この千葉の地を治めた千葉氏の祖・平良文は、戦のたびごとに妙見尊に祈願して御加護をいただき、
常に大勝利を収めておりましたので、以後、千葉家では代々一門の守護神として熱烈な信仰を
捧げてまいりました。
このような関係から、現在地には千葉家三代忠常により先に御分霊が祀られ(年代不詳)、
その後、忠常の次男、覚算大僧正により立派に伽藍整備がなされ、
第66代・一条天皇の眼病平癒の勅願所としての功ともあいまって、
長保2年(西暦1000年)旧暦9月13日、『北斗山金剛授寺』なる寺号を賜り中興開山されました。
さらに、千葉家七代常重により大治元年(1126)には、この信仰の頂点に立つ御本霊を
千葉城よりお遷し申し上げることにより合祀され、 以後、厄除開運・八方除・身上安全の守護神である
妙見様の本宮として、全国の善男善女の深い尊崇を集めてまいりました。
源頼朝も当社に参詣し、自筆の願文、太刀、武具などを奉納して、ついに武運を開くに至りました。
また、日蓮上人が宗門弘通の誓願をたてて当社に参籠した時に、有難い奇瑞をいただきましたので
「この妙見尊こそ わが宗門の守護神である」と讃嘆され、誓願成就の後に、
細字法華経を自筆して奉納されました。
徳川家康も当社に深く崇敬の誠を捧げ、大久保岩見守に命じて祭祀の料田として永代二百石を寄進され、
十万石の大名と同等の格式を賜り、その後も代々の将軍家より神領、特権を許されてまいりました。
さらに、明治2年(1869)の新政府発令による「神仏分離令」により、
平安時代後期の御本霊合祀の翌年である大治二年(1127)より連綿と続く
神輿渡御(一言妙見大祭)を残すべく『千葉神社』と改称し今日に至り、
その御霊徳はいよいよ高く輝き、千葉の妙見様として四方八方にあまねく知られてまいりました。
千葉駅周辺の市街地にあります。境内摂社に千葉天神がありますが、ここで触れます。
市街地にある神社ですが、境内は坪庭のように狭いわけではなく、そこそこ広い敷地でした。
千葉県民によく親しまれた神社のようで、正月の初詣は成田山新勝寺に次いで多い63万人が訪れます。
二階建ての本殿や「尊星殿」という建物が朱塗りの豪華絢爛なもので、堂々とした佇まいです。
「上下の二つのお宮で交互に御祈願を行う為、混雑時も20分程度の待ち時間」と書いてあります。斬新ですね。
いっぽう、神池周辺にある小さな摂社と千葉天神のあたりは落ち着いた雰囲気です。
神紋・月星に由来して「ツキを呼び、勝(星)を拾う」といわれ、学業・合格祈願の御利益があるとされます。
平成2年までは本殿でしたが、新社殿が建設されたことから、移築されて天神様の祈祷殿として残っています。
江戸時代までは北斗山金剛授寺尊光院と称する真言宗の寺院でしたが、
明治初期の神仏分離令により神社に改められ、本尊も妙見菩薩から祭神の天之御中主大神になりました。
本尊・祭神と名前こそ違うものの、現在も妙見信仰の霊場として信仰を集めています。
同様例は、岩手県の九戸神社や熊本県の八代神社など、いくつかあります。