代を始め武門武将の崇敬を受けた。
明治十八年より官幣大社伊弉諾神社、更に赫々たるご由緒により、
昭和二十九年に「神宮」號を宣下され伊弉諾神宮と改称した。
神戸と徳島を繋ぐ高速バスの停留所もある津名の市街地から、バスで20分程度。
伊弉諾尊が最初に造った自凝島(現在の淡路島)であり、国生みを終えた後に、
幽宮に鎮まったという由緒正しい場所です。
そんな伝説があることから、明治政府の政策も関係したのでしょうか。
境内は整備され、本殿も鳥居も立派でした。
この神社の前後に訪れたのが松帆神社・岩上神社と地域の神社であったため、
より伊弉諾神宮が立派に見えたと思います。
今でも充分に広い境内なのですが、江戸時代には2丁4方の社地を領有したそうです。
さらに神宮寺6坊と妙京寺6坊の塔頭もあり、今からは想像のつかない程(失礼・・・)
の繁栄をしていたようです。
余談ですが、頭髪感謝という、伊弉諾神宮とはあまり関係なさそうな石碑がありました。
2009年10月8日、「頭髪の日」にリーブ21が全国の毛髪に携わる人々の「毛髪への感謝をする発場」に
したいとして創ったそうです。
「髪」は「神」や「上」に通じ、理容美容の御利益があるそうです。
ツルツルになっていた感謝碑を撫でてきました。