石田正継

Last-modified: 2009-11-10 (火) 19:34:31

生まれ

いしだまさつぐ
生まれは不明
1600年の関ヶ原の戦いの時に死去

どんな人?

戦国時代の武将
石田三成の父親

おいたち

出生は不明
たぶん近江国坂田郡にある石田村出身の侍

息子の石田三成豊臣秀吉に使えるようになると、三成を補佐する役目にまわる。
そして三成が佐和山城主?になると、正継も近江に3万石を貰う
正継は三成がいない時の佐和山城を守り、政治も行った

朝鮮出兵の時は、楠木正虎とともに肥前名護屋城で帳簿関係を担当

関ヶ原の合戦では息子・石田三成のいる西軍に入り、石田正澄とともに佐和山城を守備。
が、三成は負けてしまい敗走してしまう。
その後、小早川秀秋らが佐和山城を攻めてきたため、自刃した。

逸話

●京極家の家臣だったという説もある
●和歌や文学に造詣が深い才人と言われていた
●「正継」と名乗るようになったのは石田三成が生まれてから。それ以前は色んな名前を名乗ってたらしい

関連のある人々

石田正澄・・・息子
石田三成・・・息子

祐筆の人物批評

鱒・・・根っからの文化人というイメージがありますね。平和な時代でこそ活きる人物であると思います。

祐筆

●一番手・・・ハガクレ
●二番手・・・鱒