アイヌ国

Last-modified: 2023-07-13 (木) 22:57:20



Online?Today?Yesterday?Total?



藍渟王国
ཨཨིནུ-ཁིམི-ཁུརུརི

無題67-2_0.png

国歌:藍渟王国国歌

概要

藍渟王国 (アイヌおうこく、アイヌ語: aynu /utari)
通称藍国は、

神識島、樺太島、大陸東北部(東シベリア)、海西(満州東部)に位置する立憲君主制国家である。

基本データ

基本データ
公用語藍渟標準語(aynu)
首都茲京
最大の都市茲京
政治体制立憲君主制
国王
現首相于呂家 青(ウロッケ・シカ)
与党労働党
人口7845万人
面積万k㎡
人口密度.人/k㎡
首都茲京
最大都市ハルビニ特別市
公用語藍(藍渟)語
宗教上教80%その他民族宗教8%
国内総生産
通貨() ≒円
国花

概要

7世紀に誕生し、日本、騎馬遊牧民、中国諸王朝からの干渉を受け続けたが、

大航海時代に地の利を活かし多大な利益を上げた。
第二次産業革命をアメリカと並んで果たしたことで国力は更に増し、19c中期には中央シベリアからロッキー山脈以西を領土とする大帝国となった。

しかし藍米戦争、日藍戦争、藍露戦争による疲弊、
植民地の独立で領土は減り続け、現在の国土になった。


樺太の開発等で戦前からアジア屈指の資源国であり続け、産業の発展に大きく寄与する一方、
豊富な石油資源は戦後は新たな歪みをもたらした。


歴代国王は中央集権化、近代化を押し進めアイヌを列強に押し上げたが、19世紀の相次ぐ敗戦で政治家からの求心力を失い、現在は政治的権限を殆ど持ち合わせていない。
現国王は白普印王(はくしんいん、ハクシュイン 1987~)。

国家

正式名称は藍渟王国
(アイヌキミクルリ、あいていおうこく)である

国号の由来

藍渟(aynu)

「アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、

もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)

に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。」
(wikipedia「アイヌ」より)

このように古来からアイヌという言葉は使われてきた。
高句麗や渤海との交易から自民族を指す言葉となり、
守支(カムシ)王朝成立後正式に外交文書に
使われるようになった。

日本語では逢布と表記されることも多い。
(「鐚夷怒」の表記は差別語にあたるので注意すること。)

地理

アイヌの国土は
大陸東北部(極東シベリア、満州西部)と、
神識(カムシリ)島、南道(日本東北)
〇〇諸島などからなる。

南は日本国と朝鮮共和国に、東はアシルヤ 国に、西はロシア連邦と中華人民共和国に接する。

気候

自然

歴史

詳細はアイヌ国史を参照のこと。

政治

君主である国王は大儀によって任命される
国王は国家の象徴であり、儀礼的職務のみを行う。
政治的権限は殆ど持っていない

立法機関である議会二院制である。2008年総選挙時の定数は683議席で、議員の任期は4年。議員の選出方法は比例代表制、小選挙区制による。

行政府の長は首相である。
藍渟国は首相公選制を採っており、
下院選挙が実質的な首相選出選挙である
議会の総選挙後に、国会議長が副議長及び各党の代表者を招集して新首相を推挙し、議会の過半数の反対でないことで承認される(反対票を投じないまでも、賛成できない議員は、投票を棄権する)。その後、国王の臨席する任命式において国会議長が新首相を任命し、新首相は同時に各大臣を任命し組閣を行う。

軍事

藍渟軍は陸軍、海軍、空軍、特別軍の三軍からなり、国防省の管轄下にある。

徴兵制は廃止、現在は志願制。

国民

2016年の国勢調査で人口約7845万人、
74.12%が藍渟人(南藍人や新藍人を含む)。近世の大帝国時代においても、東南アジアの植民地を除き、
藍渟人が大多数を占め続けており、国民感情に影響を与えている。
とはいえ多数の少数民族を抱える多民族国家である。
他の民族は、1番人口の多い漢人(約800万人)、日本人、北部に在住する上佐須人(カムチャツカ人)、馬易留人などがいる。

漢人の多さは河西地域併合前に行われた後明朝の植民政策に起因する
漢人の既得権益層は厚くなっており、分離独立や中国への"復帰"を求める勢力は減退しつつあるが、
賃金水準の低さや教育問題など課題は山積みである

宗教

上教(アイヌ仏教)が80.2%である。
古くから大陸から受容した大乗仏教を信仰していた。
しかし源頼朝による奥州攻め(アイヌでは己酉倭乱)
などで国内が混乱、
これに乗じて右鼈寺の僧である泰彫が王権を奪取する(泰家政権)
寺社は優遇され荘園を拡大、経済力を背景に政権は栄えたが、そこにモンゴルが攻め込んできた。
樺太を越え雪崩込んできたモンゴル軍に、各寺社は抗戦の構えを見せたが、そのために敗北後は徹底的に弾圧され、ニ大寺と名高いものであった右鼈寺、左鼈寺も焼かれた。
弱りきった大乗仏教の代わりにと持ち込まれたのが、
元宮廷の間で流行していたチベット仏教だった。
しかしこれも〇〇の乱後には廃れてしまい、
新仏教が流行することになる。その中で支持を獲得したのが、王権の正当化や密教の要素が盛り込まれた上教であった。