名葉史

Last-modified: 2019-06-13 (木) 16:06:36

国名の由来

古世

史前時代

今の名葉人の由来は、野瀬峰道以北から渡ってきたサプルース人(Sapruss people)*1と大陸から九葉地方に渡ってきたメイヨーン人(Meiyon people)の混血であるとされている。
サプルース人とメイヨーン人は共に狩猟、採集を主とした生活を送っていた。野瀬峰道ではこの頃の貝塚*2や竪穴式住居が多く発見されている。
紀元前13世紀から紀元前10世紀にかけて、サプルース人とメイヨーン人は名葉国全体に広がる。尚、サプルース人の一部は野瀬峰道に残った。これがその後のサポロ族である。そしてメイヨーン人はこの頃から農耕による生活を始め、定住するようになる。農耕技術は大陸からの伝搬と考えられるが、未だ根拠となる史料は発見されていない。
サプルース人とメイヨーン人は中葉地方や名京地方でぶつかり、移住し続けるサプルース人と定住をしていたメイヨーン人は多く争いを繰り広げていた。
この時代は歴史的文献が残されておらず、考古的に研究されているため、史前時代と呼ばれる。

小国時代(2世紀半ば~5世紀)

2世紀半ばには大陸から文字が伝わり、サプロ族は自らの文字を使い始める。*3
紀元後2世紀にはどちらもに大きく変化が現れる。メイヨーン人は少数の共同体(コミュニティ)が、他の共同体を征服しようとする、戦いの動きがみられるようになる。
数十人の小共同体が他の小共同体とまとまり、それによって出来た共同体が…………、というのを繰り返し*4、4世紀までに最大で1万3000人規模まで達していたようである。*5
この頃には、サプルース人とメイヨーン人の混血が進み、現代名葉国人の原型となっている。
5世紀頃には一部地域で、国・邑等を名乗る共同体が現れる。主なものでは、博倉県小見古国*6や、志摩県保呂宮国*7玄江県古篠井邑*8がそうである。
これらの大型共同体の一部には、大陸に使者を送った国もある。「後厘記*9名嬰伝*10には

晋余長元二年 小見古國奉貢朝賀 使人自稱小雨 名嬰國之極南界也 光賦賜以印綬

晋余長元二年、名嬰小見古国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら小雨と称す、名嬰国の極南の界なり、光賦、印綬を以て賜う

と記述されている。*11

豪族時代(5世紀~)

この時代には、国・邑もさらに統合していき、全国で150程度になった。
国・邑の長の一族を豪族という。豪族は挙って古墳*12を作った。代表的なものに、私長県七代町の枝矢船川古墳*13や大貞府枚川市の人悳凌古墳*14*15がある。これらの古墳には、埴輪や


*1 ノーセブルク人とは異なる。ノーセブルク人は野瀬峰道に渡ってきた中近世のドイツ人植民のことである。
*2 北桜都杜都区杜都貝塚等
*3 サプロ文字。20世紀に発見され、殆んど解読されていない。
*4 嵯賀県生立ヶ里遺跡など
*5 絵山県松枝集落遺跡
*6 おみここく。大神子国との書き方も
*7 ほろみやこく。
*8 こしのいむろ。古篠井邑では独自の文字を使っていたという説がある。
*9 ごりんき。その時大陸を治めていた後厘の時代に編纂された歴史書
*10 名葉の意。古来は名嬰若しくは名桜と書かれていた。
*11 この金印は1975年に丹賀島で発見されている。
*12 土を高く盛った墓
*13 えやふながわこふん。5世紀始めに建造。
*14 仮称。中の人たちへ。西畿地方の府。変更予定
*15 じんとくりょうこふん。6世紀後半に建造?