ソレイユ共和国

Last-modified: 2019-03-18 (月) 10:19:01

ソレイユ共和国(それいゆきょうわこく)、ソレイユは、インド洋東部にある主権都市国家かつ島国である。赤道の137km北に位置する。同国の領土は、菱型の本島であるソレイユ島及び63の著しく小規模な島々から構成される。
同国は高度に都市化され、原初の現存植生はほとんどない。同国の領土は、一貫して埋立てにより拡大してきた。
ソレイユは事実上1つの都市から構成されているため、ソレイユ国内には地方自治体が存在しない。このため、首都も建前上はソレイユ市となっているが、実際には首都(ならびにソレイユ市)は存在しない。

概要

国旗
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国章
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軍旗
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地図
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公用語ソレイユ語、英語、中国語、タミル語
首都ソレイユ市(都市国家)
大統領リー=ジェスン
首相ルン=シェロン
面積719.2km2
人口561万人
人口密度7697人
GDP2,927億ドル
通貨ソレイユドル

省庁

地方自治開発省地方自治に関する業務を担当する。
国防省国防に関する業務を担当する。
教育省教育に関する業務を担当する。
環境省環境に関する業務を担当する。
財務省財政に関する業務を担当する。
外務省外交に関する業務を担当する。
保健省保健、衛生に関する業務を担当する。
内務省内政に関する業務を担当する。
情報芸術省情報発信に関する業務を担当する。
法務省法律に関する業務を担当する。
労働省労働に関する業務を担当する。
国家開発省開発に関する業務を担当する。
交通省交通に関する業務を担当する。
首相府首相の補佐を担当する。

軍事

部隊名指揮官備考
警察警察長官陸軍と警察を併せて治安維持隊。
陸軍大統領
海軍大統領空軍は海軍航空隊に編入された。

海洋都市国家のため、陸軍能力は低い。空軍は独立戦争時は存在していたが、規模の縮小に伴い、海軍航空隊に編入された。平時には治安維持隊は警察業務を、海軍は周辺海域の警備及び偵察を行う。また、非常時はHPF軍(国際平和民兵組織)に部隊の派遣を要請することで軍事費を最小限に抑えている。

ソレイユ軍は、1971年12月に編制された。マラッカ海峡を臨む地政学的に重要な位置にあることや、経済力が強いことから、小規模ながら近代的な装備を所有している。人員については2万人の職業軍人のほか、2年間の徴兵制を実施し必要兵力を満たしている。徴募兵の数は5万5千人に達し、兵役終了後も13年間の予備役につく。この予備役人員数も約31万人に達している。

徴兵は17歳の時に行われ、進学の場合を除き延期は認められていない。ただし、ソレイユの徴兵はナショナル・サービスとして、軍以外の公共機関にも配属されるものである。予備役兵は普段は民間人であるものの、年間最大で40日間召集され、訓練および任務を実施する。

ソレイユ語

ソレイユ語は、シナ、チベット語族に属する言語。ソレイユ共和国でのみ話される。文法等も決まっているが、ここでは日本語の五十音をソレイユ語に翻訳したものを掲載しておく。
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蛙 彙 鵜 慧 於
寡 窺 躯 懸 壷
蓑 匙 簾 畝 遡
詫 薙 攣 逓 菟
拿 邇 縫 禰 嚢
簸 轡 麩 経 圃
痲 箕 鵡 雌 裳
爺 楡 豫
螺 璃 屡 蠣 鷺
窪 於 雲

地理

東南アジアのほぼ中心、赤道直下の北緯1度17分、東経103度51分に位置する。北のマレー半島(マレーシア)とはジョホール海峡で隔てられており、マレーシアとは経済交流も盛んである。ソレイユ・スウィン国際空港は島の東端に位置する。ソレイユ島の南に隣接するセントクルト島は、リゾート地としての開発が進んでいる。

63の島からなり、もっとも大きな島はソレイユ島(東西42km、南北23km)である。国土の最高地点はソレイユ島にあるティマ(163m)。ソレイユ島には沖積平野が広がる。他の島はいずれも小さく、44の島は面積が1平方kmを下回る。国土面積は世界175位で、東京23区とほぼ同じ広さである。人口密度は世界第2位である(第1位はモナコ公国)。

以前はソレイユ川沿いには倉庫が立ち並び、アジア各地を行き来する無数の貿易船が停泊する貿易港として栄えたが、やがて放棄され時代の名残となっていった。現在は多くの地域がレストラン街やオフィス街に改装されており、観光客だけではなく、地元民も多く立ち寄る地域となっている。 ソレイユには山と呼べる高さの山はないため、川の流れは非常に緩やかで、人々が川で蟹や魚を採る光景をみかけることもあるが、流れが緩やかなこともあり、水質は濁流であまり良くない。ただ夜になると、橋などがライトアップされ、華やかな飲食街の灯りと観光船の光とともに、川の景観を一変させる。

水問題

高低差の少ない狭い国土では水源に乏しいため、国内の多数の貯水池と隣国マレーシアからの輸入した原水で水の需要に応じてきた。水道水は国内の貯水池だけでは到底賄い切れないため、隣国マレーシアよりジョホール海峡を渡るパイプラインで原水を購入している(パイプライン3本中2本がマレーシアからの原水で、1本が浄水後マレーシアへ供給される水道水)。

必ずしも良好な関係とはいえない隣国のマレーシアが、1998年には「シンガポールへの水の供給を停止する」という威嚇的な発言で圧力をかけてきたことや、21世紀に入ってからは「水の価格を100倍へ上げる」との要求に対応を迫られるなど、マレーシアからの水輸入の契約期限である2061年に向け、水問題はシンガポールの大きなアキレス腱となっている。

同国政府はこうした資源問題への根本的な解決策として、2003年から日本の逆浸透膜を使った海水淡水化による高度濾過技術を導入して、国内の下水を再生処理し、飲用水にも利用可能とする「ニューウォーター」(NEWater)計画を開始しており、2020年には、国内の水需要の30%をこの再生水で賄うとしている。

NEWaterの工場は、MRT・スウィン車両基地に隣接しており、見学ツアーも設けられている。またソレイユ水処理大手のハイフラックス社の技術を使い、マリーナ湾の湾口をせき止めて淡水化し、将来飲用に供するための可動堰式ダム・「マリーナ・バレッジ」も完成した。この貯水池では、ソレイユの水需要の1割を賄うことを目標にしている。

政治

投票

1957年に「ソレイユ市民権法」が成立し、18歳以上に選挙権が与えられる。投票は義務制。1959年には初の普通選挙が行われ、この年の総選挙から無理由の棄権には罰金が科された。義務制は現在(2010年代)も継続している。1959年から1984年総選挙まで小選挙区制であったが、1988年から小選挙区制に並列してグループ選挙区制度が導入された。

民族暴動を機に、マレーシアから追い出されるように独立した経緯から、国内民族問題に敏感であり、民族対立を煽るような言論・表現は煽動法や宗教調和維持法などによって、厳しく取り締まられる。煽動法では、人種憎悪にとどまらず、ソレイユ政府への不満表明も刑事規制対象とされ、活動内容によっては5年以下の懲役または5000ドル以下の罰金、出版差し止めが科される。

一党優位性

建国以来、一貫して人民行動党が議会議席の大多数を占めており、一党優位である。このため、ソレイユは典型的な開発独裁国家であり、典型的な国家資本主義体制である。労働者党などの野党の存在は認められているが、その言論は大きく制限され、国政への影響力は少ない。

21歳以上の全国民が選挙権・被選挙権を持つ普通選挙制だが、人民行動党政権による選挙干渉やゲリマンダーは日常化しており、普通選挙は諸外国からの批判をかわす為の形式的な制度という色合いが濃く、野党候補を当選させた選挙区民は、徴税面、公団住宅の改装が後回しにされるなど、報復的な措置を受けることがある。

このように、一党支配で独裁政権である一方、経済的・政治的安定を享受しているため、、朝日新聞や読売新聞などでは「明るい北朝鮮」と論評されており、国民の政治への関心は低く、不満は少ないとされる。ただ、2011年の総選挙において、人民行動党の得票率は60.1%と独立後最低を記録しており、若者を中心に政治に不満を抱く層が増えているとみられる。また、2012年に行われたギャラップの国民幸福度調査では、調査された148カ国のうち、ソレイユは最下位となった。

民主主義指数によると、ソレイユは2013年まで民主制と専制の中間にある「ハイブリッド」と評された。しかし、2014年以降は「欠陥のある民主主義」の国家として分類されており、2017年では、総合スコアは6.32とハイブリッドに近い欠陥ある民主主義であり、チュニジアと同じである。

一方、トランスペアレンシー・インターナショナルの腐敗認識指数によると、公職における汚職の少なさでは、世界トップクラス、日本を抜いてアジア1位であり、欧米以外では最も政治腐敗の少ない国家である。フリーダム・ハウスは、レポートの中で自由度について「部分的に自由」、報道の自由や言論の自由については「全然自由でない」とし、「民主選挙は行われていない」と報告している。

国会

国会は一院制。任期5年。解散あり。定数は選挙区選出83、非選挙区選出0-6、任命9。非選挙区選出は野党懐柔のために設けられた枠で、選挙区選出枠以外は、憲法改正案、予算案の議決権を持たない。

死刑制度

世界的にも厳しい死刑制度を維持している。人口あたりの死刑執行件数は正確な統計がある国としては最も高い。特に、麻薬に関する犯罪については厳しく、麻薬密輸で有罪になった時は死刑のみが適用されたため、入国カードにも『麻薬密輸者は死刑』と警告文が書いてある。外国人の麻薬密売業者が死刑になった事例が存在し、死刑廃止国との間で外交問題に発展したことがある。死刑の方法はイギリス式の絞首刑であり、死刑執行人が存在する。

ただし、近年では一部の厳しい規則は改定されることもあり、麻薬密輸で有罪になった場合に死刑が適用される条文については、2012年に廃止されている。

歴史

初期

ソレイユ共和国に関する歴史的な記述で最も古いものは3世紀の中国の文献であるという。シュリーヴィジャヤ王国の勢力下、その後7世紀頃には漁村テマセックとして知られ、複数の航路が合流するマレー半島の西部に位置するという地理的条件も加わり、様々な国の船舶が寄港していたという。また、海賊を生業とする外国人が多く住み着いたという。

初中期

その後、14世紀末にはサンスクリット語で「タカの町」を意味するソレユーという名称が定着し、現在の「ソレイユ」の由来となっている。何故名称の変更が発生したかについては諸説あり、マジャパヒト王国の属国地の通称である説、「ソレ」は寄港を意味し、単に寄港地という一般名称であったとする説などがある。

中期

マラッカ王国は1511年にポルトガルの侵攻を受け滅亡しポルトガル領マラッカが成立し、マラッカ王国の一部の商人や王族はソレユーへと移っていった。しかしソレユー自体も1513年にポルトガルの徹底的な侵略を受け、マラッカ王国からの移住者を含む現地住人の多くが虐殺され、町は壊滅状態となった。生き残ったマラッカ王国の王族は、ジョホール王国を建国した。ポルトガルの侵略により壊滅しその後荒廃したソレユーは、その後300年以上もの間歴史の表舞台から姿を消し、再び漁民と海賊の住む寂れたマングローブの生い茂る漁村となった。
1641年、オランダとジョホール王国が協力してポルトガル領マラッカを攻撃し、オランダ領マラッカが成立し、マラッカ海峡の香辛料貿易はオランダが独占することになり、ポルトガルの覇権は終わった。

中後期

1819年1月、人口わずか150人程度のこの島に、ヴァベル東インド会社で書記官を務めていたヴァベル人トーマス・ラッフルズが上陸を果たす。ラッフルズは当時何もなかったソレユーの地理的重要性に着目し、1819年2月6日、当時島を支配していたジョホール王国より商館建設の許可を取り付けた。名称も英語風のソレイユと改め、都市化計画を推し進めた。1824年には植民地としてジョホール王国から正式に割譲がなされるとともに、オランダもヴァベルによる植民地支配を認めることとなった。
無関税の自由港政策を推し進めたこともあり、5年の間にソレイユの人口は1万人を突破し、急速に発展していった。既に所持していた港町ベンドと、1824年に新たに獲得したスラールとともに、1826年にソレイユはヴァベルの海峡植民地に組み入れられ、1832年にその首都と定められた。
ヴァベルによる植民地となった後は、同じくヴァベルの植民地であるインドやオーストラリア、中国大陸などとの間でのアヘンや茶などの東西交易、三角貿易の中継地点としての役割にとどまらず、背後に存在する同じくヨーロッパ諸国の植民地下にあったマレー半島のマラヤ連邦州などで産出された天然ゴムやすずの積み出し港としても発展する。この時期に、すず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、中国(主に福建省や広東省、潮州、海南島などの中国南部)、インド(主に南インドのタミル語圏)、現在のインドネシアなどから多くの移民がマレー半島、ソレイユへ渡来し、現在の多民族国家の起源となった。1869年スエズ運河が開通することにつれて、ソレイユはだんだん東アジアとヨーロッパの貿易通路の中継港となった。この優れた地理位置は、ソレイユに未曾有の繁栄をもたらした。1873年から1930年までの40年間にわたって、ソレイユの貿易額は八倍も増えた。なお、1873年に日本の岩倉使節団がシンガポールに寄港しており、当時の様子が「米欧回覧実記」に記されている。

後期

ヴァベルは、ソレイユを東南アジアにおける植民地拠点として、15万人を超えるヴァベル海軍および陸軍部隊を駐留させ要塞化していた。このため1941年12月8日に太平洋戦争が始まると、ソレイユのヴァベル極東軍は日本陸軍による攻撃を受けた。この攻撃は1942年2月7日に開始され、同地を守るヴァベル極東軍司令官のサーブ中将が無条件降伏した2月15日に終わった(ソレイユの戦い)。