古世
史前時代
今の名葉人の由来は、野瀬峰道以北から渡ってきたサプルース人(Sapruss people)*1と大陸から九葉地方に渡ってきたメイヨーン人(Meiyon people)の混血であるとされている。
サプルース人とメイヨーン人は共に狩猟、採集を主とした生活を送っていた。野瀬峰道ではこの頃の貝塚*2や竪穴式住居が多く発見されている。
紀元前13世紀から紀元前10世紀にかけて、サプルース人とメイヨーン人は名葉国全体に広がる。尚、サプルース人の一部は野瀬峰道に残った。これがその後のサポロ族である。そしてメイヨーン人はこの頃から農耕による生活を始め、定住するようになる。農耕技術は大陸からの伝搬と考えられるが、未だ根拠となる史料は発見されていない。
サプルース人とメイヨーン人は中葉地方や名京地方でぶつかり、移住し続けるサプルース人と定住をしていたメイヨーン人は多く争いを繰り広げていた。
この時代は歴史的文献が残されておらず、考古的に研究されているため、史前時代と呼ばれる。
小国時代(2世紀半ば~5世紀)
2世紀半ばには大陸から文字が伝わり、サプロ族は自らの文字を使い始める。*3
紀元後2世紀にはどちらもに大きく変化が現れる。メイヨーン人は少数の共同体(コミュニティ)が、他の共同体を征服しようとする、戦いの動きがみられるようになる。
数十人の小共同体が他の小共同体とまとまり、それによって出来た共同体が…………、というのを繰り返し*4、4世紀までに最大で1万3000人規模まで達していたようである。*5
この頃には、サプルース人とメイヨーン人の混血が進み、現代名葉国人の原型となっている。
5世紀頃には一部地域で、国・邑等を名乗る共同体が現れる。主なものでは、博倉県の小見古国*6や、志摩県の保呂宮国*7、玄江県の古篠井邑*8がそうである。
これらの大型共同体の一部には、大陸に使者を送った国もある。「後厘記*9名嬰伝*10」には
晋余長元二年 小見古國奉貢朝賀 使人自稱小雨 名嬰國之極南界也 光賦賜以印綬
晋余長元二年、名嬰小見古国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら小雨と称す、名嬰国の極南の界なり、光賦、印綬を以て賜う
と記述されている。*11
豪族時代(5世紀~)
この時代には、国・邑もさらに統合していき、全国で150程度になった。
国・邑の長の一族を豪族という。豪族は挙って古墳*12を作った。代表的なものに、私長県七代町の枝矢船川古墳*13や大貞府枚川市の人悳凌古墳*14*15がある。これらの古墳には、埴輪や