金刀比羅神社
住所:千葉県山武市松尾町八田24
主祭神:大己貴命、大日霎命
社格:村社
主な祭礼:1月10日(春季大祭)
webサイト:金刀比羅神社
↑鳥居↑
(由緒:現地案内版より)
当神社は、今を去る六百三十余年前、後醍醐天皇の延元二年十月、讃岐国、金刀比羅大神を奉勧遷所されたと伝えられる。
当神社は、今を去る六百三十余年前、後醍醐天皇の延元二年十月、讃岐国、金刀比羅大神を奉勧遷所されたと伝えられる。
第百五代後奈良夭皇の弘治二十一年当社の北方干米余の所に、坂田城があり、千葉氏の族城主井田因幡守友胤が、
金刀比羅大神を信仰され祈願所とする。
その霊験により数度の戦功ありてより逐次崇敬者の数を増し、第百十一代後西天皇の寛文年間に、
武射郡八田村二百余戸の住民相謀り本殿を再建し、孝明夭皇(第百二十一代)文久四年三月、坂田城生友胤十一世の孫、
徳川家臣正五位平三郎殿墓参のため坂田郷寺方に来し折、祖先の崇敬厚かりし当社に参拝し、
神饌料若干と、剣一振を奉納された。
明治二十二年六月、東京力士青年横綱として知られた小錦八十吉氏は隣接横芝町の出身にして当神社の信仰深く、
郷土に錦を飾って帰り師匠高砂浦五郎氏、横綱披露相撲を神前にて催し、記念のため、
敷地三十五坪と柱時計(二尺六寸)壱個を寄進された。
明治二十八年九月、日清戦争記念事業として、境内外郭を整備せんと石玉垣建設の件議り、
各崇敬者に依頼せし処、意外の賛同者を生じ、境内六十六間に亘る清楚なる后玉垣が明治三十年五月に完成された。
大正九年五月、社殿の腐朽と狭隣とに依り、改築の議ありて、当時内務省神社局造神宮司庁技師大江新太郎博士の
境内調査により現在地に総台湾桧・銅板葺の大正・昭和時代の神社建築界の異彩を極め、昭和四年十月二十五日夜
盛大壮厳なる遷座祭を執行し、三日間の奉祝祭を催した。
開運出世・漁業守護・商業繁栄・学業成就・医薬の祖神として廣く崇敬されている。
↑社殿↑
↑神池↑
↑御神木↑
↑儀式殿↑
(以下、余談)
九十九里浜から続く平地が広がっており、神社が鎮座するあたりも見渡す限りの平野が広がっています。
九十九里浜から続く平地が広がっており、神社が鎮座するあたりも見渡す限りの平野が広がっています。
12座6曲からなる神楽が本殿が再建された寛文五年(一六六五)から奉納され、現在まで伝承されてきました。
現在は農作業の安全と五穀豊穣、氏子の安全を祈願して、8月の第1日曜日に行われます。