当神社は景行天皇十二年の御創祀と伝えられている。
人皇第十二代景行天皇の皇子、日本武尊が東夷征討の砌、相模より上総にお渡りになろうとして、海難に遭われた時、
御后弟橘姫命が「これは海神の御心に違いない」といって入水されたことで、無事、上総の国につくことができ、
更に、海路葦の浦より下総玉の浦にお渡りになられた。
そこで尊はその霊異を畏まれ、海上平安・夷賊鎮定のために玉の浦の東端「玉ケ崎」に海神玉依毘売命の神霊を
斎き奉るによるものである。
後世、「玉ケ崎」を「竜王岬」と言うようになったのは、海神を竜宮の神に付会して、
竜王の鎮まり坐す崎と言うようになったものである。
玉の浦の 清き渚を行きかへり 浪にかがやく 月をみるかな 海上胤平
夕汐に 月さへみちて打ちよする 浪もかがやく 玉の浦 同
つらつらに 見れどもあかず満潮の 入りてはかへる連浪の磯 大国隆正(野々口)
中世には下総國二之宮で三崎庄横根郷玉ヶ崎大明神、玉の浦総社玉ヶ崎大明神等と称せされ、武門武将の崇敬厚く、
平貞盛、源頼義、源頼家、源頼朝、日野俊基、千葉常胤等が参拝され、それぞれ祈願や奉賽のために
奉幣や社殿の造営にかかわられた。
御造営のことは、元禄十三年mに松平伊豆守へ書き上げた当神社由緒記によると、崇徳天皇の長承年間から
明らかに古文書に見えている。
しかし、竜王岬の欠損がはなはだしく、加えて、天文二年に兵火にかかって社殿は烏有に帰したので、
現今の地に御遷座申し上げた。
江戸時代に入ってからは、武人の崇敬はもとより、平田篤胤、平田銕胤、斎藤彦磨、高田与清、大国隆正のような
文人が参詣している。
この頃の飯岡は、九十九里の代表的な漁場として隆盛を極めていたので、相模、三河、紀伊、伊予、阿波、和泉、安芸等の
国々よりの移住する者が多かった。
また庶民の尊崇も厚く、現存する当時の寄進物によってもその間の消息をうかがうことができる。
天保水滸伝に名高い飯岡助五郎は相模の生れで、この地に渡って社領地に住み、(当時の借地証文が保存されている)
天下に任侠をを唱われた。
当時、当神社の潮祭(陰暦九月十五日)には一党を引き連れ参拝し、竜虎相打つ奉納角力を執行した。
今、境内にある「力石(六十貫)」は、当時彼が力比べや雇用の条件のために使用したものであると言われている。
享保十四年には、地頭石束正詮、海野恭隆が当神社に大漁を祈願し、その神験が顕著で浜は大漁にわいた。
そこで、時の神祇官領、従二位卜部朝臣兼雄に告げて、宗源の宣旨を乞われ、神階正一位を賜ったのである。
拝殿内御神額はその時のもので、将軍吉宗公の筆と伝えられている。
明治になって諸事一新したことを機に、神社名を「玉神社」と改称し、明治十九年一月十八日に「郷社」に列せられ、
同三十九年十二月二十五日本県より幣帛供進神社に指定せらる。爾来、星霜を経、御本殿は、昭和四十八年三月二日県有形文化財に指定され、「飯岡の明神様」として御神威赫々たるものがある。
九十九里浜の西端に鎮座するのが上総一宮・玉前神社、東端がここ下総二宮の玉神社といわれています。
両社は玉の浦(九十九里浜)を鎮護する神社として古くから広く崇められています。
訪問したこの日は、神田祭(もとの御田植祭)が行われており、多くの氏子さんが訪れていました。
十二座の神楽を舞うための舞台が境内の拝殿前に組まれていました。