樂樂福神社

Last-modified: 2013-08-24 (土) 10:28:09
 

樂樂福神社
ささふくじんじゃ
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(参拝日:平成25年6月15日)
住所:鳥取県日野郡日南町宮内1101mapionlogo.gif
主祭神:大日本根子彦太瓊尊、細媛命、若日子建吉備津日子命、福媛命、彦狭嶋命
社格:県社
主な祭礼:5月1日(春季大祭)、11月3日(秋季大祭)
webサイト:樂樂福神社

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↑神門(逆さ門)↑
(由緒:パンフレットより)
かつては日野川を隔てた対岸に(西)樂樂福神社が鎮座され本社と共に二社一対の祭祀が続けられて居りましたが
平成十六年十一月三日に当社に合祀され一社となりました。

当社は大日本根子彦太瓊尊(第七代孝霊天皇)を主神とし、皇后、后妃、皇子及び其のご一族を奉斎する。

天皇はご幼少の御時「樂樂清有彦命」と称し、また「笹福」と号された。
古くは砂鉄生産の守護神として篤く崇敬され日野郡開拓鎮護の総氏神として日野大社笹福大明神と尊称された。
ご祭神の原初的な祭祀は古代まで遡ると考えられるが神社としてのご創建は仁和二年(西暦八八六年)との口伝がある。

孝霊天皇が当地に巡幸された折に鬼林山に蟠居する「牛鬼」の名で恐れられる一団が里人を悩ます由を聞し召され、
皇子神達や随従の神々を率いて彼の凶賊を悉く退治された。
現今、境内近くにある鬼塚はその首魁を埋めた場所と伝わっている。

一方、細媛命はご巡幸中の天皇の御跡を慕ってお尋ねになる途中、お産の悩みがあり日野川のとある石の上にお憩いになる。
時節は五月のなかばにして雨が多く降り里人は畏みて菅の蓑と笠とを奉った。

また増水した川の水音が高く聞こえた為、皇后が「水音喧」と仰せになると水の音が忽ち止んだと伝わっている。
よって日野川のこの流域(日野川上菅)を「音無川」と呼ぶようになった。

そして其の地をお立ちになる時「むら雨の露のなさけの名残をば此処にぬぎ置く菅の蓑笠」と御歌を詠まれた。
皇后は更に川上に上られてついに天皇とお逢いになり、宮内の里は良い宮処となり御所と定めて多くの年月を
過ごされたと伝わっている。

即ち当社はご祭神の偉大なる御治績を尊崇追慕して鎮斎された古社で、その宮処こそ「内裏」と尊称された現在の社地である。
爾来、人々の崇敬は変わる事無く開運招福・願望成就の福神として遠近よりの参拝者が今日も絶えることはない。

明治元年「樂樂福社」と改め同五年縣社に列格され、同七年「樂樂福神社」と改称、
同四十年神饌幣帛料供進神社に指定された。また大正八年には近隣鎮座の村社六社・無格社一社が合祀された。

昭和十五年には皇紀二千六百年記念として本殿を新たに造営し、同年十一月に正遷宮祭を斎行した。
戦後は神社本庁の包括神社となり例祭(春季大祭・五月一日)には本庁より献幣使が参向して幣帛料を奉る。

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↑社殿↑
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↑賽銭箱の上の獅子↑
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↑摂社・若宮神社↑
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↑彰徳殿↑
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↑鬼の投げた石↑

(以下、余談)
東樂樂福神社と紹介されていることがありますが、公式では表題の表記でしたので合わせました。
地図上には西樂樂福神社がありますが、現在はこちらの神社に合祀されたので存在しません。
伯耆町の楽々福神社と共に日野郡三楽々福神社の一つに数えられていましたが、落雷による火事で社殿が倒壊しました。
社務所の後ろには、その他の兼務されていらっしゃると思われる神社の棚がずらりと並んでいました。大変ですね・・・

摂社の福榮神社や金持神社とともに巡礼開運神社めぐりの一社となっています。
古くは鉄生産の守護神として崇敬された日野郡開拓鎮護の総氏神です。
「ささふく」は砂鉄から由来する地名と言われ、この地はたたら製鉄が発達したので富をもたらしました。

平成24年度には、JR西日本米子車掌区の特急車内で「開運樂樂福神社切符」を頒布したようです。
神社の最寄駅の生山駅は一部の特急も停車しますので、観光PRも併せていたのでしょうか。面白い試みですね。