当神社の創建は定かではありませんが、古典によりますと当社御祭神の事代主神は「大国主神の第一子で、
国譲りの際信頼を受け、父神のご相談にのられました。その後、首渠神として八十万の神々を統率し高市に集まり、
この天高市(飛鳥)に鎮まりました」とあります。
また、先代旧事本紀には「大己貴神(大国主神)は高津姫神を娶って一男一女を生みその御子神である事代主神が、
高市社である甘南備飛鳥社に鎮座されている」と記載されています。
なお高市とは「うてなの斎場」と呼ばれ、「小高い所にあるまつりの庭」を意味するといわれています。
また、万葉集の中で「飛鳥の神南備」は、連綿と仰いできた神の森に人々が守られてきた様子が数多く謳われています。
次に、延喜式神名帳には「飛鳥社四座、並びに名神大、月次新嘗、相嘗」と記され、
当時の神社の格付けの中で上位に置かれていたことが伺えます。
この延喜式神名帳とは平安時代にはじめて神社の格付けがされ、当時これに記載された神社は式内社と呼ばれました。
その数は二八六一社でそのうち、新嘗祭の前に朝廷よりお供えをされる重要なお祭りが相嘗祭で、
全国にわずか七一坐に限られ、当社はその内の四座をしめています。
また、「類聚三代格」(政府令)に「封戸ある大社は小社を修理すること」の一例に
「たとえば飛鳥社が関係のある天太玉・臼滝・櫛玉・賀屋比売神の四社を修理しているがごとく」と記されています。
日本紀略によれば、天長六年(八二九)高市郡賀美郷にある神南備山から、同郡同郷である。
現在の地(鳥形山)に神託によって遷座されたことが記載されています。
古代より、国・民の重要な守護神として、この飛鳥に鎮まる当社には氏子はなく、創始以来代々お護りしてきた神主家は、
神主太比古命が崇神天皇より「大神朝臣飛鳥直」の氏姓を賜り「飛鳥」の姓で今に至っております。
初代は、天事代主神から数えて七世に当たることが「世系図」や「新撰姓氏録」に記され現在の宮司は
八十七代目に当たります。
(以下、余談)
飛鳥寺や飛鳥大仏などがある、明日香村の観光スポットに鎮座している神社です。
神社付近はレンタサイクルや徒歩で観光する人で賑わい、神社にも次々と人が訪れていました。
余談ですが、県道から神社方面に分岐する信号が「赤信号:4分、青信号:20秒」というものでした。
飛鳥大仏付近にも同様の信号が設置されています。マイカーの流入を少しでも抑えるのが目的でしょうか。
おんだ祭が奇祭として知られ、夫婦の情事を神事の中で再現します。事後には「ふく紙」を投げるそうです。
神事が終わると、天狗と翁が参拝者を追っかけて竹箒でお尻を叩きます。魔除けの効果があるのでしょうか。