寛永五年(一六二八)十二月、福井藩第三代藩主松平忠昌公の御在世中、
天台宗万福山泉蔵院瑠璃光寺境内に、徳川家康公をお祀りする東照宮を建立。
奉安する御正体は、三代将軍家光公が調達された東照権現の御神像十七体のうちの一体と伝えられる。
翌寛永六年(一六二九)、米松村に社領三百石の寄附を受ける。
東照宮は、当初、神明宮の西隣の地にあったが、寛文九年(一六六九)の大火の後、
東照宮の焼失を危惧した四代藩主光通公は、三の丸清水御門内の帯曲輪に移築された。
歴代藩主を始め庶民の崇敬頗る厚く、恒例の祭祀権現祭は、藩中はもとより、
広く全国にも聞こえる盛儀であったという。
明治六年(一八七三)、福井藩祖松平秀康公の御遺徳を追慕し、
士民相計り、足羽川右岸幸橋西北に一社をを創建、佐佳枝廼社と尊称し奉る。
翌明治七年(一八七四)、前記東照宮を合祀奉る。
明治十四年(一八八一)、県社に列せられる。
明治二十四年(一八九一)、松平慶永公(春嶽公)を合祀奉る。
明治二十九年(一八九六)、越前松平家ゆおり旧城内お花畑と称する現在地の寄附を受けて遷座する。
昭和十五年(一九四〇)の春嶽公五十年祭には勅使のお差遣いを賜る等皇室の御崇敬も厚く、
福井の氏神様として社頭は賑わいは見せていたが、昭和二十年(一九四五)の大東亜戦争による空襲、
昭和二十三年(一九四八)の福井地震と相次ぐ戦災・震災で、御社殿付帯施設が焼失した。
翌二十四年(一九四九)、松平康昌氏、岡田啓介氏、三井銀子氏等の御助力により、
京都市下賀茂にある三井家祖霊社顕名霊社拝殿を譲り受け、移築復元し、
昭和三十年(一九五五)には、先の災害を鑑みて、北陸初の鉄筋コンクリート作り、
入母屋作りの御本殿が造営された。
戦後、境内地の一部は、福井市の要請により、
大陸からの引揚者や戦争の被災者の家屋や店舗百件余に貸与されてきたが、
戦後四十年を経過して建物の老朽化が進み、福井市中心部として相応しい景観をと望む声が高まり、
平成元年(一九八九)三月、神社を含む再開発という全国でも初の大事業が着工、
平成四年(一九九二)四月十七日に竣功し、現在に至っている。
この日は福井マラソンの開催日でした。
市内の大通は通行規制がしかれていたので、辿り着くのが大変でした。
神社の地下は駐車場です。再開発が為し得たこととはいえ、斬新な光景です。
再開発の前は、戦後すぐからの雑多な家屋・店舗があったそうですが、その面影はないですね。
この日は、七五三のシーズンだったので、「着袴・深曽木の儀」の碁盤がありました。
そういった儀式は知りませんでしたが、帰ってから調べてると、皇室の儀式であることが分かりました。
昭和45年の礼宮文仁親王の後、平成23年に悠仁親王が41年ぶりに行っています。
この間の女子皇族(内親王4名および女王5名)は深曽木の儀が行われておらず、
現代は男子皇族のみに行われるようです。
ちなみに、現地にある案内看板は女子の着袴の絵でした。
碁盤の上から、吉方位の南方向へ飛び降りる儀式なんですね。