みんなの新武将/倭・日本(戦国時代(東北関東))

Last-modified: 2025-09-19 (金) 21:51:37

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

倭・日本(戦国時代(東北関東))

倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。

応仁の乱を契機とした内乱は、日本全国に広がり、世に言う「戦国時代」の始まりとなった。
関東では既に応仁の乱以前から戦乱が始まっており、やがて伊勢盛時を中心とする勢力が跋扈した。
甲信では甲斐を統一した武田信虎が追放され、かわって当主となった武田信玄?が周辺諸国を平定。確たる勢力を築いていた。
越後では長尾為景の跡を継いだ、のちの上杉謙信?のもと周辺諸国と凌ぎを削っていた。
東北では伊達家を中心とする天文の大乱が発生し、後に天下平定の直前になって遅すぎた群雄伊達政宗が奥州に覇を唱えた。
そして東海では、大勢力として今川義元が三国同盟を締結。上洛を目指し大動員令を発する。



【関東地方】

北条家

後北条家(関東北条家)を参照

千葉家

千葉昌胤

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6365686169地利振興召募論客柱石縦横術名利

【チバマサタネ】
戦国時代前期の下総千葉氏の当主。本佐倉城主。
室町時代の享徳の乱で千葉氏宗家が一族の馬加氏(まくはりし)に滅ぼされ、その馬加氏も室町幕府の命を受けた太田道灌に滅ぼされた結果、
宗家の生き残りである武蔵千葉氏と家臣団や国衆に擁立された一族の岩橋氏を当主とする下総千葉氏に分裂した。
昌胤の時代には武蔵千葉氏は衰退していたが、代わりに古河公方の内紛をきっかけに千葉郊外の小弓城に入った小弓公方足利義明や安房里見氏の北上に悩まされるようになる。
このため、昌胤は古河公方足利晴氏や北条氏綱と手を結んで対抗した。
第一次国府台合戦では、高城胤吉ら共に北条軍に与した。

千葉利胤

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5574705071一心英名使役調練虚弱三令五申覇道

【チバトシタネ】
戦国時代前期の下総千葉氏の当主。本佐倉城主。昌胤の長男。
北条氏と婚姻を結んで北上する里見氏に対抗した。
古河公方足利晴氏と関東管領上杉憲政が手を結んで北条氏康打倒を関東諸将に呼びかけた際にも利胤はこれに応じなかった。
北条氏康は河越城の戦いで連合軍を打ち破ったが、その直後に利胤が急死、子供がいなかったために末弟の親胤を養子として家督を継がせた。

千葉胤富

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6553576366求心名声論客改修動員城壁拡張割拠

【チバタネトミ】
戦国時代後期の下総千葉氏の当主。本佐倉城主。昌胤の次男。
初めは一門の海上氏の養子となって森山城に入る。
しかし、宗家を継いだ弟の親胤が重臣の原胤貞・親幹と対立すると、親幹に殺害されたため、急遽、胤貞によって千葉氏当主に迎えられた。
胤富は家中の混乱を沈めたものの、依然として原胤貞・親幹らが実権を握っていた。
また、上杉謙信と北条氏康の戦いに巻き込まれることになり、一旦は謙信に降伏したものの、再び北条方についた。
このため、謙信から攻められて重要な支城であった臼井城を包囲されるが、家臣の白井胤治や高城胤辰、北条軍の松田康郷の奮闘で撃退に成功した。

千葉邦胤

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5350444062築城豪傑短慮癇癪直情鋒矢強化我道

※個性の組み合わせ不可能(短慮/癇癪)

【チバクニタネ】
戦国時代後期の下総千葉氏の当主。本佐倉城主。胤富の子。
伝説では良胤という双子の兄がいて、父との対立から追放された結果家督を継いだとされる。
この対立は越相同盟に伴う外交政策上の対立であった可能性もあるが、良胤が実在したかも含めて真相は不明である。
邦胤の時代の千葉氏は北条氏傘下の国衆として組み込まれていた。
武田氏が滅亡して織田氏が関東に進出すると、北条氏までも織田氏の命令を受けて恭順する使者を出したが、邦胤は北条が屈しても千葉は屈せずと織田氏からの使者を辱めたと伝えられる。
1585年、一門・家臣を集めた宴席でおならをした家臣を面前で叱責したところ、それを恨んだ家臣によって暗殺されたという。

高城胤吉

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7262516456節約不屈督励改修補佐施設開発名利

【タカギタネヨシ】
戦国時代前期の千葉氏家臣。
元々は千葉氏の重臣である原氏の家老として小金城の城代を務めていたが、千葉氏当主である千葉昌胤の妹を妻として重臣に列した。
原氏から小金城を譲られて大規模な改修を行って古河公方足利義明や里見氏の北上に対抗した。
2度の国府台の戦いでは北条軍に加わっている。
その結果、下総国葛飾郡最大の領主となった。

高城胤辰

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6657565353疾走昂揚調達地利農政地域振興割拠

【タカギタネトキ】
戦国時代後期の千葉氏家臣。胤吉の子。
上杉謙信の関東出兵の際には主君の千葉胤富と共に謙信に従ったが、間もなく北条氏側に帰参、その代償として古河城を追われた古河公方足利義氏を一時預かっている。
その後、第2次国府台合戦で地元領主として北条軍に協力して勝利に貢献、その結果、北条氏の他国衆として取り立てられ、千葉氏から半ば独立した国衆となった。
その後も千葉氏との関係も継続し、臼井城の戦いでは北条家臣の松田康郷と共に援軍に駆けつけている。

高城胤則

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4246464744運搬徴税堅牢動員虚弱地域巡回礼教

【タカギタネノリ】
戦国時代末期の千葉氏・北条氏家臣。胤辰の子。
北条氏と豊臣氏の対立が深刻化すると、北条氏の動員に応じた。
また、主家である千葉氏では千葉邦胤の暗殺後、嫡男の重胤が北条氏の人質とされた上に北条氏政の子・直重が代わりに千葉氏当主に据えられたことにより、北条氏への従属度がより強化された。
豊臣秀吉の軍勢が小田原城を包囲すると、籠城戦に従うが、その間に浅野長政の別働隊に小金城を攻められて開城した。
戦後、蒲生氏郷に預けられ、隠棲先の信濃国で病死、子孫は江戸幕府の旗本になった。

白井胤治

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7244754078詭計詐謀昂揚規律沈着墨守研究割拠

【シライタネハル】
千葉氏家臣。法号は浄三。千葉氏代々に仕えていたとも、三好長逸の旧臣だったとも言われ、その実在性を含めて謎に包まれている。
上杉謙信が千葉氏の筆頭重臣である原胤貞の臼井城(うすいじょう)を包囲した際に参謀として持久戦に持ち込み、上杉軍の士気が低下したところを奇襲してこれを破る。
焦った謙信が強攻策に出ると、城内に罠を仕掛けて再び撃退して、謙信はやむなく城から撤退したという。

里見家

里見義堯

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8475838081機略堅牢水戦柱石仁政水軍育成我道
8175838084機略堅牢水戦柱石仁政変幻要撃鼓舞斉射強襲矢嵐水軍育成我道

【サトミヨシタカ】
戦国時代の人物。安房里見氏当主。実堯の子。
父が本家当主である従兄・里見義豊に殺されると、北条氏綱の援助を得て義豊を攻め滅ぼす。
その後北条氏とも反目し、小弓公方である足利義明を立てて国府台合戦に参戦したが義明の戦死で撤退。
その後は上杉謙信や佐竹氏など北関東の豪族連合と連携しながら北条氏に対抗した。
戦力差の大きい北条氏と対抗できたのは水軍で上回ったためと考えられている。
領民にも「万年君様」と慕われ、北条方でも「仁者必ず勇あり」と高く評価されていた。

里見義弘

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7173687174不屈水戦法律酒乱地域巡回割拠
7173687174堅守不屈水戦法律酒乱地域巡回割拠

【サトミヨシヒロ】
戦国時代の人物。安房里見氏当主。義尭の子。初名義舜。
父の政策を踏襲し、上杉謙信と連携して北条氏と交戦を繰り返した。
第二次国府台合戦で大敗して上総を失い追い詰められたが、三船山合戦で北条軍を退け失地回復に成功している。
後に上杉と北条の同盟により北条と和睦したという。
父同様内政統治力もあり落首から役人の不正を探知するなど積極的に民意を汲む政治を敷いた。
死に際して弟・義頼と幼い子である梅王丸に領土を分配したが、この措置は家督争いの火種となっている。

里見義頼

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6760656869水戦論客強奪縦横術割拠

【サトミヨシヨリ】
戦国後期の人物。安房里見氏当主。義尭の次男で義弘の弟とされているが庶長子説もある。
義弘の遺領配分を不服として、武力で梅王丸を出家させ家督を奪取。
反抗的だった重臣である正木憲時も滅ぼして君主権を強化する。
父・兄と反対に北条家と姻戚関係となったが、佐竹氏が武田氏と同盟をすると義頼も便乗している。
一方で江戸湾(東京湾)の制海権を握っていたらしく、関東の商人に航行通過の朱印状も発見されている。

正木時茂

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7182524862掃討名声豪傑魚鱗強化我道

【マサキトキシゲ】
戦国時代の人物。安房里見氏の家臣。時綱の子。
稲村合戦で里見実尭が討たれると時茂も父と兄を失い命からがら逃げ延び、後に義尭に従って里見義豊を滅ぼす。
以後義尭の片腕として第一次国府台合戦や上杉謙信の関東遠征に従軍した。
槍に長け「槍大膳」の異名をとったが、かなり有名らしく朝倉宗適の記録にも時茂の名が残っている。

正木信茂

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6379464463一心血路改修鋒矢強化割拠

【マサキノブシゲ】
戦国時代の人物。安房里見氏の家臣。時茂の子。通称・大太郎。
主君・里見義尭の娘を妻として、父の代わりに下総にて千葉氏と戦う。
上杉謙信の関東遠征直後に急逝した父に代わって正木氏の家督を継ぐ。
しかし、3年後の第二次国府台合戦で敗走する主君を守って奮戦して25歳の若さで戦死してしまった。
このため、正木氏は従弟である憲時(時茂の甥)が継ぐことになる。

小野忠明

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3372282422三令五申我道

【オノタダアキ】
戦国時代~江戸時代初期の剣豪・江戸幕府旗本。別名・御子神典膳。
里見氏に仕えた後、諸国で修業を重ね、後に伊東一刀斎の弟子となる。
江戸に居た時に徳川家康に剣の腕を見込まれて剣術師範となり、江戸幕府の成立後は柳生宗矩と名声を分けた。
しかし、戦地においては抜け駆けなどの問題行動も多く、上田城の戦いや大坂夏の陣で軍令違反を理由に処分を受けている。
没後、息子の忠常が父の教えを整理して剣術流派として完成させたことにより、忠明は「小野派一刀流」の祖と称されるようになった。

古河公方家

室町幕府初代将軍である足利尊氏の四男、足利基氏を祖とする勢力。初代基氏から四代持氏まで鎌倉公方であったが、
基氏の曾孫である足利持氏が永享の乱を起こして敗死し、持氏の遺児成氏が古河公方を名乗ったため、以後古河公方家となった。
戦国時代には影響力を失しながらも一定の権威は持ち合わせており、上杉謙信が足利藤氏を、北条氏康が足利義氏を擁立して
関東の覇権を争った。義氏が死去するとその娘である足利氏姫が小弓公方家の足利頼氏と婚姻し、江戸時代に喜連川氏を残した。

室町時代(享徳・長享の乱)も参照。

足利義氏

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2619424378名声動転粗忽政令徹底割拠

【アシカガヨシウジ】
戦国後期の人物。五代目古河公方。晴氏の子。
父が北条氏康に降伏すると、氏康の甥にあたるため兄が廃嫡され後継者となる。
北条家の傀儡として擁立されており、実権は全く無かった。

簗田晴助

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6866727151剛将規律論客堅牢金剛上兵伐謀割拠

【ヤナダハルスケ】
戦国時代の武将。古河公方家家臣。高助の子。関宿城主。
古河公方代々の重臣で、自分の甥である足利藤氏が北条氏の圧力で廃嫡になったことを不満として上杉謙信らの支援を受けて挙兵する。
堅城として知られた関宿城を拠点に北条軍に抵抗を続けたが、3度目の戦いで降伏に追い込まれた。
後に北条氏の画策で一族に宗家の座を奪われた。
孫の代に徳川家康に登用されたが、大坂の陣で戦死して断絶したと伝わる。

太田資正

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8377847473機略督励再起強運策士文事武備割拠
8377847473機略督励再起強運策士功狗逆撃鼓舞斉射突撃混乱文事武備割拠

【オオタスケマサ】
戦国時代の武将。扇谷上杉氏の重臣で後に古河公方、佐竹氏に仕える。岩付城主。
太田道灌の孫にあたる資頼の次男で兄が北条氏に降ると舅の難波田憲重の下に逃れる。
河越城の戦いで扇谷上杉氏は滅亡して舅も戦死したため、代わりに松山城主となる。
その直後に兄が急死したと知るや岩付城の乗っ取りに成功するが、北条氏康に攻められて降伏する。
氏康は太田氏が名家であることから、古河公方家の家臣身分を与えて厚遇する。
ところが、上杉謙信が南下するとこれに呼応し、里見義尭と結んで北条氏を討とうとするが失敗する。
その直後に北条氏康の娘婿になっていた長男の氏資に岩付城を追放され、更に娘婿の成田氏長まで離反したため、常陸の佐竹義重を頼る。
佐竹義重は小田氏治から奪った常陸片野城を与えるが、それを知った謙信が常陸から退去するように命じ、
その結果、義重・資正は一時謙信と決別することになった。
その後も義重の配下として北条氏と戦うが、小田原征伐の結果、武蔵国が徳川家康に与えられることになり、旧領復帰はならなかった。

【東北地方】

戦国時代(東北)