セントラルページ:人の魔女
目次
第一話「その名はルルイヤ」
六年前に発った祖国の土を、ルルイヤは思いのほか早く、また踏みしめることになってしまった。
たった今踏みしめた土は磯臭く、ヘドロ臭く、しかもぬかるんでいる。まるで津波が襲ったかのようではあるが、それにしてはこの街は海から離れすぎていた。
また、この道の脇に並んで立っていたはずの、二階建てか三階建てくらいのレンガ造りたちはまったくその面影を見せていなかった。それらがあったはずの場所には、ただ瓦礫が積もって泥をかぶっているだけである。かつての姿を見ようと目を凝らすとかろうじて、瓦礫の山の下に無傷の土台がひょっこりと顔を出すのみなのだ。
つい下がり気味になってしまう目線を無理に上げて、周りを見渡すと、ここはどうやら更地のようであった。地平線が見えるのである。
この街は今、磯臭く、湿っぽく、おまけに更地になっている。ヘドロの匂いや、吐瀉物の匂いも鼻を衝いていた。
六年の間に何とも劇的な変化を遂げたな、と心中で笑い話にしておくが……いいや冗談じゃない。
はたして我が国バレイデの姿とは、こんなものだったのだろうか。
違う。
彼の知る祖国の姿とは、もっと栄えているものであった。
……だが、それが今はこのように荒れ果てた姿になっているのも事実だった。
時は人暦一三〇二年。
バレイデという国は敗戦の真っ只中にあった。
「このざまじゃ、『あの教室』も無事ではないでしょうね」
ルルイヤの隣を歩く男は、閑散とした水没街を見回しながら言った。展望も無いことをさらりと口にしやがって、とルルイヤは心中で毒づく。
とはいえ間違ってはいないためそう言い返せるものでもない。男の一言に対しては、彼も黙殺するほかなかった。
「……みんな、無事だと良いんだが」
ルルイヤが、半ば独り言のようにして同志たちの安否を気遣う。
彼ら同志たちは皆、徴兵令で散り散りになって配備させられたため、戦時中は互いの状況を全く知ることができないでいた。
だが、戦地からの帰りの船の中で、『戦争の終わりごろになるとどこの戦局も苦しいものだった』とは小耳に挟んでいて、その度に各地の仲間たちに思いをはせて、その度に気が気でなかったのである。
無事を祈ってはいても、既に何人もの死人が出ているのだろうなと、心中で覚悟しなければならなかった。
「けど、皆が生きてたって、これからどうするんです? あの教室だって、もう続けらんないでしょう」
『あの教室』というのは、ルルイヤが戦前、講じていた教室のことである。
先程まで「同志」「仲間」と言っていた者達は、その教室の生徒かあるいは教師のことだ。ちなみに、隣を歩く男も、その教室の教師だった。彼がゴルフ先生、と呼ばれていたのも六年前のこと。なんとも懐かしいように感じられた。
ルルイヤは、ゴルフ・レイエスの言葉にしばらく考え込んでから、「それは俺が何とかするさ」と言って、ニッと白い歯を見せた。
それから二人は、『あの教室』のあった場所へ足を運んだ。その安否を確認するためだ。
結局のところ、ゴルフの言葉通り、それは無事ではなかった。多少の壁を残し、後は跡形もなくなっていた。
ゴルフは、真っ先にここに帰ってくるであろう同志たちを待つと言って、その瓦礫を椅子代わりにして座る。
ルルイヤもそうしようかと考えたが、彼は少しやることがあったので、ここでゴルフとは別れて、また別の場所へ向かった。
ルルイヤの向かった場所とは、『魔女協会』の本部たる庁舎であった。
彼の教室よりは内陸部に位置していたためか目立った被害は無く、その黒いレンガ造りの厳然とした魔城のような風貌は、六年前と比べて変わりなかった。
だが、黒く巨大な門をくぐり、一歩足を踏み入れると、外観は変わらずとも、中身までそのままとはいかないようであった。
要は、ここに着くまでに見てきたものと一緒なのだ。
近隣住民の避難所となっているようで、奥からは忙しない話や子供の泣き声が耳に入ってくる。
この庁舎全体が、敗戦という未曽有の状況に、不安で不安でたまらなく、押しつぶされそうになっているような空気に支配されていた。
受付の者に要件を言う。
「ここの会長殿に合わせて頂きたい。時間を空けてもらえるだろうか。」
受付は、最初の一瞬こそ戸惑いの表情を見せたが、ルルイヤの顔をみるなり慌てだして、「あっ、カレン会長……もしもし、ルルイヤ様がお見えになっておりまして……はい。」と通話を始めた。
ルルイヤは、終わるのを待つ。
「……え、『追い出せ』って……ご友人なのでは……?」
『友人なんかじゃないわよっ!』
発声器から発された指向性のはずの音は、ルルイヤの耳にもしっかりと届くほどの音量であった。
それから、通話を切られたのであろう受付は申し訳なさそうに「あ~……ただいま、立て込んでおりまして……。」とやんわり退出を促してくれた。
それを受けたルルイヤは、「……今日は喧嘩を売りに来たわけではない、と伝えてくれないか」と言って、会長がいるであろう部屋に向かって歩き出した。
取り残された形になる受付は、再度、カレン会長へ通話する。
『今度は何?』
その声音は明らかな苛立ちを含んでいた。
「あー、と……ルルイヤ様が、今日は喧嘩をしに来たわけではない……と申しております……。」
すると、発声器越しに伝わってきていた険悪なオーラはたちどころに収まっていく。
『……そう。なら、少しくらい話を聞いてあげてもいいけど……』
「あ、それが、既にそちらに向かっているようでして……」
『え?』
ガシャン、と音を立てて発生器が収められたのと、ガチャ、と扉が開けられたのとはほぼ同時だった。
発声器を収めたカレン・マークシー会長は、たった今扉を開けて入ってきたルルイヤを睨みつけて言う。
「アンタ、ノックくらいしなさいよ。そういう不躾なところ、軍隊上がりでも変わらないわけ?」
そう言うカレンの顔は、不満げに眉間を強張らせていたものの、どこか嬉しそうに緩んでいた。ルルイヤの身に変わりがないことに若干ながら安堵しているのかもしれない。
友人ではない、などと口走りながら、そのような旧知の友らしき態度を取る会長もまた、ルルイヤに睨まれていたが。
「四年ぶりの再会で、第一声がそれか。俺に関しては戦場を経てるんだぜ。一先ず、生還を祝ってくれないか」
「あら、それを言うならアンタも、まずは私が会長に昇進した祝いの言葉を述べるのが通例でしょう」
これでは押し問答だ、とルルイヤはため息をつく。
その様子を見て満足したのか、カレンは「で、要件は何なのよ。喧嘩を売りに来た訳ではないらしいけど」と、応接用のソファまで移動しながら本題に切り込む。
「立ち話もなんだから」とでも言うようなその会長の鷹揚な態度に乗っかって、ルルイヤもまた、会長とは机をはさんで向かいの、同じ形のソファに座り込んだ。
やたらにふかふかとして座り心地のいいソファだとルルイヤは感じた。戦争上がりだからだろう。
ともかく、ルルイヤは口を開く。
「……ウチに、丸湯を融通してもらえないだろうか」
ルルイヤは伏目がちにそう言った。
その言葉を聞いた途端、カレンは顎を引く。
「ダメよ。」
「そこをなんとか」
両手を合わせて乞うものの、それでも相手の表情は和らぐところを見せない。
ルルイヤは続けて言う。
「もうすぐ、戦場で散り散りになった五百人かいくらの生徒たちが船に乗って帰ってくる。この先、丸湯がないと、困るのだよ」
茶化すかのように、ルルイヤは大仰に肩を竦める。
「昔のイザコザなんかは、もう忘れようじゃないか」と添えたルルイヤの顔は、ひきつった笑みを浮かべていた。
「もう、国内に丸湯なんて残っておりませんのですよ。知らないわけないでしょう? 無い物ねだりはお止めになって?」
会長は、「では、これで」と言って席を立ち、余所行きの帽子を手に取った。
ルルイヤはそれを追いかけて、「南方の、軍需用のサイロの底の底に、まだ四千ばかりか溜まってるらしいじゃないか」と言う。
「隠そうったって無駄だぜ。ゴルフの奴が軍隊の用度課に徴兵されてたんで、そういうのは詳しいんだ」
「……それが欲しい、と言っているのかしら?」
「ああ。」
会長はしばらく考え込むそぶりを見せてから、
「無理ですよ。」と言った。
「でも、六年前、同じ便で海を渡った仲じゃないか。うちの生徒たちの力の程は良く知っているだろ?」
きっと、戦後の復興にも役立てられると思うんだ……。
と早口で説得を試みるのだが、会長の姿勢は決して揺らがない。
「……大体ね、ルルイヤさんのところは魔女協会に加入できていないではないですか。協会ではない者に、丸湯は渡せません。そういう決まりですので」
と口早に言って、では、と扉を開いた。
「……か、金の問題か!?」
それでも、ルルイヤはまだ食い下がる。
頭を下げ、腰を六十度に曲げる。これ以上ない誠意の表れだった。
「……今は、確かに、金は全くない。」
「だが、心配ない。畑はいくらでも耕して、そこで出来た芋をいくつでも売れば、いくらでも金は工面できるはずだ……!」
その惨めな姿をチラと横目に見た会長は、しかし誠意も意に介さず、小さく舌打ちをした。
ルルイヤのことを軽視しているのは明確だった。ルルイヤは、己の誇りが傷つけられていくのを感じた。
「ハァ……。ルルイヤさんは、まだ、私のことを、頼めば何でもしてくれる、人の好い女という風に見てらっしゃるのね」
「……え?」
予想外の言葉に、思わずルルイヤは頭を上げて会長の方を見た。
「……十年前のこと、もうお忘れになって?」
カレン会長の口から「十年前」の言葉が出た瞬間、ルルイヤは「それを今、言い出すのか」と呆れる思いだった。
――十年前と言えば、あの些細な事件をまだ根に持っていやがるのか……!
心中で唾を吐きながら、ルルイヤは「何がダメなんだ」と思った。
「ともかく、アンタんところに丸湯は回しませんから。……私もこの後、用がありますので、これで。」
会長はそれだけ言い残して、その部屋を去った。
追いかけようとしたルルイヤだったが、一歩を踏み出した瞬間、『見えない壁』に阻まれ行く手を遮られる。
自分が加えた力そのままに、壁に押し返され、盛大に尻もちをついてしまう。いかにも魔法使いらしい手法だった。
地べたに倒れこんで、横目に窓の外を見上げると、カレンはとっくに竹箒に跨って空を飛んで行っていた。
その奥に見える空模様は曇天であった。
同じであった。
あの日と。
十年前と、同じ――
◇
「――しつこいんだよ!」
苛立った看守に肩を押され、尻もちをつく。
しかしルルイヤはめげずに、もう一度立ち上がる。
「通してくださいよ! このブローチは偽物なんかじゃありません、俺にも試験を受ける権利くらいはあるはずです!」
ルルイヤはそう叫びながら、胸元に付けた木の葉の形をしたブローチをかざしながら、魔女協会の庁舎と同じ、黒いレンガ造りの門をくぐろうとして再度看守に押し止められる。
彼が身に付ける金色メッキのブローチは、正式には「魔女見習い課程修了証」と呼ばれるものであった。
魔女に直接弟子入りしてその技術を学ぶという、古めかしい教育システムに組み込まれたそれは師匠から実力を認められたものにのみ与えられる装飾品だった。
これを身に着けていることが、「魔女試験」を受ける者の最低条件である。
魔法というのは便利なもので、そのブローチは付けた者の認証が無い限り、外すことはできない。それによって、盗難などを防止するのだ。
だが、それも、服ごと盗まれてしまえば同じだという課題が、最近は論議されているようだが……。
看守は、ルルイヤの体を門の前になんとか留めながら怒声をあげる。
「よしんば本物だったとしても、お前みたいな泥汚い子供にそんなもん与えられるわけねぇ! どうせ、服ごと引っぺがしたんだろ!」
こうなれば、意地の張り合いであった。
ルルイヤの外套を脱がそうと手を伸ばす看守と、取られてたまるかと逃げ回るルルイヤ。
看守の方が体が大きい分、ルルイヤは押し合いで不利だった。
が、ルルイヤはまだ未発達な小さい体躯を生かして看守の手をすり抜ける。
ヘヘっ、と笑ってそのまま門へ駆け抜けていくのだが――
ガンッ!
ルルイヤは、『見えない壁』に阻まれた。
後ろに倒れこんで尻もちをつき、視界は一転して曇り空を映す。
どういうことか、と思って看守の方を見ると、その手にはルルイヤがさっきまで羽織っていた外套が握られていた。
魔女見習い課程修了証も、その外套に付けられていたのだ。
ブローチを身に着けていなければ入れないぞ、とでもいうような薄汚い笑みが、看守の顔には張り付けられている。つまりは、そういうことだった。
ルルイヤはおでこにできたたんこぶも気に掛けず看守に突進する。が、逆に首根っこの襟を掴まれ、門とは反対の方向に引きずられて連行されてしまう。
「だぁーっ! 俺は魔女見習いだぞぉー!」
腕と脚を振り回し、石畳の道の凹凸を尻の痛みでもって感じながら、ルルイヤは叫ぶ。
ば……万事休す か……!
「おやめなさい」
と、その時、突如として、第三者の声がその場に響いた。
看守の、太く良く通る声ともまた違う、凛とした声だ。
「リ……リックウェル・マークシー会長……⁉」
看守がその姿に驚いて、自然と手の力を緩めたので、ルルイヤはどうにか立ち上がることができた。
会長、と呼ばれたその女性は、いかにもしわだらけの老体であったが、一目でわかる気品と壮健を持っていた。
魔女らしい鉤鼻と頬に浮かぶデキモノが、まさに古株の魔女だというのを説明していた。
その魔女が口を開く。
「看守、その子が何かあって?」
看守は居住まいを正し、「こやつ奴は、よもや神聖なる『魔女見習い課程修了証』を服ごと盗み、あまつさえそれで試験を受けようといたしまして……。その様を看破した私めが、取り押さえた次第にござります。」と報告した。
だが、リックウェル会長は看守の方に向き直ってから、そのブローチをまじまじと見つめると、「それは、あの子が持っていたはずのブローチじゃないの……」と独り言ちた。
ルルイヤはその言葉を耳に入れても、よく分からなかったが、修了証となるブローチは、それを託される魔女ごとに形状が異なり、それによって、コイツは誰誰の弟子、そいつは誰誰の弟子、と言う風に判別が可能だったのだ。
リックウェル会長は、信じられない、と言った目でブローチとルルイヤを交互に見やる。
「……看守。」
「はっ」
そのコート、返しておやりなさい。と素っ気なく言う。
意地で渋る看守の手から、ルルイヤはコートを引っぺがした。
ひと悶着ありつつも、何とか試験にはこぎつけたか。
そう安堵したのも束の間のこと。
「しかしね、アイナ・カバサのお弟子さん。アイナがあなたにどう教えたかは知りませんが、魔女になるには、その名の通り、女性である必要があるのですよ。」
会長は態度を一変させた。
そういう決まりですので、と言ったその顔は、にっこりと笑みを浮かべていた。
◇
今、思い出しても腹が立つのである。
ルルイヤにとって、あのしわだらけの鉤鼻ばあさんは、生来の仇敵とも呼べる存在であった。
その仇敵がこの度、戦争犯罪人として一斉検挙に遭い、終身刑を受刑し「魔女協会会長」を免職。
その代役として魔女協会会長の座に繰り上がったのが、あのカレン・マークシーだった。名前から分かるとおり、二人は親子であるが……。
折角、目障りな敵役がいなくなってホッとしたと思ったら、旧友であったカレンにまで同じような態度を取られてしまうと、結局、二人は血のつながった親子なのかと失望せざるを得なかった。
まるで裏切られたような気分だった。
カレンとは同い年であり、今年で二十八歳になる。別に、子供の頃からの仲というわけではないにしろ、それでも、こうして腐れ縁を断ち切れずに既に十年程が経っている関係を親友と呼ばずして何と呼べるのか。親友と親ではどちらが大事なのか。ルルイヤは、カレンに聞いてやりたい気持ちだった。
とぼとぼ、と、進みの悪い足で帰り着いたのは、ゴルフが待っている『あの教室』だった。
やはり、その閑散とした街の中でその教室を見つけるのはそれなりに苦労を要した。全てが瓦礫になって、教室も瓦礫になってしまっては、見わけもつかないのである。
ちょっとだけ残った壁の脇からひょこっと顔を出すゴルフを見つけて、ようやく駆け寄る。
「ん、おかえりなさい」
「お、帰ったか」
そこでルルイヤの帰りを待っていたのは、ゴルフを含めた二人の男だった。
体が大きく筋肉のあり、年老いている方が、ゴルフ・レイエスで、それと比べて体が小さく、眼鏡をかけた若い男の方がミオ・エッフェルミンといった。
「……ミオ! 来てくれたのか」
「ん、まぁね。心配だったんで」
ミオとは六年ぶりの再会だった。熱い抱擁を交わす。
こうしていると、なんだかあの頃を思い出してしまうな、と思ったルルイヤは自身のおじさんっぽさに思わず苦笑を浮かべ、それで二人に変なものを見る目で見られる。
ルルイヤは話題を逸らすためにも、教室跡地を見回してから二人に聞いた。
「……生徒たちは、まだ帰ってきていないのか?」
するとゴルフが口を開いて、「いや、既に一度、ここに集まりました。が、ひとまず今は自宅待機をするように、と。」と言った。
「しかし、自宅が損壊してしまった子はどこへ? 元から家を持たなかった子も何人もいたはずだ。彼らはどこに?」
そう聞くと、ミオの方が少し困ったような表情を見せた。
ゴルフが答える。
「あー、そういう子らは……他の子の家に、上がらせてもらっている状態で……。」
その説明文は、ゴルフの言葉にしては妙に歯切れが悪い。
……きっと、帰ってきた生徒たちの数が、思っていたよりも少なかったのだろうなと、ルルイヤは察した。
生徒たちは、必ずしも家を持った者とは限らなかった。
それこそ、戦前は五百人中二百人ほどは家のない放浪人だった。彼らには、できる限り教室の方で寮を用意してやっていた。今は、教室と同じく被害がひどくて住めるような状態ではないが……。
それを、残り三百人の生徒が面倒をみきれるわけがない。確実に、家無しの者の数は減っていたと推測された。
家の無いような子は戦場で突貫しやすいのだろうとは、自分のいた戦場でも薄々感じていたことだった。だからあまりショックではない。
……しかし、悲嘆に暮れる思いくらいはある。
「そうか」とだけ言って、今にも雨が降り出しそうな曇天の空を、ルルイヤは見上げた。
雨の匂いがしている。
涙を堪えているような空だった。
あの日の、二人の顔と似ていた。
◇
「ちょ、泣くなって! 眼鏡の人!」
見知らない人がボロ泣きしているのを、ルルイヤはなぜか酒場の席で慰めていた。昼間から酒を飲む荒くれたちの喧騒もすごいのだが、この眼鏡をかけた男も、それに負けないほどにわんわん泣いていた。
この号泣している眼鏡の彼は、つい先ほど、ルルイヤと同じように看守に引き留められてそれですごすごと引き下がった男だった。
その一部始終を見ていたルルイヤは、つい先ほど同じ屈辱を味わった身としては、とてもではないが無視できなかったのだ。
とりあえず近くにあった酒場に連れ込んで、眼鏡の彼を座らせ、その隣に座って背中をゆすったりしていた。
泣きじゃくる顔を見ると、兎に角くっしゃくしゃに歪んでいるとしか分からなかったが、その端々にある情報を掬っていくと、どうやらルルイヤよりも年下っぽい顔立ちだということぐらいは何となく分かった。
「ミオ……」
「え?」
ようやく泣き止みかけたと思うと、メガネは唐突に口を開く。
「ミオ・エッフェルミン……僕の名前です……。」
ミオ、と名乗った男は、鼻水と涙とが混ざった体液を丁寧にハンカチで拭き取った。
泣き止んだし、もういいかな、と思ってその席を立とうとしたルルイヤだったのだが――
「――隣、座るぞ。」
その声を発した者とは。
「お前は、看守っ!?」
そう。
その声を発した者とは、ルルイヤに窃盗の疑惑を吹っ掛け、ミオの試験を阻んだ忌まわしき相手。
黒い門の前に立っていた、体の大きなあの看守だったのである。
「なっ、ななな、なな、なんでここに……」
ミオはたじろぎにたじろぎまくり、ビビりにビビりまくりながら相手の存在理由を問う。
看守は、その様子をけらけらと笑い飛ばしてからから答えた。
「ま、常連だからな。この酒場の……。」
と言って、マスターに「アシェッタを一杯」と気取って頼む。
アシェッタとは、要するに安い酒であった。アルコール濃度は低く、腹がタプタプになるまで飲んでも酩酊しないほどだと言われている。そのため、多くは、清潔な水の代替として扱われるような代物である。
そういう事情があるのだが、ルルイヤもミオも酒には詳しくなかったので、この男はなんだかそれっぽい雰囲気があるなぁというくらいにだけ感じた。
看守はその視線を、「酒を飲む大人に憧れる子供」の視線だと勘違いしてか、得意げになる。
「今日は収入があったからな。惨めな魔女見習いもどきのお前ら二人に、奢ってやってもいいぜ?」
と言って、看守はメニューブックを二人に手渡す。
なんだかんだありつつも少しうきうきした様子で酒を選ぼうとするミオを横目に、ルルイヤはまだ看守を睨みつけていた。
「看守、今日の収入ってのは、どうやってもらったんだ?」
「ん、お前らも見ただろ。看守の仕事の賃金だ。日雇いだが、いい給料してる」とアシェッタを啜りながら答える看守。
「そうか……。じゃ、俺は何も頼まないぜ。」
ルルイヤは腕を組み、ミオの耳に口を寄せて「値が張るやつ選べ。できるだけ高いの」とか囁き始め、それを聞いて焦った看守にぺしっと叩かれたりする。
ミオに囁きながら、自分は何も頼まないのは、自分をコケにする仕事で稼がれた金で、酒を奢ってほしくはないという気持ちが働いていたからだった。
酒が決まったらしいミオは顔を上げて、マスターに「ゴゲア・シックを一杯!」と言った。
ゴゲア・シックとは醸造酒の一種で、アシェッタと比べてアルコール濃度がとても高い。なかなか貴重で高価なものだった。
看守とマスターは「こいつなんてものを頼みやがる」という目でミオを見たが、当の本人は初めての飲酒に浮足立って、その視線には全く気づいていなかった。
結局、ミオの前には一杯のミルクが出された。看守が口をつけているアシェッタのグラスもそうだが、ミルクのグラスの容積は非常に小さく、酒の味を楽しむだけなら十分なのだが、喉の渇きを癒すような目的では全く役に立たなそうだった。ミオの興奮は一気に冷めてしまう。
マスター曰く、「お前のようなガキんちょには、ミルクがお似合いだぜ」らしい。看守は財布を仕舞って、ほっと胸をなでおろした。
ミオがミルクをちょびちょびと啜り始めると、ルルイヤは看守の瞳を見つめた。
「看守、頼みがある」
その声を聴いた看守がルルイヤと向き合うと、看守は少し驚かされてしまった。
ルルイヤの目は鋭かった。それでいてカッと見開いており、眼力がある。この独特の目は、看守も生まれて初めて出会ったものだ。
たじろぎながらも「なんだ?」と問う。
ルルイヤは、少し考え込むそぶりを見せたが、すぐに向き直って、言った。
「俺を魔女試験に出させてほしい。」
その言葉を聞いた瞬間、ぷはっと息を吐く。
確かに、魔女試験は三日に渡って行われる。一日でやろうとすると試験を受ける数が多く面倒が見切れないので、三日に分けてやるのだ。
今日がまだ二日目だったので、確かに、まだ三日目に希望はあった。
しかし、そこまで知っていても看守は手を横に振る。
「ムリ、ムリ……リックウェル会長の言葉を聞いてなかったのか? 男は――」
「――魔女になれない。」
看守は、ルルイヤに言葉を遮られた。
ルルイヤはそのまま続ける。
「そんなこと、誰が決めた?」
看守は、今、衝撃を受けたかもしれなかった。
軽く、目の前の十八歳程度の年下の子供相手に、さりげなく、心の隅で、感服してしまったという自覚があったのだ。
知識のない子供に安い酒をひけらかしていかにも大人ぶる、情けない大人だから、なのだろうか。
「男は魔女になれない。」
「魔女に男はいない。」
その文言は彼の中で、ある種、固定観念のようなものだった。
彼は繰り返し言われてきた。
夢は夢だ、と。
諦めよう、と。
お前には無理だ、と。
だから、この男はこれまでその通りだと思っていた。
だから諦めた。
日雇いの仕事を探して、酒に浸る生活を送ることにした。
だが、目の前の少年は違う。
同じ局面にあって、言ったのだ。
誰が決めた、と。
それでもやる、と。
俺は魔女だ、魔女見習いだ、と。
ルルイヤはこの看守と言う男が、さては昔は魔女を目指していたのかもしれない、と先程から勘繰っていた。
というのも、普通、惨めな魔女見習いもどきなんぞに、酒を奢るような人間は、なかなかいないだろうから怪しかったのだ。
それに、彼の言動の節々には「神聖なる『魔女見習い課程修了証』」だとか、魔法職に対する尊敬の念がにじみ出ていたことも思い出された。
また、それを証明する何よりの証拠として。
ルルイヤは見つけていた。
彼が羽織っているシャツの襟。
そこに「銀色のブローチ」が……即ち、『魔法使いの証』が、未だに鈍い光を放っていたのを。
看守は、確かに夢を諦めたのかもしれない。
それでも、ルルイヤから見れば、もう過去のことであろうに一旦は魔法使いだったという経歴にこだわり続ける男は、まだ諦めていない男に見えたのだ。
だから言う。
「俺も諦めないつもりだぜ、看守。」
「三十歳になっても、四十歳になっても、五十、六十、七十になっても、俺は魔女を目指し続ける。」
「看守。アンタは、どうする?」
看守は、いつの間にか泣いていた。
自分でも気づかないうちに……。
外はいつの間にか、ひどい雨になっていたが、それも気にならないくらいの泣きっぷりだった。
「看守じゃない……」
鼻声になっているのを悟られまいと、泣いているのを悟られまいと、そっぽを向いて言う。
「ゴルフ・レイエス、が、俺の名前だ……! 今度からそれで呼べ……」
ゴルフは服の袖で顔の体液を拭う。
ルルイヤとミオは互いに目を見合わせた。ルルイヤも、まさか年上の大の大人が泣き出すとは思っていなかったのだ。
ミオに関しては、門外漢と言った体で、グラスに残った残り少ない牛乳を相も変わらず啜る作業に戻る。目をそらしたくなるくらい、今のゴルフ・レイエスの姿は大人げなかった。
ルルイヤは聞いた。
「……で、協力してくれるのか、しないのか?」
「……する。してやる。」
不愛想に言ってから、赤くなった頬をふくれっ面にして、「できる範囲でだけどな。」と付け加える。
今度はルルイヤが名前を教えてやる番だった。「俺の名前も、教えとかないとな……」
「俺の名はルルイヤだ。よろしくな、ゴルフさん」
と、握手のために手を差し伸べたのだが……。
「……あ? ……『ルリーア』って言ったのか? 言いにくい名前だな……。」
ルルイヤはその手を引っ込めた。
その日から、ゴルフはルルイヤに敬語を使うようになった。
それからというもの、ミオがルルイヤをからかう時には「ルリーア」と呼ぶことが様式美になってしまった。
そのたびに、ゴルフは、ルルイヤに申し訳なさそうな顔をするのだ……。
◇
そこからの日々を思い出そうとすると、もうずっと胸が痛んでいた。
ルルイヤら三人は、あれからというもの、同じく魔女になる夢を持ちながらもそれを叶えられない者、つまりは同志を募るようになった。
集った者達で組織を結成し、男性でも阻害なく試験を受けられるようにするための活動をしたりだとか、試験に受かりやすくするためのコツのようなものを皆で教え合ったりだとかをした。
早い話が、予備校だったのである。
それが、ゴルフが『あの教室』と呼んでいた『ルルイヤの教室』だったのだ。
何人もの同志たちがいた。
その数は戦前で五百名にまで登った。だが、後日詳しく確認を取ったところ、戦争を経た今ではもう百名にまで減っていた。
苦労の積もる日々ではあったが、しかし、楽しい日々でもあった。
男性差別に対して憤った日も、何度となくあったかもしれない。苦しい差別に遭ったこともあった。
しかし、今は、ない。
ルルイヤは、今、初めて、戦禍というものを間近に感じたと自覚した。
戦争帰りの船の中では、仲間を失って消沈した者の背中を撫でて「分かるさ、その気持ちは……」と慰めていたのに、それも嘘に過ぎなかったのだと気づいた。
ルルイヤは泣いた。
この夜、教室の瓦礫を少しだけどかし、急遽調達した布類を床に敷きその上で就寝した男三人。ルルイヤは他二人に背を向けて眠っていた。
すべてがゼロに戻ってしまった。
彼はそう思った。
意識はすぐ闇夜に溶けていった。
日の出かけた朝方、ルルイヤの意識が暗闇から覚醒を果たしたのは、冷たい風にさらされたりしたからでも、雨に打たれたりしたからでもなく、外から聞こえてくる何人もの男たちの野太い声が聞こえてきたことによるものだった。
「この金具、変形しちゃってるんですけどどうしますかー!?」
「行くぞっ、せーのっ!」
「泥はちゃんと集積するんだ、適当に放り出すなよ!」
上半身を起こしてあたりを見回すと、周りにあったはずの瓦礫の山が消えていた。
鼻を衝いていたヘドロの匂いも、いくらかマシにはなっていた。
そしてそれをしたのは誰なのか。
その顔触れには見覚えがあった。
最後に彼らと会ったのは六年前だ。当時はまだ幼くあどけなかった顔立ちが、今では精悍になっている。
食事も満足に取れていないのか、頬骨も出ているし、筋肉の付きも悪い。そういった環境の違いこそあれど、ルルイヤが見間違えるはずがなかった。
人数は確かに少なくなっていたが、確かに彼らは、ルルイヤの教え子たちだった。
「よく、眠れたか?」
隣から声を掛けられる。
その声の主は、教え子の一人であるプデトディーテ・フンスだった。
戦場から帰った今も未だ二等兵の粗末な軍服に身を包み、胸元には南方軍のマークが縫われている。
彼は、いかにも生真面目そうな顔をして、普段過ごしている優等生なのだが、その実、他人を見下しがちなところがある男であった。プライドが高いのだ。
過去、教える側として接したとき「上から目線をやめろ」と何度も言われていたので、そのことでルルイヤはよく覚えていた。
こいつという男は、年下にも拘らずルルイヤに敬語を使わないのである。
「まぁね。……で、プディ、これは?」
そんなプデトディーテに、目の前の光景について何気なく問う。「プディ」は、プデトディーテとかいう長ったらしい名前の略称である。
「ちゃんとプデトディーテと呼べ……誇り高き名前なんだぞ!」
プディはそう言いながら、泥まみれの両手を擦り合わせて泥を取る。
「まぁ……これには俺も驚いたんだが、シベットの奴がまだ日も登ってない頃に来て始めたんだと。それで、順次ここに来た奴がどんどん手伝いはじめて、気づいたら、戦争の死にぞこない百人程度が集まっていたらしい。」
この調子なら昼には撤去くらいは終わるのかな、と続けるプデトディーテを横目に、ルルイヤは、この目の前の光景に心を奪われていた。
これまで、生徒達からは授業料も何も、金らしきものをもらったことはなかった。
金儲けのために始めたことではなかったし、それに教室というよりは結社のようなものだったから。
それが原因で困ったことは何度もあった。
金が必要になることは往々にしてある。
国から結社として認められるためには、条件の一つに「安定資産を百二十万カシール*1以上保有していること」と「年間所得額が三十万カシール以上」とあるのだが、安定資産と認められる建物である教室も、資産としては二十万カシール以下であり、また所得額は一カシールもなかった。
そのため、結社にのみ許可されるデモ活動や訴訟が行えなかったのだ。そのためにどれだけ、魔女協会から不当な扱いを受けて来たか、両手の指では数えきれない。
だが、それでも、教え子たちがこうして教室の瓦礫を撤去している姿を見ると、それでよかったのだと言えた。
現金な考えを持つゴルフからは幾度となく「多少なりとも金銭は徴収したほうがいい」と言われ続け、本当にそうしたほうがいいのかもしれないと不安の念を胸に秘めていた。
それでも、ルルイヤは己の信念に従い、「生活に困っている者がいる」として徴収はしてこなかった。
その不断の努めが、今、こうして実を結んだのだと思う。
情けは人の為ならず。
その一言に尽きた。
「こうしちゃいられないな……!」
ルルイヤはがばっと飛び起き、毛布代わりにしていた外套を羽織りなおす。
「俺も混ぜてくれ!」
人の集まっているところへ駆け出す。
彼らは、大きくてどうにもならない瓦礫をどうにか持ち上げようと奮闘している一団だった。
「ルルイヤ先生!」
「久方ぶりですか」
「おはようございます」
彼らはルルイヤに気付き、瓦礫を掴んでいた手を放して礼をしてきた。
「またこれは、重そうな瓦礫だな……。」
ルルイヤは呟く。確かにこれは、そこにいる六、七人程度の人数ではどうにもならないだろう。
だが、ルルイヤはこの課題にも難はなかった。
「お前ら、俺が教えたこと忘れたのか……?」
彼らが後ろずさるなか、ルルイヤは前に躍り出て言う。
「こういう時こそ、魔法だ」
瓦礫の表面に指を這わせ、肺から息を絞りきる。
青白い光が、ぼんやりと、その瓦礫を覆いだす。
「『念動』ができるやつ、手伝ってくれ!」
ルルイヤがそう声をかけると、二、三人が出てきて瓦礫を掴む。
「行くぞっ、せーの!」
瓦礫はその瞬間、宙を浮いた。
そうして大質量が空を移動し、近くの河原まで運ばれた。
「よし、あとは細かく砕くんだ。」
そうして、この時少し難航しはじめていた撤去作業はルルイヤによって障壁を乗り越えた。
ルルイヤが瓦礫を細かい粒にし終わってから再度教室に戻ると、その風景はまた変わっていた。
先程までの、男たちが汗を流していた肉体労働と異なり、なるべく魔法を使っての効率よいやり方が行われていた。
ルルイヤ達が瓦礫を浮かせたのを見て、学んだのだ。
重い物を持ち上げるだけでなく、『燃焼』を操れる者は火を出して泥を炙ることで、余計な水分を乾かして軽くしたり。
『電磁』を操れる者は、危険を取り除くことを兼ねて、細かい釘などだけを取り出して後で金に換えるためにのために取っておいたり。
そうした工夫を重ね、働いているうちに、教室跡地には歌が響くようになっていた。誰かが思わず口ずさんだ歌から始まったのだ。
みんな、決してやらされているわけではなかった。
みんな笑っていた。
ゴルフ・レイエスやミオ・エッフェルミンも、プライドの高いプデトディーテも加わり、全員で泥だらけになって笑顔を浮かべながら作業をしていた。
マシになったとはいえど、そこには確かにヘドロの匂いもあった。
だが、辛くはなかった。
何も苦しくはなかった。
まだゼロに戻ってはいない、と。
ルルイヤはそう思った。
そして、ルルイヤ自身、気づいて驚いたのが、瓦礫の撤去に参加している者が、いつの間にか生徒たちだけではなくなっていたことだ。
鼻歌から始まった歌を聞きつけた近隣の住民が、公共の事業だと勘違いして手伝いに来たのだ。
事の次第を聞いて公共事業ではないと知っても、「今度はウチの瓦礫の撤去をする」という口約束を結んでその代わりに手伝ってくれる。
この一連の撤去作業の指揮を執っていたベッシ・サネスが、勝手にその場の勢いで口約束を結んでいただけのだが、ルルイヤはそれでもよかった。
むしろそれがよかった。
教室の瓦礫は、プデトディーテの予測通り昼下がりには片付いてしまった。あれだけ散乱していた瓦礫は、細かい砂を残して運び出され、ヘドロ臭い泥も外に集積されていた。
一先ず、教室の修理などは置いておいて、生徒たちも、次は手伝ってくれた近所の方々の家から瓦礫を撤去するために方々に散っていく。
日が真上から照っていた。
ルルイヤはこの景色を、初めて見たような気がしていた。
その日、ルルイヤの教室属する「水没街地区」とまで揶揄された『レイテ』の街はものの見事に復活を果たした。
あの時誰かが口ずさんだ歌は、今もレイテの地に響いている……。
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