ダンブリ長者伝説によると継体天皇一七年(西暦五二三年)勅令による創建と伝えられ、
養老二年(七一八年)僧行基が大日如来像を作り神亀二年(七二五年)九間四面の御堂再建されて
小豆沢「ア」・長牛「バ」・独鈷「ウン」の大日堂に如来像を安置した。
(ア・ウンは向かい合い一対)
御堂建築の折、御用材の運搬に使用した牛をたくさん亡くしてしまい、
牛霊を祀り慰めたことが牛の絵馬を奉納する発端となった。
一代様として羊・申歳生まれの守本尊信仰と共に、
丑歳の守護神、また化身とされる不動明王も合祀しており、酉歳の崇敬も篤い。
各時代の統括者が変わるごとに再建されてきた。
長禄四年(一四六〇年)藤原信継 再建
大永六年(一五二六年)浅利則頼 再建
現拝殿は漢文十二年(一六七二年)に十二所城代塩谷重綱により再建され
北鹿地方に残る数少ない江戸時代の建築物で、宝物の中には大館城主第六代佐竹義村の息女
病気平癒祈願として奉納された鰐口などもあり神仏混淆の形態を留めている。
明治維新、神仏判然令により神社形式に変革となり神明社と称するも
今上陛下御大典を契機として大日神社に改称。
神社に向かう途中には、鶏舎がちらほら見えました。さすがは比内地鶏の産地、旧比内町ですね。
県道沿いの住宅地から少し小高い丘を上がると、目的地に到着しました。
ちなみに、更に県道を進むと、かつては佐渡と並ぶほどの産出量だった大葛金山があります。
この神社はかつて、大日堂と呼ばれていました。
ここは「ダンブリ長者物語」の妻の出生地とされています。
徳子とその両親はここ独鈷に暮らしていましたが、年頃になった時に両親は他界しました。
ある晩、夢枕に大日様がお告げを残しました。住み慣れた町を後にし、現在の小豆沢で太郎と出会います。
その後、2人で転々としながらも、ダンブリ(トンボ)の導きにより、宝の泉を発見して長者となる物語です。
長者の娘・吉祥姫は朝廷に召抱えられますが、間もなく両親がこの世を去ります。
朝廷に上奏すると、夫婦の遺徳を残すため、縁の地に大日霊貴神を祀る詔勅が下されました。
後に、美濃に霊泉を発見により年号が養老に改められた際に、この物語が元正天皇の耳に入ります。
独鈷に行基が下向すると、夢枕に貴人が現れ、大日如来の彫刻を催促したそうです。
行基は、貴人を都の政争から逃れて五ノ宮岳に身を隠した、吉祥姫の子・五ノ宮皇子の化身だと考え、
国司に詔勅であることを告げ、3体の大日如来像を彫像し、3箇所の大日堂を建立しました。
境内の一角には、戦国大名・浅利氏の拠点だった十鈷東館跡が畑地となって残っています。
大館の独鈷町や各地に離散した浅利氏家臣の末裔が今日まで子孫を残しています。
戊辰戦争時、南部藩が当地を行軍しましたが、隊長が浅利氏家臣の末裔であったため、
焼き討ち・死者を出さずに、そのまま素通りしています。
徳子(トッコ)やダンブリ長者物語、中世の浅利氏の十鈷城跡、歴史のつまった場所でした。