注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本 室町時代 享徳・長享の乱 (1449~1505)
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
1339年、南北朝時代のさなか、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任じられた足利尊氏は室町幕府を開いたが、
南北朝の動乱のさなか、1358年に志半ばで逝去した。南北朝の動乱は尊氏の孫、3代将軍足利義満の際に
明徳の和約によって一応の合意を見、1392年に南北朝が合一され、幾何の内乱を経て、足利義満は絶大な権力を有するに至った。
しかし、室町幕府は足利義満の死後、早くも争乱の時代に戻る。初代将軍足利尊氏の息子で、
2代将軍足利義詮の弟である足利基氏の係累が鎌倉公方として関東以北を治めていたが、
代を経るごとに独立の野心が目立ち始めた。基氏の子の足利氏満が既に将軍位を狙って
足利義満に対する反乱を企て、重臣の上杉憲春がそれを制止するために諌死する始末であり、
氏満の子の足利満兼は応永の乱で義満に反乱を起こした大内義弘に呼応しようとするほどであった。
そして満兼の子である足利持氏は、上杉禅秀の乱の不協和音を経て、ついに永享の乱で6代将軍足利義教に公然と反旗を翻すようになり、
ここに鎌倉公方と室町将軍との全面対決が発生した。乱自体は足利持氏が敗れて嫡男足利義久らとともに自害し、さらに
持氏の遺児、春王丸と安王丸を擁立して反乱を起こした結城氏朝らも討伐され、室町幕府側が勝利する。
しかし、結城氏朝討伐からわずか1年後、室町幕府6代将軍足利義教は、嘉吉の変で赤松満祐や赤松教康らに暗殺される。
幕府内での反乱による混乱のさなか、足利持氏の遺児、のちの足利成氏が鎌倉公方となるが、成氏は父や兄の死を恨み、
権力抗争相手の関東管領上杉憲忠を暗殺した。一方、室町幕府もこの頃には義教の子である8代将軍足利義政が就任。
あらたな鎌倉公方として実兄である足利政知を送り込み、再び鎌倉公方と室町将軍による対立が本格化した。
同時期に起きた応仁の乱については室町時代(応仁・文明の乱)を参照。
鎌倉府については室町時代(鎌倉府・鎌倉公方)を参照。
室町幕府については室町時代、室町時代(応仁・文明の乱)、室町時代(末期)を参照
長享の乱以降の古河公方については戦国時代(南関東) を参照。
古河公方(幕府強硬派)
足利成氏
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 90 | 82 | 84 | 72 | 85 | 不敵 | 改修 | 策士 | 怒髪 | 果敢 | 墨守研究 | 割拠 | |||||
| 90 | 82 | 84 | 72 | 85 | 梟雄 | 改修 | 策士 | 怒髪 | 果敢 | 墨守研究 | 割拠 | |||||
| 90 | 82 | 84 | 72 | 85 | 梟雄 | 改修 | 策士 | 怒髪 | 強運 | 墨守研究 | 割拠 | |||||
| 87 | 82 | 84 | 72 | 85 | 梟雄 | 改修 | 策士 | 怒髪 | 強運 | 反骨刃 | 挑発 | 罵声 | 奮戦 | 突撃 | 墨守研究 | 割拠 |
※コラボ個性は設定不可能(不敵)
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 87 | 82 | 80 | 76 | 85 | 梟雄 | 改修 | 不屈 | 怒髪 | 強運 | 反骨刃 | 挑発 | 罵声 | 奮戦 | 突撃 | 墨守研究 | 割拠 |
【アシカガシゲウジ】
室町時代の人物。持氏の息子で第5代鎌倉公方かつ初代古河公方。
永享の乱で父と兄義久が幕府に殺されたこともあってか、父に輪をかけて幕府に反抗的であり、
関東管領上杉憲忠を暗殺し、応仁の乱よりも古くて長い30年にも亘る享徳の乱が始まるきっかけをつくる。
実は戦上手でもあり、武蔵分倍河原・五十子の戦いでは勝っており、鎌倉を奪ったりと戦で死ぬこともなく、
乱を起こした張本人でありながら始まってから最後まで生き残っていたりする。
足利政氏
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 26 | 14 | 42 | 61 | 79 | 文化 | 詩想 | 優柔 | 小心 | 消沈 | 鎮静 | 混乱 | 地域振興 | 割拠 | |||
【アシカガマサウジ】
室町時代の人物。足利成氏の嫡男。
享徳の乱後に足利成氏から家督を譲られ、8代将軍足利義政の偏諱を授かり
足利政氏として古河公方に就任した。長享の乱では山内扇谷の両上杉氏を
逡巡するなどあいまいな態度を見せる。のちに長男、足利高基や
次男、足利義明と対立し、永正の乱を起こして古河公方の権勢を失墜させた。
古河公方を長男に譲った後出家し、失意の中1531年に死去した。
補足:文化事業については巧みであったが、彼の代以降、古河公方の権勢は失墜し、権威の傀儡化が始まる。
簗田持助
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 69 | 68 | 57 | 64 | 62 | 護衛 | 再起 | 血路 | 強奪 | 召募 | 斉射 | 激励 | 鯨波 | 牽制 | 三令五申 | 名利 | |
【ヤナダモチスケ】
室町時代の人物。下総の水海城主。簗田満助の子。
足利持氏、足利成氏に仕え、持氏から偏諱を授かった。
永享の乱では父、満助の命を受け、持氏の子である成氏を護衛し、再起をはかった。
のちに足利成氏が鎌倉公方に就任するとその側近として成氏を助ける。
太田資清らと対立して江の島合戦を起こすが、成氏と協力してこれを退けた。
のちに享徳の乱で鎌倉が陥落すると、自らの本拠に成氏を招聘し、古河公方成立に貢献。1482年に死去した。
結城成朝
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 70 | 78 | 53 | 59 | 55 | 猛者 | 怒髪 | 頑健 | 動転 | 直情 | 突撃 | 激励 | 急襲 | 奮戦 | 侵略荒廃 | 割拠 | |
【ユウキシゲトモ】
室町時代の人物。結城氏朝の四男。
父、結城氏朝ら多くの一族が、足利持氏の遺児を擁した結城合戦で
戦死したため、常陸に逼塞する。のちに持氏の子、足利成氏が
鎌倉公方につくと再興を許され、多賀谷氏らの支援のもと、
兄、結城長朝を差し置いて家督を継承。成氏から偏諱を授かった。
1454年には関東管領である上杉憲忠を暗殺し、享徳の乱の戦端を開く。
成氏方として奮戦し、成氏からも賞賛されたが、家中分裂に巻き込まれ逡巡し、最期は多賀谷朝経に暗殺された。
長尾景春
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 75 | 91 | 74 | 72 | 82 | 脱兎 | 疾走 | 驍将 | 再起 | 直情 | 上兵伐謀 | 我道 | |||||
| 85 | 79 | 88 | 41 | 68 | 脱兎 | 疾走 | 驍将 | 再起 | 直情 | 上兵伐謀 | 我道 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 85 | 79 | 88 | 72 | 80 | 脱兎 | 疾走 | 驍将 | 再起 | 直情 | 天辺必殺 | 突撃 | 激励 | 奮戦 | 牽制 | 上兵伐謀 | 我道 |
【ナガオカゲハル】
室町時代の武将。関東管領を務めた山内上杉家を補佐する白井長尾家の出身。
父、長尾景信の死後、権力を巡って主家と対立し、武蔵鉢形城を起点に反乱を起こす。
上杉氏に不満を持つ千葉氏、豊島氏らと結びついて一時期関東を席巻したが、扇谷上杉家の太田道灌の
活躍により徐々に勢力を縮小。最終的に武蔵国を追われた。その後鎌倉公方の足利成氏に仕え雌伏していたが
やがて太田道灌が粛清されると再度反乱を起こし、扇谷上杉家の上杉定正らと手を組んだ。
しかし扇谷上杉家が降伏してまたも反乱は頓挫。自身も山内上杉家に降伏して出家した。
ところが、山内上杉家が長尾為景討伐に向かうと、三度反乱を起こし、白井城の奪還を試みる。
この後も甲斐に転進して挙兵するが、結果的に反乱は全て失敗に終わった。その後亡命先の駿河で客死。
宇都宮成綱(藤原成綱)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 83 | 74 | 82 | 80 | 81 | 召募 | 地利 | 文化 | 名声 | 築城 | 確乎不動 | 斉射 | 鼓舞 | 鎮静 | 混乱 | 地勢研究 | 割拠 |
【ウツノミヤシゲツナ】
室町時代の武将。宇都宮家第17代当主。宇都宮氏中興の祖。
小山持政の後見で勢力を蓄え、足利成氏の後援のもと、弟の武茂兼綱や
芳賀氏の乱を鎮圧し、鹿沼氏を討伐して勢力を拡大。さらに
蘆名盛高や佐竹義舜との争いに勝利して北関東に覇権を築いた。
晩年は足利成氏の孫で、自身の娘婿となっていた足利高基を
庇護して勢力復帰に貢献した。1516年死去した。
里見義実
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 64 | 61 | 69 | 72 | 75 | 動員 | 名声 | 水戦 | 築城 | 潜在 | 斉射 | 鼓舞 | 駆逐 | 矢嵐 | 地域振興 | 割拠 | |
【サトミヨシザネ】
室町時代の人物。房総里見氏の初代当主。
結城合戦で戦死した里見家基の子とも、美濃里見氏の出とも伝わる。
古河公方である足利成氏に仕え、関東管領である上杉憲忠の暗殺に関与した。
のちに成氏の命で房総に赴き、上杉派の豪族を駆逐して勢力を拡大。
白浜城や稲村城を築いて房総里見氏の祖となった。1488年死去。
その生涯は江戸時代の小説、「南総里見八犬伝」にも描かれた。
補足:謎多き生涯を持つ房総里見氏の初代当主。近年では2代当主とされる里見成義は架空の人物とされ、3代当主とされる里見義通が嫡男とされている。
里見義通
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 60 | 56 | 74 | 70 | 71 | 水戦 | 名声 | 法律 | 改修 | 運搬 | 斉射 | 鼓舞 | 鎮静 | 矢嵐 | 地域巡回 | 割拠 | |
【サトミヨシミチ】
室町時代の人物。里見義実の嫡男。
古河公方である足利成氏とその子、足利政氏に仕え、
父、義実と協力して安房を平定。その後、弟である里見実堯に
軍勢を率いさせ、上総に勢力を拡大し、戦国大名里見氏の基盤を築いた。
のちに足利政氏の子で小弓公方である足利義明に従った。
江戸湾を縦断する水運を擁し、鶴谷八幡宮を再建するなど、文化的事業にも腐心している。
補足:従来説と近年の説で経歴に乖離のある人物。従来では2代当主とされる里見成義の嫡男で、病弱のため1518年に38歳で亡くなったとされていた。
補足:しかし近年では従来祖父とされた初代当主である里見義実の嫡男で、生誕年と死去年に大幅な乖離が見られる可能性が強く指摘されている。
補足:死去年は従来1518年とされてきたが、史料上では1525年まで生存しており、実子である義豊ともども生年が繰り上がる可能性が極めて高くなった。
里見実堯
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 72 | 75 | 59 | 53 | 69 | 調練 | 粉砕 | 水戦 | 強奪 | 強欲 | 斉射 | 激励 | 奮戦 | 矢嵐 | 侵略荒廃 | 我道 | |
【サトミサネタカ】
室町時代の人物。里見義実の子。里見義通の弟。息子に里見義堯。
父と兄に従って安房攻略に従事し、上総に勢力を拡大。
のちに金谷城に勢力を張って、強力な水軍を抱えた正木氏と昵懇な関係を結ぶ。
義通の死後は里見家当主となった甥の里見義豊とともに水軍を率いて後北条氏と戦った。
しかし、晩年になって後北条氏と結びつき、主家簒奪を企んだとして1533年、里見義豊に誅殺された。
補足:従来説では家督相続時に幼少であった甥の里見義豊の陣代として当主代行の地位にあったとされてきたが、近年これは否定されている。
補足:兄である里見義通とともに、従来祖父とされてきた初代当主である里見義実の子という説が現在は有力。
堀越公方(幕府融和派)
足利政知
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 36 | 39 | 48 | 57 | 79 | 動員 | 名声 | 召募 | 優柔 | 小心 | 地勢研究 | 割拠 | |||||
【アシカガマサトモ】
室町時代の人物。6代将軍足利義教の四男。足利義政や足利義視の兄で足利義澄の父。初代堀越公方。
幼少のころから出家して僧侶であったが、享徳の乱を打開するために8代将軍で
弟の足利義政の要請により、鎌倉公方の後任として関東へと下向する。
しかし足利成氏の勢力や室町幕府及び関東の内乱によって鎌倉に入ることができず
伊豆の堀越に留まったため、堀越公方と称される。なお実権は脆弱で
基本的には幕府の命令で軍事力を構成しており、政知自身が戦闘に参加したことは殆どない。
晩年は扇谷上杉家との対立や今川家の家督争いの対処に追われた。
※後継者には長男の茶々丸を廃して三男の潤童子を定めたが、政知の死後、潤童子は茶々丸に殺害され、茶々丸は伊勢盛時に討伐されたため、堀越公方はわずか2代(3代)で滅びた。
足利茶々丸(足利政綱)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 53 | 66 | 42 | 38 | 53 | 怒髪 | 強奪 | 調練 | 粗暴 | 猪突 | 突撃 | 大喝 | 挑発 | 侵略荒廃 | 割拠 | ||
【アシカガチャチャマル】
室町時代の人物。堀越公方足利政知の長男。諱は「政綱」とされるが異説もある。
清晃、潤童子の兄で、素行不良であったとも、継母で潤童子の母、円満院に
讒言されたとも言われるが、長男にもかかわらず堀越公方を継ぐことができず、
廃嫡され幽閉の日々を過ごした。このため父である足利政知が1491年死去すると、
牢番を殺害して脱獄し、円満院と潤童子を殺害して強引に堀越公方に就任した。
しかし1493年、弟、清晃が11代将軍足利義澄として将軍就任すると、幕府から討伐令が下される。
対立していた今川氏親の叔父、伊勢盛時によって討伐され、切腹に追い込まれた。
補足:茶々丸が切腹に追い込まれた時期については諸説ある。従来は伊豆で伊勢盛時(北条早雲)に追い込まれて自刃させられた説が主流であった。
補足:しかし近年、茶々丸が伊豆から逃れて甲斐の武田氏を頼り、甲斐で山内上杉氏や武田氏と共闘していた説が出ている。最終的には武田氏から見捨てられ、1498年に伊勢氏に引き渡されたとしている。
補足:生年、諱についても諸説あり。幼名しか伝わっていないが堀越公方就任時には既に元服していたとされる。死去時の1498年には29歳~17歳と幅が見られる。
上杉顕定
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 74 | 67 | 55 | 71 | 48 | 動員 | 召募 | 教化 | 高慢 | 動転 | 功狗逆撃 | 斉射 | 牽制 | 奮戦 | 鎮静 | 歳出改善 | 割拠 |
【ウエスギアキサダ】
山内上杉家当主。越後守護家の出身で、上杉房定の次男。長享の乱の首謀者。
本家である山内上杉家の上杉房顕に子供がいなかったため、養子として家督を継ぐ。
享徳の乱では当初足利成氏相手に優勢であったが、長尾景春の離反に伴い
劣勢に転じ、最終的には和睦へと追い込まれる。長享の乱では上杉定正と争い
当初は劣勢であったが、定正の死と実家である越後守護家の力を得て盛り返した。
上杉朝良や伊勢宗瑞とも勢力を争い勢力拡大に奔走するが、1510年、長尾為景と争った際に敗北して戦死した。
補足:長尾為景と争った背景には、実弟の上杉房顕が為景に敗死したからという説が根強い。1507年の出兵当初は優勢であったが越後掌握に失敗し、反撃で敗れた。
上杉定正(扇谷定正)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 73 | 87 | 85 | 44 | 言毒 | 詐謀 | 教唆 | 悪名 | 高慢 | 虚誘掩殺 | 混乱 | 挑発 | 鼓舞 | 突撃 | 侵略荒廃 | 我道 |
【ウエスギサダマサ】
扇谷上杉家当主。相模守護。長享の乱の首謀者。上杉政朝の三男。
扇谷定正とも。関東管領の山内上杉氏の分家である扇谷上杉家に生まれ、
足利義政、足利義尚、足利義稙、足利義澄ら4代の足利将軍に仕える。
享徳の乱では山内上杉氏に従っていたが、甥である上杉政真が戦死して家督を継承すると、
家宰である太田道灌を殺害し、長尾景春や伊勢宗瑞と結びついて、徐々に独自の勢力を拡大。
主筋である山内上杉氏である上杉顕定と覇権を争い、長享の乱を引き起こした。乱を優位に進めるが1494年に病没した。
補足:江戸時代の小説「南総里見八犬伝」では最大の宿敵として登場。奸臣に誑かされる暴虐な暗君として登場するがこれは史実ではない。
補足:史実の定正は長享の乱で勢力を拡大させるなどむしろ戦上手の優秀な武将であったが、江戸城を築いた太田道灌を粛清したことが響き、江戸時代に太田道灌が顕彰されると反比例して評価を落としていった。
太田資長 (太田道灌)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 93 | 90 | 86 | 76 | 83 | 洞察 | 詩想 | 泰然 | 築城 | 高慢 | 文事武備 | 王道 | |||||
| 93 | 85 | 90 | 80 | 82 | 洞察 | 詩想 | 泰然 | 築城 | 機略 | 聡明剛毅 | 鼓舞 | 斉射 | 奮戦 | 牽制 | 文事武備 | 王道 |
【オオタスケナガ】
扇谷上杉氏家宰。号である道灌の名で知られる。
鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したのを機に発生した享徳の乱では、宗家である山内上杉家を助けて下総古河に逃れた成氏陣営を各地で打ち破り、母方のいとこである長尾景春の反乱を鎮圧したことで、主家である扇谷上杉家の名を高めた。
しかし、主君である上杉定正が資長の策を取らなかったために度々苦戦した経緯から次第に不満を抱くようになり、反対に定正も資長の台頭を警戒するようになる。
そこに扇谷上杉家の台頭を快く思わない関東管領上杉顕定が定正に資長謀反の讒言を行い、それを信じた定正は資長を呼び寄せた際に謀殺する。
顕定は定正を功臣を軽んじる暗君であるとして討伐を命じ、その混乱の中で伊勢盛時(北条早雲)が関東に勢力を広げることになる。
歌人としても著名であるが、江戸城を築いた人物として名高く、東京都庁が丸の内にあった頃には道灌像がシンボルとして建てられていた(新宿移転後は都庁の建物内に移設)。
太田資康
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 61 | 58 | 62 | 50 | 55 | 再起 | 名声 | 動員 | 功名 | 直情 | 斉射 | 鼓舞 | 奮戦 | 牽制 | 三令五申 | 王道 | |
【オオタスケヤス】
室町時代末期の武将。太田資長(太田道灌)の嫡男。
足利成氏の人質として送られていたため、太田道灌粛清の際には難を逃れた。
のちに上杉定正と対立していた三浦高救とともに上杉顕定軍に加わり、
三浦高救の孫娘を娶った。上杉定正の死後、高救の子である三浦義同とともに
上杉朝良に許され、朝良に仕える。のちに伊勢宗瑞(伊勢盛時、北条早雲)に敗れて敗死した。
大森氏頼
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 79 | 70 | 82 | 81 | 78 | 文化 | 築城 | 人脈 | 諌止 | 柱石 | 斉射 | 鼓舞 | 奮戦 | 混乱 | 牽制 | 地勢研究 | 割拠 |
【オオモリウジヨリ】
室町時代の人物。扇谷上杉家重臣、小田原城主。
はじめ鎌倉公方足利持氏に仕え、永享の乱で活躍したが、
足利成氏の当主就任後は兄と別れて上杉定正に仕え、8代将軍足利義政に赦免された。
享徳の乱、長享の乱では上杉定正に従い各地の合戦で功をたて、長尾景春に並ぶ活躍と称されたという。
太田道灌が上杉定正に粛清されると定正第一の家臣となり、主君に諫言することもあった。
のちに小田原城に入って寺社を手厚く保護し、相模西部の支配を固めた。1494年死去。
補足:死後、小田原城は息子である大森藤頼の代になり、伊勢盛時(北条早雲)に奪われる。
武田信昌
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 73 | 75 | 37 | 32 | 68 | 地利 | 昂揚 | 調練 | 動員 | 軽率 | 突撃 | 激励 | 奮戦 | 大喝 | 牽制 | 地域巡回 | 割拠 |
【タケダノブマサ】
室町時代の人物。甲斐武田氏16代当主。孫に武田信虎、曾孫に武田信玄。
武田信守の子として生まれ、父が早逝すると若年ながら家督を継ぐ。
甲斐に勢力を築いていた跡部氏と対立し、苦戦の末に跡部景家を自害させて
武田氏の勢力拡大を成功させた。享徳の乱では室町幕府から
今川義忠とともに堀越公方側として参戦したとされる。のちに長男、
武田信縄に家督を譲るが、その後次男の油川信恵を寵愛したため、
甲斐を二分する内乱を招いた。内乱のさなか1505年に死去した。
今川範忠
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 81 | 83 | 70 | 77 | 79 | 果敢 | 英名 | 粉砕 | 寡欲 | 功名 | 忠勇義烈 | 鼓舞 | 奮戦 | 急襲 | 突撃 | 鶴翼強化 | 覇道 |
【イマガワノリタダ】
駿河の守護大名。今川家7代当主。今川範政の子とも、甥とも伝わる。
小鹿範頼との家督争いでは、6代将軍足利義教の強い支持を受けて
家督争いに勝利し、そのため幕府に対して忠義を貫いた。
永享の乱や結城合戦で功をあげ、「天下一苗字」(範忠の子孫のみが今川姓を名乗れる)を
幕府から与えられた。享徳の乱では足利成氏不在の鎌倉を攻め落とし、古河公方成立の端緒となる。
のち嫡男義忠に家督を譲って1461年に死去。
※従来、今川範忠は今川範政の子と考えられていたが、近年では甥説が浮上し、家督争いでは本来の家督筋である範政の息子である範頼と、成人して幕府の信任厚い範忠との間で起こったとする説がある。
※小鹿範頼の子は小鹿範満といい、のちに今川家の家督を巡って今川氏親と対立したが、伊勢盛時(北条早雲)に阻まれる。
今川義忠
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 65 | 73 | 61 | 38 | 72 | 名声 | 人脈 | 文化 | 軽率 | 粗忽 | 侵略荒廃 | 割拠 | |||||
| 71 | 76 | 61 | 38 | 72 | 名声 | 人脈 | 文化 | 軽率 | 粗忽 | 突撃 | 激励 | 斉射 | 侵略荒廃 | 割拠 | ||
【イマガワヨシタダ】
室町時代の人物。足利家一門にして駿河守護今川家8代当主。
嘉吉の乱や享徳の乱で父に代わって出陣し、早くから存在感を示す。
享徳の乱では鎌倉攻略において抜群の軍功を立て、足利義政から感状と「義」の偏諱を受けた。
室町幕府では将軍庶兄の足利政知や、幕府有力者である伊勢盛定と親しくし、後に盛定の娘を正室に迎えた。
応仁の乱では前者2人との関係や、対立する斯波義廉の動きもあって東軍に属するが、混沌とする戦況もあり
東軍所属の斯波氏をも敵に回した。斯波氏の被官を数多攻め滅ぼしたが、1476年遠江塩買坂で戦死。
※ 今川氏と斯波氏の争いは、のちに義忠の孫である今川義元と、斯波氏被官である織田信長の代まで続いた。なお義忠戦死後の今川家復興は、彼の義兄弟である伊勢盛時に託される。
今川範満(小鹿範満)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 64 | 78 | 53 | 44 | 66 | 名声 | 動員 | 強奪 | 功名 | 直情 | 墨守研究 | 割拠 | |||||
【イマガワノリミツ/オシカノリミツ】
室町時代の人物。足利家一門にして駿河守護今川家の一門。今川家6代当主今川範政の孫。
父の小鹿範頼は今川範政の息子で寵愛を受けながらも家督を相続できなかった。
1476年、従兄の今川義忠が遠江塩買坂の戦いで戦死すると、上杉定正や太田道灌、駿河国人衆の支持を得て
今川家の家督を相続する。しかし、1486年に太田道灌が暗殺されると後ろ盾を失い、
翌年、今川義忠の嫡男である龍王丸(のちの今川氏親)を庇護していた伊勢盛時(北条早雲)に
家督奪回を掲げて襲撃され、善戦するも敗北。自刃した。
補足:同姓同名の別の人物がいることや、小鹿姓を称したことから小鹿範満と呼ばれやすい。
補足:通説では従来、あくまでも龍王丸成人までの家督代行とされてきたが、近年は実際に今川家当主となっていたと言われている。
今川氏親
今川家を参照
伊勢盛時(北条早雲)
後北条家(関東北条家)を参照