AAR/もしロシア人たちが/2

Last-modified: 2020-10-01 (木) 02:17:09

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余がまだおさなかった頃、父君であるリューリク公は余をとてもとても愛してくれていた。
余が8歳になった時、ある事件が起こり*1、母君が投獄され、父君は世のなかにたいして非常にシニカルになってしまわれた。
愛してくれた父君はもういない。余はそれから父君の猜疑の眼差しをうけて育った。父君は、余が、ほんとうに自分の息子であるかどうか疑ったのであろう。余は忠勤に励むよりほかはなかった。

WAR, WAR, and more WAR.

余が24歳のとき、父君であるリューリク公が崩御された。
ノヴゴロドに君臨し、ミンスクを従属させ、ヴラジミルを征服したこの偉大な人物の死にロシア人たちは皆、涙したと伝えられている。
だが余は涙をながさなかった。悲しくもなかった。余と父君のあいだの関係は、それほど冷え切っていたのである。

余が父君から受け継いだものは、アッラーへの信仰と、ロシア文化、略奪で築いた大量の富と常備軍、そしてノヴゴロドとヴラジミルの二つの王冠であった。

さらに余は、父君の代からの3つの戦争をも引き継いだ。
つまりピンスク公との戦争と、ウスタング公との戦争と、そしてカザン汗国との戦争である。
さらにこれらの戦争中、余らに従属していたミンスク公が継承問題で領域外のものとなってしまった。

前途は多難である。

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(ヒジュラ暦280年頃のロシア。)

だが余は我武者羅になって戦争を継続した。
父君から受け継いだ常備軍、そして大量のグロヴナを支払って雇った傭兵たちが八面六臂の活躍を見せ、ピンスク公、ウスツング公、カザン汗による侵略を跳ね返した。
さらに余は、それから10年間のあいだに、
カラチェフ公、
チェルニゴフ公、
ピンスク公、
ツーロフ公、
そしてキエフ公を征服した。

気づけば余が頭上に戴いている王冠の数は、
ノヴゴロド、
ヴラジミル、
白ロシア、
ルテニア、
そしてブジャルマランドの5つにのぼった。

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(ヒジュラ暦293年頃のロシア。ほぼロシア全域をカバーするクヌート大王の最大版図。クヌート大王は外征を繰り返し、王国の領域を極限まで拡張したが、他方で侵略戦争を繰り返すことにより領民には不評で、統治下では農民反乱が相次ぎ、領域の統制はずたぼろで、直轄地の年貢や徴収兵の規模はそう大きくはなかった。しかし威信評価と信仰評価のレベルは相当程度高かったため、属州からの年貢と徴収兵でクヌート大王はさらなる外征を繰り返すことができた。もちろん、さらに繰り返した外征でロシアは疲弊し、この疲弊はつぎの代に多大な負の影響を残すことになる。)

余はその後も征服を継続し、
ノヴォシル公、
ハリーチ公、
チェヴェン町衆、
フロドナ公を征服した。

数々の勝利に彩られた余は、この頃までに「生ける伝説」「宗教的偶像」と見做されるまでになった。

余はヒジュラ暦328年に没するまで、31度の戦争を行い、そのうち21度は征服戦争だった。そしてその戦争のほぼすべてに勝利した。

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余は臨終に際して父君のことを思い出す。
なるほど、余はもしかしたら偉大なリューリク公の実子ではなかったかもしれない。
しかし余は、「生ける伝説」として、「宗教的偶像」として、始祖リューリクを遥かに凌駕したという自負をもっている。
父君はノヴゴロドとヴラジミルを征服したに過ぎない。余は、全ロシアを征服したのだ。
だから余は、もう昔ほど、実子ではないかもしれないという風評を気にしなくなった。
ひとはロシアの王朝を、リューリクからはじまったとは呼ばず、余、つまりクヌートからはじまったのだと評するだろうからである。


*1 リューリクをイングリッドが裏切った事件のこと。