当社は今から千五百年前から建てられていたといわれている。
古記によりますと、第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊が東国地方を統一すべく勅命を受け弟橘姫を始め
多数の家来を引きつれ軍船に乗りて、千葉沖に差しかかったとき、風雨が強くなり船は進まず沈没の危険にあった。
このとき弟橘姫は「龍神の怒りに触れた」これを静め和げんと同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じた。
そして日本武尊は無事航海をつづけた。
身を投じた五人の姫の中には蘇我大臣の娘たる比がおり、この方がこの下の海岸に打ち上げられた。
里人達の手厚い看護で蘇生することが出来た。そして無事に都に帰ることが出来ました。
又里人達は日本武尊が日継の皇子でありながら東征の途中にて崩ぜられ皇位を継承するに及ばなかった事を聞き及んで
その霊をなぐさめんと社を建て神として祭った。
この里人達の行為に深く感激した第十五代応神天皇は、特別の命より蘇我一族をこの周辺の国造として派遣し政治を
おこなわせた。
蘇我一族は、代々「春日天皇」「比神社」を守護神としており、両神社の御分霊をいただき「蘇賀比神社」に建立した。
「延喜式巻九神祇神名帳千葉群記載。」その徳は山より高く海より深く「春日様」「下總の国香取明神様」と下總の国の
守護神として人々に敬神された。
江戸時代には、徳川家康も敬神され、一〇石を献上した。
この所は江戸又上総、香取への街道の要所にもあたり参勤する大名また人々の集まる宿場町であったため参詣する賑わいをみせた。
明治五年社格郷社となり皇室、国家の守護となり皇族の尊崇をうけ参拝もあり、御手植の松もありましたが、」明治の大火事で神社も社宝、古文書、御手植の松すべて焼失してしまったが今もって海難防止、民政安定、家運繁栄、
五穀豊穣、諸病消除、延命息災など神威をこよなくあらたかな神として近隣の人々に敬拝されています。
千葉市南部・蘇我の市街地の中に鎮座します。境内はやや狭いですが、木々が鬱蒼と茂っていました。
子猫が何匹か境内で昼寝をしていましたが、宮司宅に引き上げていきました。飼い猫でしょうか。
蘇我の由来は諸説あり、浜に打ち上げられ蘇生した弟橘姫が「我、蘇(よみがえ)り」と唱えたもの、
弟橘姫に付き従った5人の女のうち蘇我大臣の娘・蘇我比だけが浜に打ち上げられ、蘇生して都に帰った説があります。
蘇我氏は春日大社?と比神社を信仰しており、両社を勧請して蘇我比神社を創建したといいます。
なお、日本武尊の東国東征と弟橘姫のエピソードは、房総・三浦半島各地の神社に残されています。
今の東京湾を渡るのは、当時では危険を伴うような大航海だったのでしょうか。