注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本(豊臣家)
農民(織田家の遠縁説あり)の生まれである豊臣秀吉は、織田信長に属して頭角を現し、やがて養子として織田信長の息子、織田秀勝を迎え入れ、中国方面の重鎮に抜擢された。
本能寺の変後は、いち早く大返しを行い、明智光秀を討った。その後織田家の跡継ぎに他の四宿老とともに幼少の三法師を擁立したが、織田信雄と手を組んで、
やがて柴田勝家と織田信孝と対立。これを滅ぼし、さらに徳川家康や織田信雄を支配下に入れ、事実上織田家にとってかわって天下人となる。
摂関家の猶子となって関白太政大臣となり、次いで豊臣姓を賜り、四国、九州を平定したのち、1590年に小田原で後北条氏と伊達氏を降伏させて天下を統一した。
しかし、晩年は相次ぐ親戚一門の死没、明征服を企図した朝鮮出兵の長期化(秀吉の死後、頓挫)と後継者問題の混乱から、その死後豊臣家の覇権は長続きしなかった。
関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利するとその勢いを押し止めることはできず、最終的に1615年の大坂の陣において豊臣家は滅亡、断絶した。
豊臣家は滅亡したものの、農民から一代で天下人にのぼりつめた豊臣秀吉の生涯は徳川治世においても尊崇され、明治時代には秀吉を祭神として再度祀ることになり、のちに正一位を追贈された。
織田家については織田家を、徳川家については 徳川家 を参照。
豊臣家の一部の家臣については 豊臣系陪臣や 黒田二十四騎を参照。
当主・妻妾
豊臣秀吉
※信長の野望・新生版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 96 | 81 | 98 | 97 | 98 | 伏龍 | 任才 | 崩壁 | 築城 | 強運 | 袁家栄光 | 陥陣営 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 罵声 | 先従隗始 | 覇道 |
※信長の野望・新生版(三国志14の能力に準拠したもの)魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 89 | 81 | 98 | 97 | 98 | 任才 | 洞察 | 脱兎 | 築城 | 強運 | 酖毒 | 活殺自在 | 罵声 | 鼓舞 | 鎮静 | 投石 | 先従隗始 | 覇道 |
新生では統率(部隊防御)・武勇(部隊攻撃)に分割されているため、平均した数値を統率とした。
※信長の野望・大志版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 95 | 80 | 97 | 95 | 98 | 任才 | 洞察 | 崩壁 | 築城 | 強運 | 破竹之勢 | 陥陣営 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 罵声 | 先従隗始 | 覇道 |
※信長の野望・大志版(三国志14の能力に準拠したもの)魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 90 | 80 | 97 | 93 | 98 | 任才 | 洞察 | 崩壁 | 築城 | 強運 | 破竹之勢 | 陥陣営 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 罵声 | 先従隗始 | 覇道 |
大志では統率(士気)・武勇(部隊攻撃)・智謀(部隊防御)に分割されているため、各能力値を平均した数値を統率とした。
また政治も内政と外政で分割されているため、双方を平均した数値を政治としている。
※信長の野望・天道版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 87 | 73 | 93 | 100 | 93 | 任才 | 崩壁 | 殿軍 | 築城 | 強運 | 破竹之勢 | 足止 | 挑発 | 混乱 | 鼓舞 | 投石 | 先従隗始 | 覇道 |
魅力は太閤立志伝Vから採用。
※信長の野望・革新版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 87 | 65 | 94 | 100 | 93 | 任才 | 崩壁 | 殿軍 | 築城 | 強運 | 破竹之勢 | 足止 | 挑発 | 混乱 | 鼓舞 | 投石 | 先従隗始 | 覇道 |
魅力は太閤立志伝Vから採用。
※太閤立志伝V版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 83 | 58 | 99 | 93 | 93 | 任才 | 崩壁 | 殿軍 | 築城 | 強運 | 破竹之勢 | 足止 | 挑発 | 混乱 | 鼓舞 | 投石 | 先従隗始 | 覇道 |
※太閤立志伝IV版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 80 | 59 | 95 | 85 | 91 | 任才 | 崩壁 | 殿軍 | 築城 | 強運 | 破竹之勢 | 足止 | 挑発 | 混乱 | 鼓舞 | 投石 | 先従隗始 | 覇道 |
※別案
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 97 | 82 | 100 | 98 | 99 | 任才 | 伏龍 | 堅守 | 築城 | 強運 | 活殺自在 | 大器大徳 | 袁家威光 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 先従隗始 | 覇道 |
| 95 | 80 | 97 | 95 | 98 | 任才 | 洞察 | 崩壁 | 築城 | 強運 | 破竹之勢 | 陥陣営 | 兵貴神速 | 足止 | 治療 | 鼓舞 | 先従隗始 | 覇道 |
| 95 | 80 | 97 | 95 | 98 | 任才 | 神機 | 伏龍 | 築城 | 強運 | 破竹之勢 | 陥陣営 | 兵貴神速 | 足止 | 治療 | 鼓舞 | 先従隗始 | 覇道 |
※別案
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 97 | 85 | 100 | 99 | 99 | 伏龍 | 任才 | 殿軍 | 築城 | 強運 | 破竹之勢 | 陥陣営 | 挑発 | 混乱 | 鼓舞 | 投石 | 経世済民 | 覇道 |
信長の野望新生をベースに、智謀に長け、数々の攻城戦や謀略戦を勝ち抜いて日ノ本完全統一を果たした秀吉全盛期の能力値。
※別案
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 91 | 70 | 94 | 96 | 99 | 任才 | 殿軍 | 疾走 | 強運 | 築城 | 破竹之勢 | 陥陣営 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 投石 | 先従隗始 | 覇道 |
※バランス調整用
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 92 | 70 | 94 | 92 | 98 | 任才 | 洞察 | 崩壁 | 築城 | 強運 | 破竹之勢 | 陥陣営 | 急襲 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 先従隗始 | 覇道 |
能力値は最新作である信長の野望・大志の-5%(-5%でも武力が高過ぎたため更に6減じて、その分を統率・知力・政治に2ずつ加算)。
魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用。本家三國志14の能力値と適合調整されたもの。他の武将を無調整で使う場合はこちらを。
※別案(三國志14準拠版)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 93 | 65 | 97 | 96 | 99 | 伏龍 | 殿軍 | 疾走 | 強運 | 築城 | 兵貴神速 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 急襲 | 治療 | 先従隗始 | 覇道 |
| 93 | 67 | 96 | 94 | 95 | 伏龍 | 殿軍 | 疾走 | 強運 | 築城 | 兵貴神速 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 罵声 | 投石 | 先従隗始 | 覇道 |
三國志14のデータを無編集で使いたい人用。織田信長?の能力値を基準にしている。他の戦国武将との個性かぶりを避けたかったため「伏龍」に。拘りがなければ任才(人使いの上手さを再現)のがいいかも?
※手取川曲事(1577年)前
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 85 | 70 | 87 | 85 | 88 | 任才 | 築城 | 強運 | 能吏 | 功名 | 陥陣営 | 激励 | 罵声 | 矢嵐 | 鉄壁 | 牽制 | 先従隗始 | 覇道 |
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。
魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用。手取川の無断退却(1577年)までは能力値それぞれマイナス10とした。
※晩年Ver.
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 85 | 56 | 85 | 90 | 59 | 虚実 | 築城 | 高慢 | 消沈 | 短慮 | 活殺自在 | 大喝 | 業火 | 混乱 | 罵声 | 井闌 | 上兵伐謀 | 覇道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 94 | 65 | 99 | 97 | 96 | 伏龍 | 任才 | 殿軍 | 疾走 | 築城 | 兵貴神速 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 急襲 | 治療 | 先従隗始 | 覇道 |
| 94 | 65 | 99 | 97 | 96 | 伏龍 | 任才 | 殿軍 | 疾走 | 築城 | 神算鬼謀 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 急襲 | 治療 | 先従隗始 | 覇道 |
| 95 | 62 | 99 | 98 | 97 | 伏龍 | 任才 | 殿軍 | 疾走 | 築城 | 神算鬼謀 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 急襲 | 治療 | 先従隗始 | 覇道 |
| 95 | 62 | 99 | 98 | 97 | 伏龍 | 任才 | 強運 | 疾走 | 築城 | 神算鬼謀 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 急襲 | 治療 | 先従隗始 | 覇道 |
三國志14のおまけ武将の能力値から想定して作成。金ヶ崎の殿軍、中国大返しの疾走を採用。日ノ本一の知恵者と言われることもあるので、知力は優先的にステータスを付与。
「三英傑」ということで、ステータス合計数値は451と、織田信長と全く同じ数値とした。
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 94 | 63 | 97 | 96 | 95 | 虚実 | 任才 | 築城 | 強運 | 策士 | 兵貴神速 | 奮戦 | 混乱 | 鼓舞 | 衝車 | 投石 | 先従隗始 | 覇道 |
| 94 | 62 | 98 | 96 | 95 | 伏龍 | 任才 | 強運 | 疾走 | 築城 | 神算鬼謀 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 急襲 | 治療 | 先従隗始 | 覇道 |
おまけ武将準拠。三英傑とはいえ、秀吉と家康の躍進や天下取りはあくまで信長ありきの成果であり、信長より下回る合計能力値とした。
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 96 | 60 | 99 | 98 | 96 | 伏龍 | 任才 | 強運 | 疾走 | 築城 | 神算鬼謀 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 急襲 | 治療 | 先従隗始 | 覇道 |
| 96 | 60 | 99 | 98 | 97 | 伏龍 | 任才 | 強運 | 疾走 | 築城 | 神算鬼謀 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 急襲 | 治療 | 先従隗始 | 覇道 |
武田信玄以上、織田信長未満の合計能力値とした能力値案。
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 96 | 61 | 99 | 98 | 96 | 伏龍 | 任才 | 強運 | 殿軍 | 築城 | 神算鬼謀 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 急襲 | 治療 | 先従隗始 | 覇道 |
戦国三英傑の一人であるが、近年は対外戦争を行ったことが響いて三英傑の中では人気が下位に甘んじている。
信長の野望でも一時期はかなり能力が低く「本当に天下人?」と言われるほど不遇であったが
創造や新生からは天下人にふさわしい能力を得ている。
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 93 | 66 | 91 | 90 | 96 | 任才 | 脱兎 | 殿軍 | 築城 | 強運 | 酖毒 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 罵声 | 投石 | 先従隗始 | 覇道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 96 | 60 | 99 | 98 | 97 | 伏龍 | 任才 | 強運 | 殿軍 | 築城 | 神算鬼謀 | 足止 | 混乱 | 鼓舞 | 急襲 | 治療 | 先従隗始 | 覇道 |
【トヨトミヒデヨシ】
劉邦同様、農民から天下人に昇りつめた戦国一の出世頭。
織田信長にその才能を見出され、奉行職を歴任。優れた政務能力と外交能力を発揮した。
将軍としても重用され、各地の戦場を転戦し1571年には箕浦合戦で10倍強の浅井軍を撃退。
1573年には小谷城虎口攻めを独力で行い、浅井家を滅ぼした。その後も軍功を重ね、中国方面軍の司令官に任命される。
本能寺の変で信長が討たれると瞬く間に覇者としての頭角を現し、驚くべき速度で勢力を拡大。
織田家、毛利家、上杉家、徳川家などを支配下に置いて日本の完全統一を果たし、信長、家康同様「三英傑」の一角に数えられた。
豊臣寧々
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 7 | 4 | 62 | 78 | 93 | 応援 | 求心 | 論客 | 仁政 | 慰撫 | 太学 | ||||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 57 | 24 | 62 | 78 | 93 | 応援 | 才媛 | 論客 | 仁政 | 慰撫 | 鼓舞 | 治療 | 鎮静 | 太学 | 王道 | ||
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 67 | 24 | 78 | 82 | 93 | 応援 | 才媛 | 論客 | 仁政 | 慰撫 | 天衣無縫 | 治療 | 鎮静 | 鼓舞 | 足止 | 太学 | 王道 |
| 67 | 24 | 78 | 82 | 83 | 応援 | 才媛 | 論客 | 仁政 | 慰撫 | 天衣無縫 | 治療 | 鎮静 | 鼓舞 | 足止 | 太学 | 王道 |
羽柴秀吉が長浜城主になったころからしばしば領内統治に参画。豊臣秀吉の唐入りの際には、豊臣秀次とともに事実上国内統治のTOPにあった。
【トヨトミネネ】
「おね」「ね」「ねい」「北政所」「高台院」とも。14歳で秀吉に嫁いだ後は
秀吉や自身の縁者、養子などを養育し、秀吉が長浜城主となると多忙を極める旦那に
かわって行政や人事に参加し、秀吉を内助の功で支えた。豊臣秀吉が天下人になっても
内政や外交面では秀吉を補佐し続け、豊臣家中でも重きをなしている。秀吉死没後は秀頼生母の淀殿に
その地位を移譲、自らは京都に隠棲しながらも豊臣家を影から支えた。後年、徳川幕府から
厚遇されたが、秀吉正室としての影響力の高さを危惧され、その晩年は不自由なものであったという。
豊臣茶々(浅井茶々)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 28 | 36 | 58 | 69 | 65 | 才媛 | 詩想 | 智嚢 | 消沈 | 動転 | |||||||
| 28 | 36 | 58 | 69 | 65 | 応援 | 詩想 | 智嚢 | 消沈 | 動転 | 激励 | 鼓舞 | 方円強化 | 割拠 | |||
【トヨトミチャチャ/アザイチャチャ/アサイチャチャ)】
戦国・江戸時代の女性。浅井長政の長女。母はお市の方。淀君、淀殿。
小谷城で生誕するも、浅井織田の戦争に巻き込まれ、幼くして父と死別。
藤掛永勝に救助され、織田信包のもとで育つ。その後賤ヶ岳合戦にて母とその再婚相手であった
義父の柴田勝家とも死別し、織田信雄に庇護されて育つ。1588年に豊臣秀吉の側室となり、
翌年に鶴松、1593年に秀頼を産んだ。秀吉死後は高台院と協調しつつ中央政局には静観し、
天下泰平のための寺院修築や建立などを行っている。しかし、豊臣徳川の政治対立から衝突が始まり、
1615年の大坂夏の陣で大坂城が落城し豊臣家は滅亡。城の一角で自害した。生存説もある。
豊臣秀頼
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 52 | 33 | 64 | 71 | 79 | 任才 | 富豪 | 求心 | 潜在 | 功名 | 太学 | 王道 | |||||
| 52 | 33 | 64 | 71 | 79 | 富豪 | 求心 | 潜在 | 召募 | 小心 | 激励 | 太学 | 覇道 | ||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 42 | 33 | 64 | 71 | 89 | 召募 | 富豪 | 改修 | 潜在 | 功名 | 鼓舞 | 挑発 | 混乱 | 城壁拡張 | 覇道 | ||
江戸幕府創設後も右大臣に就任するなど確たる権勢を所持しており、西国の寺社修復などで力を誇示した。
一方、戦場には最終的に立ったこともなく、軍事能力はあくまでも未知数である。
【トヨトミヒデヨリ】
秀吉の次男。わずか6歳で豊臣家を継ぎ、秀吉亡き後の豊臣家を纏める地位に立つが
前田利家の逝去もあり、七将襲撃事件など混乱する豊臣家中を抑えることができず、
徳川家康の台頭、ひいては関ヶ原合戦を発生させ、権力を縮小させた。
その後も天下で一目置かれる存在ではあり続けたものの、その勢力を危険視した家康によって
大坂の陣を起こされる。自ら家康との徹底抗戦を主張し、浪人衆を多く雇って徳川方と戦い続けるが
やがて徳川方の物量作戦や機知によって劣勢になり、夏の陣で敗北。大坂城一角で自害した。生存説もある。
一門・養子
豊臣秀長
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 79 | 67 | 83 | 89 | 85 | 督励 | 補佐 | 工面 | 柱石 | 仁政 | 酖毒 | 鯨波 | 混乱 | 鎮静 | 鼓舞 | 治療 | 歳出改善 | 覇道 |
| 79 | 67 | 83 | 89 | 85 | 虚実 | 補佐 | 徴税 | 柱石 | 督励 | 酖毒 | 鯨波 | 混乱 | 鎮静 | 鼓舞 | 治療 | 歳出改善 | 覇道 |
| 81 | 67 | 83 | 89 | 85 | 虚実 | 補佐 | 徴税 | 柱石 | 督励 | 酖毒 | 鯨波 | 混乱 | 鎮静 | 鼓舞 | 治療 | 歳出改善 | 王道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 81 | 64 | 86 | 91 | 88 | 虚実 | 富豪 | 徴税 | 柱石 | 補佐 | 酖毒 | 斉射 | 混乱 | 鎮静 | 鼓舞 | 治療 | 縦横術 | 覇道 |
兄の豊臣秀吉を支えた弟。創作物では従順なNo.2とされることが多いが、諸大名などに高利貸し(奈良貸し)をしていて蓄財癖があったという。
【トヨトミヒデナガ】
戦国時代の武将、織田家臣。秀吉の弟。
兄とともに織田信長に仕え、秀吉の片腕として、また織田家臣として
織田信長、豊臣秀吉の活躍を補佐する。秀吉の中国攻めの際には山陰方面を管轄した。
本能寺の変後は秀吉の天下統一事業に貢献。山崎合戦や四国征伐でも功を立て、
その後の九州征伐にも従軍した。小田原征伐には参陣せず、その後病を得て没した。
「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)」と語られるほど秀吉に重宝されていたという。
豊臣秀次
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 78 | 65 | 82 | 84 | 77 | 名声 | 人脈 | 動員 | 召募 | 求心 | |||||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 68 | 55 | 72 | 74 | 67 | 名声 | 人脈 | 動員 | 召募 | 潜在 | 斉射 | 鼓舞 | 鎮静 | 牽制 | 挑発 | 地域振興 | 割拠 |
【トヨトミヒデツグ】
秀吉の姉の子。天正年間の叔父、秀吉を支えた。
小牧長久手の戦いでは徳川家康や織田信雄に行軍を看過され、大被害を蒙る失策をするも
四国征伐では叔父の豊臣秀長と協力し、長宗我部元親を下す働きを見せる。
その後も各地で文武両面で功績をあげ、秀吉の養子となって後継者に指名され、関白に就任した。
しかし秀頼が生誕すると秀吉との確執が始まり、1595年、秀吉の命で切腹した。
文武に優れ剛毅な気質を持った人物であると伝わっており、秀吉はその資質を恐れたと言われている
豊臣秀勝(小吉秀勝)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 57 | 63 | 37 | 52 | 69 | 名声 | 動員 | 調達 | 軽率 | 虚弱 | 牽制 | 足止 | 地域巡回 | 割拠 | |||
【トヨトミヒデカツ】
豊臣秀吉の甥。豊臣秀次の弟。幼名は小吉。
先に秀吉の養子となっていた織田信長の息子で於次こと羽柴秀勝の
地位を引き継いで、丹波亀山城主となる。九州征伐では蒲生氏郷と前田利長の城攻めを支援し
戦功をあげたが、同年所領の少なさを秀吉に訴えたために不興を買い領地を没収される。
小田原征伐では兄である豊臣秀次と連携して山中城を攻め落とし、その戦功で甲斐、ついで
美濃岐阜を領する。唐入りの文禄の役では大将として出陣するが、病に倒れ24歳で没した。
※織田信長の息子で秀吉の養子となった於次こと羽柴秀勝と区別するため小吉秀勝、豊臣秀勝とも呼ばれる。
※のちに徳川秀忠の正室となる崇源院こと江の最初の夫。一女あり。
※彼の遺領や地位は織田秀信が継いだ。この時、「信長ー秀勝(於次+小吉)ー秀信」という縁組がなされたとも言われている。
豊臣秀保
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 31 | 30 | 55 | 63 | 72 | 詩想 | 潜在 | 名声 | 人脈 | 虚弱 | 足止 | 挑発 | 戸籍整備 | 割拠 | |||
【トヨトミヒデヤス】
豊臣秀吉の甥。豊臣秀次、豊臣秀勝の弟。
幼少の頃から兄の秀次に仕えて一門として貢献。秀吉の弟である
豊臣秀長が危篤となると、彼の娘を娶り婿養子としてその後継者となる。
藤堂高虎と桑山重晴に後見されて大和郡山の領主をつとめた。以後は
兄の豊臣秀次が関白となるにつれ豊臣一門筆頭と目され、唐入りの
文禄の役の際には肥前名護屋に滞陣した。1595年、病に倒れ17歳で早逝した。
※江戸時代、彼の悪名を伝える逸話が多く残っているが、そこでは「豊臣秀俊」とされ、実際にそう名乗っていた小早川秀秋との混同が見られる。
※彼の死後、大和豊臣家は断絶した。
小早川秀秋(木下秀俊)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 60 | 45 | 31 | 12 | 49 | 動員 | 小心 | 浪費 | 酒乱 | 優柔 | 突撃 | 侵略荒廃 | 名利 | ||||
※別案
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 65 | 69 | 41 | 32 | 59 | 動員 | 召募 | 悪名 | 酒乱 | 浪費 | 突撃 | 侵略荒廃 | 名利 | ||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 55 | 59 | 41 | 32 | 53 | 動員 | 召募 | 悪名 | 酒乱 | 浪費 | 突撃 | 侵略荒廃 | 名利 | ||||
【コバヤカワヒデアキ/キノシタヒデトシ】
戦国時代の武将。北政所の兄、木下家定の子。金吾中納言。初名「秀俊」。
豊家一門ということもあり7歳にして元服、朝廷との連絡役を務め豊臣秀次に次ぐ後継者候補だった。
豊臣秀頼が誕生すると黒田孝高の発案で秀秋を毛利輝元の養子にする案が浮上したが、
小早川隆景の機転で秀秋を養子として志願し落着する。慶長の役で渡海し明・朝鮮軍と交戦もしているが終戦前に秀吉の命で帰国している。
関ケ原の戦いでは東西両軍から味方になるよう誘われ、西軍として伏見城攻撃に参加した後に本戦で脇坂安治らを巻き込んで寝返り大谷吉継を撃破、東軍勝利の決定打となった。
豊家一門でありながら関ケ原で寝返ったため現在に至るまで秀秋の評価は芳しくなく、
7歳から飲酒を始めた末に21歳で早世、加え奢侈な暮らしぶりから叔母である北政所をはじめ金の無心をするのが常だったという。
補足:関ヶ原の戦いについて、従来どおりの定説ではなく、開戦当初から東軍に属しており、大谷吉継隊を打ち破ったとする新説を採用。酒乱癖と浪費癖は史実のようで、一次史料にも記述がある。
なお近衛信尹の追悼文によると、かつては慈悲深い少年であったらしく、関ヶ原の戦いが起こる19歳までは悪名のかわりに慈悲をつけてもいいかもしれない。
ちなみに通説ではさも松尾山に布陣しており家康が放たせた鉄砲の銃撃で東軍に寝返った(問鉄砲)、とされているが、そもそも関ヶ原の戦いの一次史料に松尾山は出てこない。
羽柴秀勝(織田秀勝)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 54 | 6 | 50 | 72 | 79 | 動員 | 潜在 | 名声 | 仁政 | 虚弱 | |||||||
| 54 | 46 | 50 | 72 | 79 | 動員 | 潜在 | 名声 | 仁政 | 虚弱 | 鼓舞 | 治療 | 鎮静 | 戸籍整備 | 王道 | ||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 56 | 54 | 60 | 72 | 79 | 動員 | 潜在 | 名声 | 仁政 | 虚弱 | 鼓舞 | 治療 | 鎮静 | 戸籍整備 | 王道 | ||
【ハシバヒデカツ】
織田信長の四男。羽柴秀吉の養子となる。
若年の頃から近江長浜、播磨姫路の統治に貢献し秀吉の中国攻めを後方から支えた。
1581年からは中国征伐の前線に参戦し、信長秀吉双方の期待を背負っていた。
しかし本能寺の変で信長が討たれると反転、山崎の戦いでは実兄の織田信孝と協力して
明智光秀を討伐。戦後、丹波亀山を領して織田家の中核を担った。信長葬儀の喪主をつとめ、賤ヶ岳の戦いにも参戦して
柴田勝家の討伐に貢献した。翌年には小牧の戦いにも参陣するが、病を重くしたため撤退。その翌年に早逝した。
持病の悪化で病死したとする見方が定説であるが、羽柴秀吉がその資質と存在を恐れ暗殺したという異説もある。
補足:従来「信長の四男」と言われてきたが、近年では「信長の五男(勝長の弟)」説が提唱されている。
補足:蒲生氏郷に嫁いだ相応院(冬姫)と同母兄弟姉妹という説もある。
親族・縁戚
浅野長吉
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 63 | 50 | 76 | 88 | 69 | ||||||||||||
| 65 | 54 | 78 | 88 | 74 | 能吏 | 名声 | 人脈 | 農政 | 米道 | |||||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 60 | 54 | 78 | 81 | 74 | 能吏 | 名声 | 人脈 | 農政 | 米道 | 斉射 | 鼓舞 | 牽制 | 歳出改善 | 覇道 | ||
【アサノナガヨシ】
戦国時代の武将。父は川並衆と昵懇であった安井重継。のち織田家家臣であった浅野長勝の養子。同じく養妹にねねがいる。
上述の経緯から秀吉の義兄に当たるため、信長の命で秀吉の与力となる。
1573年の浅井長政討伐から秀吉に付き従い、秀吉に近侍して彼を支えた。
のち、本能寺の変が発生すると、秀吉つきの官僚として織田家でも要職を歴任。京都奉行として政治の中枢を担う。
羽柴秀吉に付き従い賤ヶ岳の戦いにも参戦し功をたて、以後は京都奉行職を継続してつとめ、のちに五奉行の筆頭となる。
秀吉の天下統一事業に貢献するべく軍事行動に従う傍ら、太閤検地の実施や金銀山の管轄など政治での活躍も大きかった。
その後も秀吉に重宝され、甲斐21万石を領するが、関ヶ原合戦前に隠居。戦後は隠居領で隠棲し、1611年に死去した。
浅野幸長
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 83 | 79 | 74 | 69 | 71 | 遠矢 | 築城 | 文化 | 沈着 | 堅牢 | 連弩 | 牽制 | 火矢 | 足止 | 雁行強化 | 王道 | ||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 74 | 79 | 73 | 69 | 71 | 遠矢 | 築城 | 文化 | 沈着 | 堅牢 | 連弩 | 牽制 | 火矢 | 足止 | 雁行強化 | 王道 | ||
【アサノヨシナガ】
安土桃山時代~江戸時代初期の武将、大名。
浅野長政の長男で諱は当初長慶を名乗り、その後は長継を長く名乗っている。
小田原の陣で初陣を飾り朝鮮出兵にも従軍して活躍し、秀吉死後は石田三成と対立した七将の1人で関ヶ原の戦いでは東軍に参加し緒戦で功績を挙げた。
戦後は紀州藩主となり娘が徳川義直に嫁ぐなど徳川家との関係を強めるが1613年に38歳で病死した。
親愛武将 加藤清正 福島正則 細川忠興 蜂須賀家政 加藤嘉明 黒田長政 豊臣秀次
嫌悪武将 石田三成
加藤清正
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 90 | 92 | 70 | 74 | 86 | 堅牢 | 泰然 | 築城 | 能吏 | 功名 | 城壁拡張 | 覇道 | |||||
| 81 | 88 | 79 | 69 | 89 | 堅牢 | 泰然 | 築城 | 能吏 | 功名 | 城壁拡張 | 覇道 | |||||
| 81 | 88 | 80 | 82 | 89 | 神将 | 堅牢 | 泰然 | 築城 | 能吏 | 城壁拡張 | 覇道 | |||||
| 81 | 88 | 79 | 69 | 89 | 神将 | 堅牢 | 泰然 | 築城 | 能吏 | 城壁拡張 | 覇道 | |||||
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 82 | 80 | 81 | 87 | 神将 | 堅牢 | 泰然 | 築城 | 能吏 | 虎翼勇戦 | 突撃 | 激励 | 鉄壁 | 斉射 | 城壁拡張 | 覇道 |
| 83 | 84 | 80 | 81 | 82 | 神将 | 堅牢 | 泰然 | 築城 | 能吏 | 虎翼勇戦 | 突撃 | 激励 | 鉄壁 | 斉射 | 城壁拡張 | 覇道 |
豊臣家きっての武闘派とされることが多いが、彼が軍団を率いたのは確たる史実では文禄・慶長の役からで、
それ以前の清正はもっぱら後方守備などが多かった。なお小牧・長久手の戦いにおける加藤清正が率いた人数は史実では150人であるとされる。
【カトウキヨマサ】
戦国時代の武将。豊臣秀吉の遠縁にあたり、若くから彼の部下として活躍した。
賤ヶ岳の戦い、豊薩合戦などで功績をあげ肥後半国の国主に取り立てられる。
朝鮮出兵が始まると日本軍の司令官に就任。破竹の勢いで朝鮮軍を破りながら北上し、
僅か1か月半で朝鮮半島を縦断して満州まで到達した。
2度の蔚山城攻防戦では朝鮮・明連合軍の大軍に対し、蔚山倭城に寡兵で籠城。
水や食料が尽きながらも援軍到達まで持ち堪え、猛攻に徹する事で朝鮮・明連合軍に
壊滅的な打撃を与える。関ヶ原の戦いでは東軍に加わり、後に熊本藩主となった。築城の名手としても知られる。
福島正則
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 67 | 93 | 48 | 54 | 81 | 掃討 | 果敢 | 調達 | 直情 | 酒乱 | 鋒矢強化 | 覇道 | |||||
| 79 | 90 | 69 | 52 | 80 | 掃討 | 果敢 | 調達 | 直情 | 酒乱 | 鋒矢強化 | 覇道 | |||||
| 79 | 90 | 69 | 52 | 80 | 闘将 | 掃討 | 果敢 | 粗暴 | 猪突 | 鋒矢強化 | 覇道 | |||||
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 82 | 83 | 69 | 71 | 75 | 闘将 | 果敢 | 築城 | 運搬 | 酒乱 | 龍驤勇戦 | 突撃 | 激励 | 大喝 | 奮戦 | 鋒矢強化 | 覇道 |
| 84 | 85 | 70 | 71 | 75 | 闘将 | 果敢 | 築城 | 運搬 | 酒乱 | 龍驤勇戦 | 突撃 | 激励 | 大喝 | 奮戦 | 鋒矢強化 | 覇道 |
| 84 | 85 | 70 | 71 | 75 | 闘将 | 果敢 | 運搬 | 直情 | 酒乱 | 龍驤勇戦 | 突撃 | 激励 | 大喝 | 奮戦 | 鋒矢強化 | 覇道 |
猪突な猪武者という印象が強いが、内政もそこそここなす文武両道の武将だったとされている。ただし猪武者と言われる講談では武勇に長けた逸話も多く能力値案的には一長一短か。
とくに朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際には兵站管理も担当し卒なくこなした。血気に逸る逸話は一次史料にもあり、関ヶ原合戦の前哨戦では織田軍と戦った味方の池田軍に
激怒し、池田輝政に対して一触即発の怒りをぶつけて本多忠勝や井伊直政に窘められたりもしている。しかし一方で、織田秀信の助命を勧めたのは福島正則という説が根強く、情で動く人物でもあった
【フクシママサノリ】
戦国時代の武将。福島正信の嫡男。母は豊臣秀吉の叔母。
父とともに早くから豊臣秀吉の家臣として仕え、別所長治との戦いで初陣を飾る。
以降、その剛勇を遺憾なく発揮して豊臣秀吉の天下統一事業に貢献。特に賤ヶ岳合戦では一番槍、一番首をあげた。
豊臣秀吉の天下統一後は唐入り事業に従事し、その関係で朝鮮へと繰り出す。時に戦争、時に兵站を任され活躍するが
その過程で石田三成と対立。秀吉の死後も豊臣秀頼に忠誠を尽くすが、関ヶ原合戦の際は三成との対立から東軍についた。
関ヶ原合戦後は安芸国を任され、豊臣徳川両体制の融和を図るが失敗。大坂の陣、徳川家康の死を境に徳川家と対立するようになり、
城の修復を将軍である徳川秀忠に強引に咎められ減封。大坂の陣の後に移封先の川中島で死去した。
三好吉房
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 28 | 25 | 39 | 47 | 51 | 消沈 | 鼓舞 | 運搬開発 | 礼教 | |||||||||
【ミヨシヨシフサ】
戦国時代の武将。名は弥助。
尾張国の出身で元は馬借だったと言われる。
秀吉の姉ともの夫として士分に取り立てられて一門となり、
息子の秀次が三好康長の養子となった事で三好姓を称している。
秀次の家老であったが秀次切腹に連座して流罪となる。
副田吉成
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 39 | 37 | 41 | 46 | 53 | 運搬 | 惰弱 | 消沈 | 衝車 | 兵站改革 | 王道 | |||||||
【ソエダヨシナリ】
戦国時代の武将。尾張の出身で秀吉の妹である朝日姫の夫として知られ通称は甚兵衛、佐治日向守とも。
秀吉に仕えて秀長の但馬侵攻に与力として参加し、多伊城主となるが本能寺の変にて発生した一揆軍により多伊城を奪われた。
信長の葬儀では奉行の1人として活動し賤ヶ岳の戦い後は捕虜の佐久間盛政らを護送するが、
秀吉の命で家康に嫁ぐ朝日姫と離縁する事になり、その際に五万石の加増を言われるが拒否して故郷に隠棲した。
朝日姫との離縁の理由は多伊城失陥の責任を問われたともいう。
木下家定
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 52 | 46 | 64 | 65 | 68 | 慎重 | 寡欲 | 鉄壁 | 足止 | 墨守研究 | 王道 | |||||||
【キノシタイエサダ】
戦国時代の武将。秀吉の正室寧々の実兄で子に小早川秀秋らがいる。
秀吉の一門衆の筆頭格として重んじられ姫路城代や大坂城の留守居役を務めた。
関ヶ原の戦いでは妹寧々の警護の名目で中立を貫き戦後は隠居した。
木下勝俊
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 36 | 33 | 59 | 52 | 68 | 文化 | 詩想 | 短慮 | 小心 | 軽率 | 激励 | 地域振興 | 名利 | |||||
【キノシタカツトシ】
戦国時代の武将。木下家定の長男で寧々の甥にあたる。
秀吉の一門として若狭後瀬山城主であったが関ヶ原の戦いの際に東軍側に参加して
鳥居元忠と共に伏見城に籠城したが途中で退去、それが敵前逃亡と見做されて所領没収となる。
後に父の遺領を継ぐが弟の利房と争い、再び所領を失い京都に隠居した。
細川藤孝に歌道を学び歌人として著名になり長嘯子と号した。
青木一矩
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 72 | 69 | 57 | 59 | 65 | 召募 | 補佐 | 鼓舞 | 斉射 | 魚鱗強化 | 覇道 | |||||||
【アオキカズノリ】
戦国時代の武将。諱は重吉とも。通称は紀伊守。
美濃の出身で生母は秀吉の生母大政所の姉妹と伝わり秀吉とは従兄弟にあたる。
秀吉の弟秀長に仕えて賤ヶ岳の戦いや四国征伐に活躍する等、筆頭家臣として活躍した。その後は越前府中の大名となり羽柴姓を与えられた。
関ヶ原の戦いの際は越前北ノ庄を領して西軍に属したが既に病床の身で程なくして死去、戦後に所領は没収となる。
小出秀政
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 41 | 37 | 65 | 79 | 62 | 能吏 | 調達 | 築城 | 混乱 | 衝車 | 足止 | 運搬開発 | 覇道 | |||||
【コイデヒデマサ】
戦国時代の武将。
尾張中村の出身で秀吉と同郷秀吉の生母大政所の妹を妻とする。
秀吉に仕えて側近の奉行人として行政に携わり晩年は秀頼の傅役となる。
子孫は丹波国園部藩主として明治維新まで至る
家臣・与力
竹中半兵衛(竹中重治)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 86 | 70 | 99 | 57 | 85 | 伏龍 | 補佐 | 論客 | 策士 | 智嚢 | 十面埋伏 | 急襲 | 混乱 | 挑発 | 鎮静 | 文事武備 | 王道 |
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 66 | 65 | 88 | 77 | 75 | 鳳雛 | 扇動 | 論客 | 策士 | 虚弱 | 不戦屈敵 | 鼓舞 | 混乱 | 挑発 | 鎮静 | 墨守研究 | 覇道 |
天才軍師「竹中半兵衛」ではなく、なるべく史実の竹中重治に近づけた案。稲葉山城乗っ取りは龍興に対する諫止ではなく、
外交問題のこじれ(ざっくり言えば半兵衛+安藤派は親浅井重視、龍興派は親武田重視)であり、16人乗っ取りも舅の安藤守就との共謀であった。
半年ほど抗戦していたが支えきれず城を放棄して隠棲しており、その後は秀吉の家臣ではなく与力として信長の直臣となっている。
講談などでは軍事に采配が光る諸葛亮のような軍師として書かれているが、実際には調略や外交で力を発揮した人物だったようである。
三国志的に言えば諸葛亮というより戯志才のイメージ。
【タケナカハンベエ/タケナカシゲハル】
戦国時代の武将、斎藤家臣のち織田家臣(講談では羽柴家臣)。重元の次男で、正式な諱は重治。
安藤守就の娘を娶ったことから西美濃三人衆と行動をともにする。
1564年には斎藤龍興の籠る稲葉山城を義父の安藤守就とともに手勢わずか16名で落とした。
その後一時的に隠棲していたが、西美濃三人衆とともに台頭著しい織田信長に追従。彼の家臣となった。
浅井長政攻略の一環で丸毛兼利らとともに羽柴秀吉の与力となり、以後羽柴秀吉と行動を共にした。
秀吉の中国征伐に際しては宇喜多家との交渉を受け持ち、また黒田官兵衛が幽閉された際には信長の命に背いて松寿丸を匿っている。
のちに織田信長からもその行動は称賛され、信長の謝罪を受けた黒田官兵衛がそれに感謝するなど両者の関係仲介の肝を担ったが、それを見ることなく早逝した。
親愛武将 豊臣秀吉 黒田官兵衛
黒田官兵衛(黒田孝高)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 88 | 70 | 97 | 82 | 85 | 神眼 | 虚実 | 築城 | 地利 | 智嚢 | 神機妙算 | 火矢 | 連弩 | 衝車 | 投石 | 縦横術 | 覇道 |
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 81 | 58 | 87 | 84 | 80 | 神眼 | 沈着 | 築城 | 地利 | 規律 | 機知奇策 | 斉射 | 鼓舞 | 混乱 | 投石 | 墨守研究 | 覇道 |
こちらも天才軍師「黒田官兵衛」ではなく史実の黒田孝高に近づけた案。とはいえ半兵衛に比べるとだいぶ史実と講談の差は薄い。
荒木村重に幽閉されていたと言われているが、足が不自由になったとされる記述は大正時代のもので、実際には秀吉書状によると城内本丸で生活していたらしい。
【クロダカンベエ/クロダヨシタカ】
戦国時代の武将。諱は孝高。号は如水。播磨の豪族の出自。
秀吉後半の軍師として知られ、的確な助言で秀吉の覇道に貢献。彼の統一事業に多大な功績を残した。
秀吉からは豊前12万石の大名に取り立てられ、朝鮮にも嫡子・長政と出兵したが、
石田三成などと確執で秀吉の許可なく帰国して怒りを買う。
晩年はその才と野心を秀吉に警戒され遠ざけられたという。
関ヶ原の戦いでは東軍に参加して家名を残している。
竹中半兵衛と並び評され、半兵衛の「今孔明」に対し「今張良」と称される軍略家。
親愛武将 豊臣秀吉 竹中半兵衛
蜂須賀正勝(斯波正勝)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 74 | 79 | 89 | 81 | 89 | 機略 | 果敢 | 築城 | 眼力 | 操舵 | |||||||
| 74 | 79 | 89 | 81 | 89 | 任才 | 補佐 | 機略 | 果敢 | 築城 | |||||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 75 | 70 | 81 | 86 | 82 | 任才 | 補佐 | 機略 | 果敢 | 築城 | 規略明練 | 鼓舞 | 斉射 | 鎮静 | 罵声 | 地域振興 | 覇道 |
秀吉や天才軍師と講談で呼び声高い半兵衛との対比で、武闘派だったり山賊の親分みたいなイメージが強いが
実際には文武両道でどちらかといえば知略や政治で秀吉を支えた人物である。
【ハチスカマサカツ/シバマサカツ】
戦国時代の武将、織田家臣。通称「蜂須賀小六」。斯波氏の傍流とされるが異説あって不明である。
独立した国人衆である川並衆を率い尾張国に勢力を張っていたが
やがて織田信長、豊臣秀吉に仕えその天下統一事業に貢献。
特に秀吉の片腕として織田家臣時代の秀吉に追従。中国攻めでも文武両面から貢献した。
信長が本能寺で倒れた後も変わらず秀吉に近侍し続け、山崎、賤ヶ岳、小牧、四国征伐などに従軍。
四国征伐後は阿波に領土を与えられるが、老齢を理由に拒否し、子供の家政に譲られる。その後まもなくして死去した。
親愛武将 豊臣秀吉 前野長康
宮部継潤
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 71 | 82 | 85 | 63 | 堅守 | 封殺 | 地利 | 堅牢 | 補佐 | 斉射 | 鼓舞 | 鉄壁 | 牽制 | 足止 | 地域振興 | 覇道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 71 | 81 | 80 | 73 | 堅守 | 封殺 | 地利 | 堅牢 | 補佐 | 斉射 | 鼓舞 | 鉄壁 | 牽制 | 足止 | 地域振興 | 覇道 |
【ミヤベケイジュン】
戦国時代の武将、浅井家臣。のち織田、豊臣家臣。
もとは比叡山の僧であったと言われる。浅井長政に従って織田信長と戦ったが、
当時信長家臣であった羽柴秀吉の調略を受け、織田家に帰順。その後は秀吉の与力として
浅井長政討伐や中国征伐に従軍した。鳥取城攻めでは吉川元春の軍を迎撃し、秀吉の鳥取城攻略を助けた。
その後は鳥取城代として毛利家に睨みをきかせ、本能寺の変後も同地に留まり、毛利家からの防波堤役を担った。その後は
鳥取城主となって秀吉を政軍両面で支え、佐々成政討伐や九州征伐に従軍。島津家久の軍を撃退して勝利を決定づけた。
小田原征伐にも従軍したが、1596年隠居。生涯秀吉を支え続け、1599年に死没した。
仙石秀久
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 68 | 83 | 35 | 57 | 55 | 豪傑 | 再起 | 直情 | 動転 | 功名 | 馳突 | 突撃 | 鯨波 | 駆逐 | 強襲 | 城壁拡張 3 | 覇道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 71 | 80 | 35 | 57 | 55 | 豪傑 | 再起 | 直情 | 動転 | 功名 | 激励 | 突撃 | 鯨波 | 駆逐 | 強襲 | 城壁拡張 | 覇道 |
【センゴクヒデヒサ】
戦国時代の武将。織田・豊臣・徳川家家臣。もとは斎藤家の家臣だったとも。
美濃を攻略した織田信長に見込まれ、羽柴秀吉の下へつけられた。姉川合戦での活躍から近江野洲を領した。
秀吉の中国征伐では池田元助、黒田孝高らとともに淡路島を制圧、以後淡路島から四国を睥睨する役目を担った。
賤ヶ岳の戦いでは織田秀勝とともに参陣する予定であったが、長宗我部元親の躍進から四国方面に備える。引田の戦いで
元親に敗れた後は淡路島で防備を固めた。紀州征伐、四国征伐で活躍するも、九州征伐では大友義統、十河存保らとともに
積極論を主張。結果、戸次川の戦いで島津家久に大敗し、後の不行跡とあわせて改易される。しかし小田原征伐では徳川家康から
陣借りを行い奮戦。豊臣秀吉から信濃小諸5万石を与えられた。秀吉死後は家康に味方し、徳川政権でも重用されたと言われる。
堀尾吉晴
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 66 | 73 | 71 | 75 | 72 | 築城 | 嚮導 | 特使 | 慈悲 | 論客 | 城壁拡張 | 礼教 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 70 | 66 | 71 | 75 | 72 | 築城 | 嚮導 | 特使 | 慈悲 | 論客 | 斉射 | 鼓舞 | 鉄壁 | 足止 | 城壁拡張 | 礼教 | |
【ホリオヨシハル】
戦国時代の武将。元は岩倉織田家の家臣。のち織田、豊臣、徳川家臣。慈悲深い性格で「仏の茂助」と呼ばれた。
はじめ岩倉織田家に仕え、尾張統一を目指す織田信長と対立した。
岩倉織田家の滅亡後は信長に仕え、その後秀吉の与力となる。美濃攻めでは秀吉を稲葉山城に先導した。
その後は内政面で秀吉を支えるが、本能寺の変後は軍事でも秀吉を助け、山崎合戦では鉄砲頭として敵将を討死させている。
以後、秀吉の後継候補となる羽柴秀次につけられ、佐々成政討伐にも従軍。秀次が近江に領地をもらうと、自身も4万石を領した。
九州征伐、小田原征伐にも従軍して武功を上げ、遠江浜松12万石に加増された。徳川家康との交渉や融和も受け持った。
のち関ヶ原合戦で東軍に属し出雲富田24万石を領すが、古い友だった中村家の御家騒動に介入したことが遠因で孫の代で断絶している。
山内一豊
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 64 | 76 | 57 | 58 | 63 | 長駆 | 一心 | 論客 | 名声 | 強運 | 鋒矢強化 | 名利 | |||||
【ヤマノウチカズトヨ】
戦国後期の武将。秀吉の家来。土佐藩祖。
岩倉織田家を経て信長に出仕し、金ケ崎の戦いで朝倉軍の猛者・三段崎為之を討って名を馳せる。
また妻・千代の内助の功で1581年の信長の馬揃えの際には名馬に跨って登場したことでも知られる。
信長の死後は長浜城主となり堀尾吉晴や中村一氏と共に秀次の付け家老に配されたが、このことが仇になり取り調べを受けた。
秀吉死後は小山評定で掛川を家康に献上、戦後土佐一国を賜っている。
中村一氏
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 65 | 69 | 73 | 58 | 55 | 果敢 | 堅牢 | 一心 | 妙算 | 強運 | 墨守研究 | 名利 | |||||
【ナカムラカズウジ】
戦国後期の武将。秀吉の家来で三中老の一人。池田恒興の娘婿。
岸和田城主になるが、1585年に雑賀・根来衆に包囲され撃退。
後に山内一豊や堀尾吉晴と共に秀次の付け家老に配され、小田原戦役の功で駿府城主になる。
秀吉死後は家康に与するが、関ケ原の戦い直前に病死。子の一忠が若死にしたため無嗣断絶の憂き目にあう。
戸田氏繁
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 73 | 85 | 72 | 66 | 65 | 策士 | 猛者 | 特使 | 護衛 | 長駆 | |||||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 71 | 79 | 70 | 66 | 65 | 策士 | 猛者 | 特使 | 調達 | 長駆 | 斉射 | 激励 | 牽制 | 鯨波 | 地勢研究 | 割拠 | |
【トダウジシゲ】
戦国時代の武将。秀吉の家臣。羽柴四天王の1人と言われる。戸田勝隆とも。勝成の兄。
早くから秀吉に仕え黄母衣衆の1人となった。天正年間から秀吉の軍事行動に従軍し、
中国征伐時には秀吉から「これを越える勇功の士あらず」と激賞されていた。
本能寺の変後も秀吉に付き従い、小牧長久手の戦いや四国征伐、九州征伐や小田原征伐など
主要な合戦に従軍して伊予に7万石を領した。伊予国では旧主であった西園寺公広を謀殺し
領地経営の基盤を固めた。唐入りの前哨戦である朝鮮渡海後、講和交渉を行い帰国する前後で病没したという。
小西行長
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 83 | 77 | 71 | 78 | 52 | 動員 | 論客 | 農政 | 振興 | 消沈 | 連弩 | 混乱 | 罵声 | 強襲 | 矢嵐 | 地域振興 | 礼教 |
| 83 | 67 | 71 | 78 | 62 | 動員 | 論客 | 徴税 | 振興 | 消沈 | 連弩 | 混乱 | 罵声 | 強襲 | 矢嵐 | 地域振興 | 名利 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 76 | 72 | 71 | 78 | 70 | 徴税 | 論客 | 農政 | 振興 | 消沈 | 連弩 | 混乱 | 罵声 | 強襲 | 矢嵐 | 地域振興 | 礼教 |
【コニシユキナガ】
戦国時代の武将。豊臣家臣。堺の商人の出身。キリシタン大名として知られる。洗礼名はアウグスティヌス。
初めは宇喜多直家に仕えた。直家の使者として秀吉に会った時に秀吉から才知を気に入られ、家臣となる。
紀州征伐や太田城攻めに水軍を率いて参加したのを皮切りに、九州平定や肥後国人一揆鎮圧に活躍するなど武将として活躍。
肥後国に20万石を領し、宇土城を築き、そこでキリスト教の発展に尽力する。
文禄の役では先鋒に任じられ朝鮮軍に連戦連勝を重ね、以前から仲の悪かった加藤清正と争うようにして清正より先に漢城、平壌を制圧した。
戦線が膠着すると朝鮮軍の援軍である明軍の沈惟敬と謀り講和を結ぶが、秀吉に内容を偽って報告しようとしたため秀吉に激怒される。
慶長の役でも主力として参加するが振るわなかった。秀吉が死ぬと親交のある石田三成に呼応し西軍として共に徳川家康と戦う。
関ヶ原本戦では奮戦するが敗れ、捕えられ三成や安国寺恵瓊と共に斬首され、梟首となった。
石田三成
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 70 | 63 | 78 | 97 | 60 | 王佐 | 工面 | 能吏 | 寡欲 | 高慢 | 明察秋毫 | 連弩 | 罵声 | 鎮静 | 投石 | 経世済民 | 王道 |
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
※別案
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 67 | 51 | 80 | 94 | 45 | 王佐 | 工面 | 能吏 | 寡欲 | 高慢 | 明察秋毫 | 連弩 | 罵声 | 鎮静 | 投石 | 経世済民 | 王道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 67 | 51 | 82 | 95 | 56 | 策士 | 調達 | 能吏 | 屯田 | 高慢 | 忠烈之鬼 | 連弩 | 罵声 | 鎮静 | 投石 | 経世済民 | 王道 |
講談などでは秀吉への義理から関ヶ原合戦に挙兵したとするが、実際には蟄居中の身であり、「内府ちがいの条々」の署名にも関わっていない。
ただしこの時点で宇喜多秀家や毛利輝元、島津義弘らと与同していたとされる史料は多く、ここから江戸時代の三成首謀説に繋がったと見られる。
政治手腕に長けた人物であることは疑いようがないのだが、当時の五奉行の席次は筆頭ではなく、前田玄以、浅野長政らより下であったとされている。
また文禄・慶長の役の際、豊臣秀頼のすぐ下の大都督としての地位を明の和睦交渉の際に強請ったとされており、野心家の一面も見せる。
(このとき大都督とされた人物は、石田三成、大谷吉継、増田長盛、小西行長、宇喜多秀家の5名)
【イシダミツナリ】
戦国時代の武将。豊臣家臣。石田家は元々京極氏の家来。
豊臣秀吉の側近、馬廻りとして仕え、主に内政人事でその手腕を発揮した。
一方で賤ヶ岳の戦いをはじめ、軍を率いての貢献も貢献した。豊臣秀吉が関白に就任すると
本格的に奉行として才を発揮し、大谷吉継らとともに秀吉率いる遠征軍を後方から支える兵站線の構築を行った。
一方で各地の検地にも従事し、東北から九州まで差配取次を行った。朝鮮の役でも海を渡って現地軍の斡旋、その後の和議も行っている。
しかし豊臣秀吉の死後、一部の豊臣家臣と反発し、そこを徳川家康につけこまれた。毛利輝元・宇喜多秀家らと語らって挙兵し、
打倒徳川家康を掲げるも関ヶ原の戦いで敗北、戦後捕えられ処刑された。
古くでは淀の密通相手&秀頼の実父説がささやかれていたが、実家同士が敵対関係に当たるため現在は否定されている。
親愛武将:豊臣秀吉 大谷吉継 島清興 佐竹義宣 直江兼続
嫌悪武将:徳川家康 加藤清正 福島正則
寺沢広政
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 45 | 37 | 68 | 84 | 62 | ||||||||||||
| 45 | 37 | 68 | 84 | 62 | 能吏 | 築城 | 運搬 | 兵站改革 | 覇道 | |||||||
【テラサワヒロマサ】
戦国時代の武将。豊臣家臣。寺沢広高の父。
美濃の出身で、初めは織田信清の家臣である中島豊後守に仕え、彼のもとで織田信長と戦う。
中島豊後守が丹羽長秀を通して信長に降伏すると、信長の家臣である木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の下で行動するようになる。
1576年秀吉が長浜城主となると、彼の与力として派遣され、中国大返しの際には黒田官兵衛と共に姫路城の留守居として留め置かれる。
秀吉の下では主に兵站を務め、石田三成ら若手に奉行職を譲った後も方広寺大仏の建築や秀吉の前駆衆を務め、「日本一の奉行」と秀吉に称賛された。
九州攻めのあとに薩摩に2万石を拝領し、1596年病没。
大谷吉継
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 90 | 70 | 89 | 78 | 89 | 柱石 | 能吏 | 策士 | 論客 | 虚弱 | 虚誘掩殺 | 足止 | 混乱 | 挑発 | 鼓舞 | 経世済民 | 王道 |
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
※別案1
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 90 | 72 | 89 | 86 | 80 | 神機 | 洞察 | 胆力 | 智嚢 | 虚弱 | 文事武備 | 王道 | |||||
※別案2
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 72 | 75 | 91 | 90 | 89 | 虚実 | 策士 | 能吏 | 柱石 | 論客 | 虚誘掩殺 | 足止 | 混乱 | 挑発 | 鼓舞 | 経世済民 | 王道 |
合計能力値は上と同じ。こちらは奥州仕置や文禄慶長の役における諸奉行、外交担当など史実の実績を重視。関ヶ原でも軍事より謀略の活躍が目立ち、統率下げ、知政を上げとした
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 72 | 75 | 86 | 85 | 81 | 虚実 | 策士 | 能吏 | 柱石 | 論客 | 虚誘掩殺 | 足止 | 混乱 | 挑発 | 鼓舞 | 文事武備 | 王道 |
| 79 | 75 | 86 | 85 | 81 | 虚実 | 策士 | 能吏 | 柱石 | 論客 | 虚誘掩殺 | 足止 | 混乱 | 挑発 | 鼓舞 | 文事武備 | 王道 |
【オオタニヨシツグ】
戦国時代の武将。豊臣家臣。もとは六角家臣、大友家臣の出とも言われる。
豊臣秀吉の側近、馬廻りとして仕え、政軍ともに貢献して秀吉を支える。特に
政知に優れ、他大名との交渉や謀略に才を発揮、一方で武働きも巧みであり、雑賀征伐では武功を立てた。
九州征伐時には石田三成のもとで功を立て、戦後敦賀を領した。その後も小田原征伐、奥州仕置に
従軍して、戦後の領土検地などを行っている。一時期病に苦しめられるが、その後も秀吉に仕え続けた。
秀吉の死後は、混乱する豊臣家中を取り纏めていたが、徳川家康の上杉征伐に従軍する道中で三成の熱意に翻意され、
三成に従い西軍一派として行動。小早川秀秋の裏切りも予測していたが、衆寡敵せず戦場で自害した。
秀吉は彼に対して「100万の軍勢を指揮させてみたい」と語ったとする逸話がある。
親愛武将 石田三成 真田信繁
藤堂高虎
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 81 | 81 | 87 | 92 | 72 | 王佐 | 勇将 | 築城 | 操舵 | 潜在 | 修文練武 | 斉射 | 鼓舞 | 衝車 | 強襲 | 先従隗始 | 王道 |
能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用
※別案
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 79 | 77 | 90 | 86 | 57 | 王佐 | 勇将 | 築城 | 操舵 | 潜在 | 修文練武 | 斉射 | 鼓舞 | 衝車 | 強襲 | 先従隗始 | 王道 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 76 | 73 | 85 | 88 | 71 | 築城 | 泰然 | 文化 | 操舵 | 人脈 | 緯武経文 | 斉射 | 鼓舞 | 衝車 | 強襲 | 太学 | 王道 |
【トウドウタカトラ】
戦国時代の武将。浅井長政、豊臣秀長、徳川家康ら7人の主君に仕えた。
はじめ浅井家臣として戦い、姉川合戦に参戦して武功を立てた。浅井家が滅ぼされると浅井旧臣らに仕えたが、
やがて羽柴秀長に仕え、中国征伐に従軍する。本能寺の変後も羽柴秀吉・秀長兄弟に付き従い、賤ヶ岳合戦では佐久間盛政を迎撃した。
紀州征伐に従軍して雑賀党の解体に功を立て、その後四国征伐や九州征伐にも従軍。島津家久を撃退した功績で2万石に加増された。
秀長とその子であった秀保が死ぬと高野山に登ったが、秀吉の説得で家臣となり、朝鮮出兵にも従軍。水軍を率いて大いに活躍した。
豊臣秀吉の死後は徳川家康に接近、関ヶ原では東軍主軸として西軍の寝返り交渉も受け持ち、本戦でも武功を挙げた。その後は家康に
忠誠を貫き、大坂の陣にも参戦。天下泰平後も徳川政権の重鎮として重用された。1630年病没。
親愛武将 豊臣秀長 徳川家康
黒田長政
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 73 | 79 | 85 | 77 | 71 | 慎重 | 農政 | 人脈 | 策士 | 猪突 | 突撃 | 連弩 | 混乱 | 鼓舞 | 衝車 | 上兵伐謀 | 割拠 |
| 78 | 79 | 85 | 77 | 71 | 慎重 | 農政 | 人脈 | 策士 | 猪突 | 突撃 | 連弩 | 混乱 | 鼓舞 | 衝車 | 上兵伐謀 | 割拠 |
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 78 | 75 | 80 | 77 | 76 | 慎重 | 農政 | 人脈 | 策士 | 果敢 | 突撃 | 連弩 | 混乱 | 鼓舞 | 衝車 | 上兵伐謀 | 割拠 |
【クロダナガマサ】
戦国時代の武将。孝高/如水の子。のち豊臣・徳川家臣。
父が有岡城で幽閉されていたため、竹中半兵衛に匿われた。その後父ともども信長に許され、
羽柴秀吉につき従う。本能寺の変後にそのまま秀吉の家臣となり、秀吉の天下統一事業、特に九州制圧で活躍した。
その後の朝鮮・明との戦いでも活躍を残し、豊臣秀吉の死後は徳川家康に接近。
関ヶ原の戦いでは知勇両面において東軍勝利の中核を成し、戦後筑前50万石を領す。
大坂の陣でも徳川方として参戦し、将軍である秀忠を豊臣方の攻撃から凌いだ。
加藤嘉明
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 73 | 84 | 80 | 78 | 水戦 | 沈着 | 築城 | 胆力 | 操舵 | 城壁拡張 | 王道 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 78 | 73 | 74 | 79 | 78 | 水戦 | 沈着 | 築城 | 胆力 | 操舵 | 駆逐 | 矢嵐 | 斉射 | 鼓舞 | 牽制 | 城壁拡張 | 王道 |
| 78 | 73 | 74 | 83 | 78 | 水戦 | 沈着 | 築城 | 胆力 | 操舵 | 駆逐 | 矢嵐 | 斉射 | 鼓舞 | 牽制 | 城壁拡張 | 王道 |
【カトウヨシアキ/ヨシアキラ】
戦国後期の武将。織田秀勝の家臣。のちに秀吉直属の家臣となる。
父が秀吉に出仕し嘉明も三木城の戦いで首級2つを挙げ、賤ケ岳の戦いでの奮闘で七本槍の一人に数えられる。
朝鮮出兵では九鬼嘉隆の副将として水軍を組織し、李舜臣とたびたび交戦した。
秀吉死後は反三成派の一人に名を連ね関ケ原でも東軍に参戦したが、
本戦参加中に本拠であった伊予正木が毛利軍の侵略を受けている。
以後松山城築城を経て会津に転封加増、この転封加増は不仲だった藤堂高虎の推挙と聞いて謝意を示し和解している。
次代の明成が暗愚だったことが災いし、転封の憂き目に遭ったものの
七本槍の中で明治まで大名の地位を保ったのは嘉明と脇坂安治の2家だけだった。
※父の加藤教明は三河国の出身で、元は徳川家康の家臣。三河一向一揆で一揆方につき、敗れて流浪した。
※秀吉の養子である織田秀勝(信長の息子)つきの小姓であったが、独断で中国遠征する秀吉に追従。秀吉がそのまま家臣とした。
脇坂安治
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 77 | 88 | 65 | 46 | 68 | 掃討 | 水戦 | 操舵 | 運搬 | 功名 | 水軍育成 | 名利 | |||||
| 77 | 88 | 65 | 66 | 68 | 掃討 | 水戦 | 操舵 | 運搬 | 功名 | 水軍育成 | 名利 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 77 | 78 | 65 | 66 | 68 | 掃討 | 水戦 | 操舵 | 運搬 | 功名 | 矢嵐 | 駆逐 | 強襲 | 激励 | 斉射 | 水軍育成 | 名利 |
【ワキザカヤスハル】
戦国後期の武将。龍野藩祖。
はじめ浅井家に仕え、浅井家滅亡後は明智光秀の与力を経て羽柴秀吉の家臣となる。
賤ヶ岳の戦いで奮戦し七本槍の一人に数えられるが福島正則には酷評されていた。その後も各地を転戦し大いに戦功を挙げ洲本に3万石を賜る。
文禄の役では船手衆1500を率い参戦、陸戦では襲来した朝鮮軍5万を夜襲で潰走させ、海戦では李舜臣の侵攻を防ぎ続けるなど大功を挙げる。慶長の役でも功を挙げた。
関ヶ原の戦いが起こると東軍に参戦しようとするが、三成の妨害を受け失敗し西軍に与する。
本戦では小早川秀秋らと共に寝返るが、家康との連絡を密にしていたことを認められ所領を安堵された。
戦後は伊予に5万3000石を有し、1626年に病没した。閑山島海戦では矢を雨霰の如く受けながらも奮戦するなど、剛勇の逸話を残す。
4代目の安照は『忠臣蔵』で赤穂城接収の役回りとして登場する。
羽田正親
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 63 | 51 | 73 | 77 | 64 | 堅牢 | 補佐 | 築城 | 改修 | 調達 | 鼓舞 | 治療 | 鎮静 | 牽制 | 地勢研究 | 割拠 | |
【ハネダマサチカ】
戦国後期の武将。豊臣秀長、豊臣秀次に仕える。
賤ヶ岳合戦の際には羽柴秀長の軍に属し、賤ヶ岳砦を守備した。
紀州征伐後に藤堂高虎とともに若山(和歌山)城の普請奉行に任じられ、高虎を補佐。
羽柴秀長の重臣として大和、紀伊の領国経営に従事した。
豊臣秀長及び秀長の養子である豊臣秀保死後、豊臣秀次に仕えたが、秀次事件で主君秀次に殉じた。
大野治長
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 54 | 45 | 76 | 78 | 71 | ||||||||||||
| 54 | 45 | 72 | 78 | 71 | 調達 | 文化 | 召募 | 鎮静 | 鉄壁 | 墨守研究 | 割拠 | |||||
【オオノハルナガ】
戦国時代の武将。豊臣秀吉の家臣。母は浅井茶々の乳母・大蔵卿局。
豊臣秀吉の馬廻り衆として取り立てられ、のち1万石の大名となる。
その後伏見城造営にも携わるが、秀吉死後に家康暗殺の疑惑をかけられ謹慎。
関ヶ原の戦いでは東軍に属すも、戦後に使者として豊臣家に向かい、
そのまま豊臣秀頼に仕える。以後豊臣家の重鎮として豊臣徳川の橋渡しをつとめ、
豊臣秀頼と和平派と牢人衆を取り持った。暗殺未遂にて重傷を負うもなお
豊臣家に尽くし、最期は大坂落城と秀頼自害を見届けて自刃した。
親愛武将:豊臣秀頼 浅井茶々 真田信繁
毛利勝永
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 89 | 81 | 82 | 58 | 82 | 驍将 | 一心 | 地利 | 胆力 | 殿軍 | 方円強化 | 覇道 | |||||
| 89 | 81 | 82 | 58 | 82 | 驍将 | 掃討 | 地利 | 胆力 | 殿軍 | 方円強化 | 覇道 | |||||
| 79 | 81 | 72 | 58 | 72 | 驍将 | 掃討 | 地利 | 胆力 | 殿軍 | 方円強化 | 覇道 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 79 | 78 | 72 | 58 | 72 | 掃討 | 補佐 | 地利 | 胆力 | 殿軍 | 突撃 | 激励 | 斉射 | 鉄壁 | 急襲 | 方円強化 | 覇道 |
【モウリカツナガ】
戦国時代の武将。豊臣秀吉の黄母衣衆を務めた譜代家臣・森勝信の子。
九州征伐の後、父が豊前国内に10万石を拝領した際、現地に馴染み深い毛利姓を秀吉から与えられた。
朝鮮出兵の蔚山倭城の戦いで武功をあげたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで毛利家は改易。
大坂の陣が始まると主君・豊臣秀頼に忠誠を示すために大坂城入し、豊臣の主力武将の一人として活躍した。
天王寺の戦いでは4千の兵を率いて徳川本陣の正面に布陣。徳川主力軍の全てを引き受け、真田信繁の突撃を助ける。
本多忠朝や小笠原秀政を打ち取る武功をあげ、最後まで戦線を維持し続けたが、真田軍が壊滅すると敗北を悟り、大坂城に反転。
四方から押し寄せる敵の大軍全てを突破して大坂城に帰還。主君・秀頼に殉じたと伝わる。
後世の真田幸村を扱った講談では彼の武功は真田幸村に吸収され、凡庸な武将として描かれることが多い。
その事実を江戸時代の文人・神沢杜口は「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と嘆いたという。
親愛武将:豊臣秀頼 真田信繁(真田幸村)