みんなの新武将/倭・日本(長尾家)

Last-modified: 2025-12-02 (火) 20:26:24

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります



長尾家(上杉家)

室町時代に足利尊氏、足利直義兄弟に仕え、2人の従兄弟にあたる足利家重臣だった
上杉憲顕の重臣である長尾景忠、その養子長尾景恒を祖とする勢力。
上杉憲顕はのちに山内上杉家、越後上杉家の祖となり、上杉憲顕の
重臣であった長尾景忠は、養子とも弟ともされる長尾景恒に越後守護代の地位を譲り、
長尾景恒の長男である長尾長景が上田長尾家を、次男の長尾高景が府中長尾家を、四男の長尾景晴が古志長尾家を築いた。


その後、府中長尾家が越後で頭角を現す。長尾高景の曾孫にあたる長尾能景が事実上実権を掌握していたが
越中の一向一揆衆との戦いで神保慶宗に裏切られて戦死。その子、長尾為景は、神保慶宗を
敗死させて敵討ちを遂げるとともに、上杉憲顕の子孫で越後守護でもあった上杉房能を自刃させ
越後での権力を確かなものとした。その後為景は隠居し、嫡男の晴景に家督を譲ったが、この経緯については諸説ある。


しかし、為景の死後、府中長尾家は分裂する。府中長尾家の嫡流である長尾晴景と、
古志長尾家の女を母にもち、古志長尾家に庇護されていた為景の妾腹の子、長尾景虎である。
この争いには府中長尾家の重臣である黒田秀忠と、上田長尾家の当時の当主であった
長尾政景が長尾晴景に味方し、一方の景虎方には古志長尾家や本庄実乃、直江景綱らが味方した。


この分裂騒動は最終的に越後守護である上杉定実の仲介により、長尾景虎が勝利する。
長尾景虎は越後守護代である府中長尾家の家督を継ぎ、そののちには上杉定実の死去に
伴い越後の勢力を統括。さらに山内上杉家の当主である上杉憲政が越後に落ちのびてくるに
至り、関東管領職を相続。上杉政虎と名乗り、のちに出家して上杉謙信となった。


上杉謙信は2人の姉の嫁ぎ先である古志長尾家、上田長尾家をまとめあげ、武田信玄や北条氏康としのぎを削って
勢力を拡大。晩年には柴田勝家らを破って能登での勢力基盤を確保したが、関東で躍進する北条氏らの勢力を関東管領として
阻止せんとする道半ばで死去。その後、上田長尾家の当主であり謙信の養子とされる上杉景勝が、同じく
上杉謙信の養子であった上杉景虎(北条氏康の息子、北条三郎)と家督を巡って争い、この争乱で
関東管領の上杉憲政が自刃。景虎に味方した古志長尾家も滅ぼされ、関東管領上杉家、府中長尾家、上田長尾家、古志長尾家は
のちに江戸幕府のもと米沢藩へと移る米沢上杉家へと一本化される形で吸収合併された。


上杉謙信(長尾景虎)より前の長尾家については戦国時代(甲信越)を参照。

越後上杉家(上杉謙信以降)

上杉謙信(上杉輝虎)

上杉謙信?」を参照。

※別案

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
98100836196神将洞察疾走掃討威風軍神天下無双突撃急襲鯨波強襲三軍強化我道

能力値は最新作である信長の野望・大志に準じている。魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用

※信長の野望・大志版(三国志14の能力に準拠したもの)魅力は同シリーズ最後の採用となった天翔記から採用

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
93100836796神将洞察疾走掃討威風軍神天下無双突撃急襲鯨波強襲三軍強化我道

大志では統率(士気)・武勇(部隊攻撃)・智謀(部隊防御)に分割されているため、各能力値を平均した数値を統率とした。
また政治も内政と外政で分割されているため、双方を平均した数値を政治としている。

※別案(信長の野望・新生版)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
98100848196神将洞察疾走掃討威風軍神天下無双突撃急襲鯨波強襲三軍強化我道

従来作品と比べて、政治系ステータスが大きく上がってるのが特徴。

※別案(青苧を原料とした交易で莫大な財産を築いていたことを評価し、内政を大幅に上昇。個性欄は迷ったが、とりあえず据え置き)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
98100838196神将洞察疾走掃討威風軍神天下無双突撃急襲鯨波強襲三軍強化我道

※別案

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
99100858195神将洞察疾走掃討威風軍神天下無双突撃急襲鯨波強襲三軍強化我道
99100858195飛将洞察疾走掃討威風軍神天下無双突撃急襲鯨波強襲三軍強化我道
99100858895飛将洞察疾走掃討強運軍神天下無双突撃急襲鯨波強襲三軍強化我道
99100858895飛将洞察疾走掃討一騎軍神天下無双突撃急襲鯨波強襲三軍強化我道

※おまけ武将(三国志14)準拠版

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9593868290神将洞察掃討威風徴税軍神突撃急襲鯨波撹乱強襲三軍強化王道
9693858290神将洞察掃討威風徴税軍神突撃急襲鯨波撹乱強襲三軍強化王道
9897818090神将洞察掃討威風徴税軍神突撃急襲鯨波撹乱強襲三軍強化王道
9898808090神将洞察掃討威風一騎軍神突撃急襲鯨波撹乱強襲三軍強化王道
9897838088神将洞察掃討威風一騎軍神突撃急襲鯨波撹乱強襲三軍強化王道
9898828088神将洞察掃討威風一騎軍神突撃急襲鯨波撹乱強襲三軍強化王道

能力値を公式の数値から大幅に引き上げ、武田信玄の公式数値と同値(合計446)とした。
特に青苧や関東管領の職務から内政面を重視し、関東管領の職務に忠実であったことから主義も我道から王道へと変わっている。
一方で臼井城の戦いなどをはじめ、関東に対して出征を繰り返しながらも最終的には北条が覇権を築いたことから、
「負けなしの軍神」というイメージは過大であるとみて統率は少し下げた。とはいえ毘沙門天の化身というイメージは大きく武力をあげて調整。
ちなみに公式では「手取川の戦いで織田信長を破った」とあるが、この時信長は同地に不在であり、柴田勝家と羽柴秀吉が対立を引き起こしている。

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9590807382神将洞察掃討威風徴税軍神突撃急襲鯨波撹乱強襲三軍強化王道
9690807381神将洞察掃討威風徴税軍神突撃急襲鯨波撹乱強襲三軍強化王道
9897757080神将洞察掃討威風徴税軍神突撃急襲鯨波撹乱強襲三軍強化王道
9898747080神将洞察掃討威風一騎軍神突撃急襲鯨波撹乱強襲三軍強化王道
9897747081神将洞察掃討威風一騎軍神突撃急襲鯨波撹乱強襲三軍強化王道
9892727088神将洞察掃討威風一騎軍神突撃急襲鯨波撹乱強襲三軍強化王道
9894707088神将洞察掃討威風一騎軍神突撃急襲鯨波撹乱強襲三軍強化王道

公式数値(合計420)と同一にする場合の能力値。

直江景綱

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7053828671王佐能吏堅牢経世済民割拠
7058828677王佐能吏堅牢論客嚮導鼓舞治療鎮静経世済民割拠

【ナオエカゲツナ】
戦国時代の人物。長尾上杉家の家臣。直江兼続は娘婿で妹の子でもある。初名実綱。
長尾家3代にわたって仕え、天文の乱では伊達家に使者として赴いたほか、景虎の将器に期待し、長尾晴景(景虎の兄)の追い落としにも貢献。
大熊朝秀との権力争いに競り勝って以後は、長尾家の内政・外交面の中心として長く長尾家を支えている。1577年に死去。
娘婿の兼続も景綱同様、長尾上杉家の重臣筆頭として辣腕をふるっている。

千坂景親

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6258808379補佐論客嚮導柱石動員斉射鼓舞混乱鎮静治療縦横術王道

【チサカカゲチカ】
戦国時代の人物。長尾上杉家の家臣。
上杉四家老の千坂家出身で、その縁で上杉謙信に仕えた。
謙信期から主に内政や外交で活躍し、1559年の披露太刀之衆では
序列第六位に位置している。合戦では主に謙信本営の防備を担当。
御館の乱では上杉景勝に属し、乱後も景勝に仕えた。豊臣政権下では
伏見城の留守居などをつとめた。関ヶ原合戦後は和睦の斡旋に尽力。1606年死去した。

宇佐美定満(工藤定満)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8033927671機略一心察知上兵伐謀割拠
7033927671機略一心察知寡欲策士混乱鼓舞挑発鎮静足止上兵伐謀割拠

【ウサミサダミツ】
戦国時代の人物。上杉謙信の軍師とされる智者。別名定行。本姓は「工藤」
元々は越後守護上杉家の家臣であり謙信の父・長尾為景と交戦を繰り返したが、上杉家が断絶し長尾景虎が越後守護に認定されると臣従。
以後は景虎に仕え上田長尾氏の懐柔、長尾上杉家中の所領争い調停、川中島合戦に参加したとされる。
1564年に一度帰順したはずの長尾政景(景勝の父)が謀反を企てていることを察知して、舟遊びに誘い政景ともども溺死。一命を以て謙信を救った。

柿崎景家

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8295606478驍将威風掃討疾走柱石勇往邁進突撃鯨波斉射文事武備覇道

※別案(三國志11の基準と変わっているため、能力是正)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9195606478闘将威風掃討疾走驍将勇往邁進突撃鯨波斉射文事武備覇道
9195606478闘将威風掃討疾走驍将勇往邁進突撃鯨波斉射激励文事武備覇道

※おまけ武将(三国志14)準拠版

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9095606878闘将威風掃討疾走驍将勇往邁進突撃鯨波斉射激励文事武備覇道

敵と内通して上杉謙信に粛清された、という説があるが、息子晴家の行状と混同されたものだと言われている。

【カキザキカゲイエ】
戦国時代の人物。「越後七郡に、合ふ者はあるまじき」と言われた猛将。
始め越後守護であった上杉家、その家臣上条家に仕えていた。守護代の長尾為景が躍進すると
一族内紛の末にこれに従う。黒田秀忠の乱の際に長尾景虎に味方し、以後謙信の重臣として躍進に貢献。
北条家、武田家との戦争に従軍し、小田原攻めや川中島合戦で活躍。川中島では武田本隊に大損害を与えた。
また軍事だけではなく内政、外交にも貢献し、越後における奉行職や越相同盟締結にも貢献した。1574年病没。

甘粕景持

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6792605262勇将堅守求心殿軍運搬奮戦鉄壁鯨波連弩方円強化我道

※おまけ武将(三国志14)準拠版

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8288606265勇将堅守求心殿軍運搬威霊三尖鉄壁鯨波連弩奮戦方円強化我道

【アマカスカゲモチ】
戦国~江戸時代初期の武将。上杉家家臣。上杉四天王の1人と言われる。初名は「長重」。遠縁に甘粕景継がいる。
上杉謙信に仕え、武田北条との戦いで活躍。川中島合戦では謙信と別れて戦い、武田軍を大いに苦しめた。
その後も謙信に忠誠を貫くが、謙信が死去すると上杉景勝を支持。その後景勝に仕え
新発田重家討伐に従軍し、敵将を数多討ち取る大功を立てる。その後は直江兼続と協力して
米沢の統治を請け負った。関ヶ原合戦後の1604年に死没。

斎藤朝信

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8084819287泰然沈着論客仁政慰撫地域巡回王道
8084819287洞察王佐論客仁政慰撫地域巡回王道
8584818287洞察王佐論客仁政慰撫百戦錬磨鉄壁鼓舞突撃混乱地域巡回王道

※おまけ武将(三国志14)準拠版

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8480818281洞察王佐論客仁政慰撫百戦錬磨鉄壁鼓舞突撃混乱地域巡回王道

事実上、柿崎景家と並ぶ謙信時代の上杉2TOP。

【サイトウトモノブ】
戦国時代の武将。上杉家家臣。「越後の鍾馗」の異名をとった名将。
上杉四宿老の1人と言われ、長尾為景・晴景・景虎・景勝と4代に渡って長尾上杉家に仕える。
上杉家の関東・信濃・越中戦線において常に軍功を上げ、また内政面にも優れ謙信は
占領地の統治はほぼ彼に一任していたと言われている。一方で上杉家軍事の中枢も担い、
織田信長との抗争の際には柴田勝家と北陸で凌ぎを削った。謙信没後は景勝に仕え、
御館の乱でも軍功を上げたが、本能寺の変の前後に隠居した。

本庄繁長

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8190556168神威地利堅牢胆力論客墨守研究割拠

※別案(三國志11の基準と変わっているため、能力是正)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9193556168神威地利堅牢胆力論客墨守研究割拠
9093556168神威地利堅牢胆力論客鎧袖一触激励突撃急襲奮戦墨守研究割拠

※おまけ武将(三国志14)準拠版

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9093556163神威地利胆力直情強欲鎧袖一触激励突撃急襲奮戦墨守研究割拠

揚北衆として武勇に優れたが、一方で独立意識も強く、謙信にも煮え湯を飲ませた。武田信玄の計略で謀叛を起こした際には、色部勝長を夜襲で討ち取っている。

【ホンジョウシゲナガ】
戦国~江戸時代初期の武将。揚北衆のち上杉家家臣。
子供のころから勇猛さを鳴らし、叔父を破って家督を相続した。上杉謙信に従い
各地を転戦するが、一方で独立意識が高く、たびたび謙信と敵対して苦しませたという。
謙信の死後は一転、上杉景勝を支持して御館の乱を戦い、以後は上杉景勝に仕えた。最上家・伊達家などとの
戦いで活躍。関ヶ原の戦い以後は米沢上杉家の中核を担った。

本庄実乃

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6952797665能吏諫止沈着補佐鎮静斉射撹乱政令徹底王道

※おまけ武将(三国志14)準拠版

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6952808265能吏諫止沈着補佐教化鎮静斉射撹乱鼓舞政令徹底王道

【ホンジョウサネヨリ】
戦国時代の武将。上杉家臣。
越後国栃尾城主で長尾景虎(後の上杉謙信)が若年であった頃から側近として重用されて軍学の師であったと言われる。
家政を担うのみならず柿崎景家や直江実綱と並ぶ七手組大将で川中島の戦いにも参戦した。

親愛武将 上杉謙信
嫌悪武将 大熊朝秀

松本景繁

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7168707567名声論客嚮導猛者消沈突撃鼓舞牽制混乱鎮静地勢研究割拠

【マツモトカゲシゲ】
戦国時代の武将。上杉家臣。謙信の旗本。
上杉謙信から「景」の字を偏諱され、川中島合戦では
血染めの感状を貰うなど軍功をあげた。のちに上野国沼田城の守備につき、
主に関東経略に携わる。北条家との和睦の際には北条三郎を養子に
貰う約定をとりまとめた。しかしのちに心労が祟って逼塞。謙信から不憫として
春日山城へと帰任され、その地で没した。没年は1575年以前と言われている。

加地春綱

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6769424659地利動員昂揚猛者功名突撃激励急襲奮戦長蛇強化割拠

【カジハルツナ】
戦国時代の武将。上杉家臣。上杉七手組大将。
揚北衆に所属して越後加地荘を領し、長尾為景としばしば争う。
のちに為景の娘を娶って和睦し、以後は為景の子である
上杉謙信に従って重用された。のちに川中島にほど近い
飯山城を任された。1575年頃に死去したとつたわる。

新発田重家(加地重家)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8183575364堅牢地利不屈怒髪功名変幻要撃激励突撃奮戦大喝侵略荒廃割拠

【シバタシゲイエ】
戦国時代の武将。上杉家臣。加地氏の庶流。
揚北衆に所属して新発田城を領有していた。上杉謙信に仕え、
川中島の戦いや関東出兵に参陣し、武田軍の諸角虎定を討ち取ったと言われている。
御館の乱では安田顕元の勧誘に従い、上杉景勝に味方するが戦後恩賞に預かれず、
蘆名盛隆や伊達輝宗の支援を受けて景勝に対し反乱を起こした。5年にわたる反乱で
上杉景勝や直江兼続を大いに苦しめ、放生橋の戦いでは景勝軍を撃破し、1584年には
直江兼続を破るが、豊臣秀吉の支援を受けた上杉景勝の大攻勢の前に1587年、衆寡敵せず敗死した。

長尾家一門

長尾政景

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7570666477地利名声調練諌止功名激励突撃急襲奮戦鉄壁長蛇強化割拠

【ナガオマサカゲ】
戦国時代の武将。上田長尾家の当主。長尾房長の子。上杉景勝の父。
長尾晴景と長尾景虎(上杉謙信)の兄弟相克では
長尾晴景に味方し、以後も上杉謙信と対立したが、敗れて降伏し傘下に入る。
以後は謙信の姉を娶って一門衆として長尾上杉家を支えた。
しかし1564年、宇佐美定行(定満)や下平吉長と舟遊びした際に溺死した。
その存在を危険視され、暗殺されたとする説も根強い。

上杉信虎

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5963515867名声召募動員直情功名激励牽制突撃戸籍整備割拠

【ウエスギノブトラ】
戦国時代の武将。古志長尾家の当主。長尾景信の子と言われるが異説もある。
上杉十郎。母は長尾為景の娘で、長尾晴景の娘を妻とした。
上杉謙信の一門衆としてその躍進に貢献。
御館の乱では上杉憲政の子を養子にしていた
関係で、上杉景虎方につくが上杉景勝軍に敗れて戦死した。

補足:信長の野望では「上杉景信」として登場しているが、実際の景信は終始長尾姓だったと言われ、その子供の信虎の活躍が混ざっているという。また景信を他家の武将と見るむきもある。
補足:上杉謙信とは母方を通じて従兄弟同士の関係。

北条系上杉家(主に北条三郎→上杉景虎勢力)

上杉景虎(北条三郎)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6861655773召募動員特使惰弱高慢業火突撃撹乱三令五申我道

【ウエスギカゲトラ】
戦国時代の武将。上杉謙信の養子。
北条氏康の七男で当初は氏秀と名乗ったが近年の研究では氏秀を名乗ったのは北条綱成の次男と比定され諱は定かではない。
北条氏康と上杉謙信が同盟を結んだ際に謙信の養子となり景虎を名乗り謙信の姪(景勝の姉)と婚姻した。
謙信の死により家督を巡って景勝と対立し、御館の乱と呼ばれる内乱に発展したが、最終的には敗れて自害した。

親愛武将 上杉謙信

神余親綱

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4641908759振興徴税能吏不屈富豪歳出改善王道

【カマナリチカツナ】
戦国時代の武将。上杉家臣。
上杉家の奉行衆、外交官として活躍し、主に京都で活動した。
越後の青苧など特産品を売買し、上杉家の軍事費及び莫大な経済力の礎を担う。
朝廷交渉にも長け、上杉謙信を後奈良天皇に引き合わせることに成功した。
また将軍足利義輝とも昵懇であった。謙信没後の御館の乱では上杉景虎を支持。
最後まで景勝の勧誘を拒否して敗死した。

北条高広

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8082443355勇将果敢再起粗忽

※おまけ武将(三国志14)準拠版

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8482586169勇将果敢再起粗忽強欲功狗逆撃突撃激励罵声挑発侵略荒廃割拠
8382586169勇将果敢再起粗忽強欲功狗逆撃突撃激励罵声挑発侵略荒廃割拠

【キタジョウタカヒロ】
戦国時代の武将。上杉家臣。
上杉謙信の元で数々の武功を上げた勇将。関東進出の重要拠点である厨橋城を任されてた。
武田信玄、北条氏康の調略を受けて反旗を翻したこともあるが、都度許されて帰参している。
御館の乱では子、景広らととともに上杉景虎に味方して上杉景勝と対立するも敗北。
のちに武田氏、北条氏に仕えた。「器量、骨幹、人に倍して無双の勇士」と讃えられた一方で「家中一の粗忽者」とも評された。

北条景広

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7480454358果敢山戦直情突撃大喝挑発長蛇強化我道

【キタジョウカゲヒロ】
戦国時代の武将。上杉家臣。
北条高広の子で父と同じく勇猛な武将で「鬼弥五郎」と呼ばれた。
御館の乱では上杉景虎側に加担したが、景勝側の萩田長繁の襲撃による負傷で死亡した。
家督は弟の北条高広(父、北条高広と同名)が家督を継いだ。

親愛武将 上杉景虎

本庄秀綱

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5655595558堅牢調達不屈鼓舞足止墨守研究王道

【ホンジョウヒデツナ】
戦国時代の武将。上杉家臣。
本庄実乃の子で御館の乱においては景虎側として活動して景虎の死後も栃尾城にて抵抗を続けた。
落城後は佐々成政に仕えたという。

河田重親

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6154767867論客特使調達輿望察知鼓舞牽制斉射地勢研究割拠

【カワタシゲチカ】
戦国時代の武将。上杉家臣。初名は「泰親」とも。
上杉謙信に仕えていた河田長親の叔父で、甥を頼りとして
上杉家に仕えた。のちに上野沼田城に配属され、越相同盟では
松本景繁らとともに北条家と取次を担当する。御館の乱の際には
上杉景虎に属して景勝方の坂戸城を攻めるが敗退。のちに上杉景虎が
自刃すると、武田家や北条家に仕えたと言われている。生没年は不詳。

補足:一説に生年1531年、死没年1593年とされる。

上田長尾家→米沢上杉家

上杉景勝

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7775746772威風泰然規律強運召募斉射牽制鯨波鎮静先従隗始王道
7778747172威風泰然規律強運召募斉射激励鯨波鎮静突撃地域巡回王道

【ウエスギカゲカツ】
戦国~江戸時代初期の武将。上杉謙信の姉の子にあたる。上田長尾家出身。
謙信存命期から上杉家一門と目され早くから重用された。謙信の没後は上杉景虎(北条家出身)と跡目を争い、
武田信玄の娘・菊姫と政略結婚することで武田家を味方とするなど、
辛辣冷静な手腕で協力勢力を募りながら景虎を追い詰めた。その後は自らの直臣である
上田衆を重用するが、新発田重家の離反や織田信長・伊達輝宗らの侵攻を招いた。本能寺の変で九死に一生を得ると
織田家で台頭する羽柴秀吉に接近。のちに豊臣政権で五大老となった。関ヶ原合戦では西軍に属し、またもや
窮地を得るが所領を減少させながらも上杉家の命脈を保った。剛胆な性格で、織田信長によって窮地に立たされていた際も
彼に味方する六十余州を相手に抵抗することは本望である、と佐竹義重に宛てている。また寡黙な人物だったという。

親愛武将 直江兼続 佐竹義宣

直江兼続

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7360868789詩想言毒補佐王佐高慢連弩鯨波挑発罵声上兵伐謀王道
7360869489詩想言毒補佐王佐高慢連弩鯨波挑発罵声上兵伐謀王道
7365868988詩想言毒補佐王佐高慢突撃鯨波挑発罵声鼓舞三令五申王道
7365868978詩想言毒補佐王佐高慢突撃鯨波挑発罵声鼓舞三令五申王道

【ナオエカネツグ】
戦国~江戸初期の武将。上杉景勝の腹心として軍事・政治両面で活躍した。義仲四天王の一人樋口兼光の末裔。入り婿として直江家を相続。
その才覚は豊臣秀吉からも家来に望まれるなど高く評価され、「豊臣」の姓を贈られたという逸話も残る。
優れた内政家であり、関ヶ原の戦いでは石田三成と共謀。戦いの発端となる「直江状」で徳川家康を
挑発しておびき寄せ三成の挙兵を助けた。その後、東軍に所属した隣国・出羽に大軍を率いて
攻め入るも、最上家の名将・志村光安が寡兵で籠る長谷堂城を8倍の兵力を以てしても抜く事が出来ず大苦戦、
西軍が敗北した事も相まって撤退を決意。攻城戦とは逆に退却戦の采配は際立っていたと伝わる。
戦後は主君と共に家康に謝罪。上杉家の存続は許されたが出羽米沢へ減移封となった。
関ケ原で負けた方についたこと、妻であるお船が「尼将軍」と陰口を叩かれるなど夫婦して権威を持っていたこともあり、
長く上杉家を窮地に陥れた奸臣とされたが、上杉鷹山に再評価され現在に至る。
妻とは仲睦まじく、側室を持たなかったと言われる。それが裏目に出てか子に先立たれ、直江家は彼の死後間もなく断絶した。

※存命中は上杉家の政治を一手に担った。一方で戦闘においては芳しい事績はない。新発田重家の乱も慶長出羽合戦も苦戦続きである。

親愛武将 上杉景勝 石田三成 志駄長秀

荻田長繁

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5877596461
5877596461猛者補佐急襲足止撹乱魚鱗強化王道

【オギタナガシゲ】
戦国~江戸初期の武将。上杉家臣、のち松平家臣。
若年の頃から上杉謙信に仕えた。謙信の没後は上杉景勝に仕え、御館の乱では
上杉景虎側の有力者であった北条景広を暗殺し、乱の帰趨を決した。その後上杉景勝に重用されたが、
息子が豊臣秀吉の不興を買ったとして追放処分にあう。その後豊臣秀次、松平秀康に仕官。
以後越前松平家の家臣として大坂の陣にも参戦し、軍功を立てた。のち秀康の孫であった松平光長に従い、越後へ移動。同地で死没した。

親愛武将 上杉景勝 結城秀康

水原親憲

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7875585155殿軍楽奏泰然大喝激励連弩斉射雁行強化割拠

※おまけ武将(三国志14)準拠版

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8280585155殿軍楽奏泰然遠矢胆力大喝激励連弩斉射奮戦雁行強化割拠

【スイバラチカノリ】
戦国時代の武将。上杉家臣。
元は大関氏で御館の乱で景勝側として活躍し、その後に断絶していた水原氏を継いだ。
関ヶ原の戦いにおける最上氏との戦いでは鉄砲隊を率いて追撃する最上勢に痛撃を与え、大坂冬の陣でも鉄砲隊を率いて軍功を挙げた。
その際に将軍秀忠から感状を貰っているが杉原と誤記されており、以後は杉原と名乗っている。

親愛武将 小島貞興

甘糟景継

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7679455651掃討寡欲築城軽率突撃鎮静城壁拡張王道

【アマカスカゲツグ】
戦国時代の武将。上杉家臣。
元は登坂氏であったが戦死した甘糟継義の跡を継いで甘糟姓を名乗った。
勇猛な武将として活躍し関ヶ原の戦いの頃には白石城代であったが会津に向かった隙を伊達政宗に突かれて城を失った。
軍記物語においては景勝の信頼を以後失い、その死も自害であったとされるが定かではない。

大石綱元

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2523617860築城改修能吏鼓舞井蘭工法改革割拠

【オオイシツナモト】
戦国時代の武将。上杉家臣。
元は関東管領上杉憲政の家臣で憲政が謙信を頼った際に随行し憲政の死後は景勝に仕えた。
会津移封後は安田能元及び岩井信能と共に会津三奉行として領内統治に活躍した。

岩井信能

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6669748472能吏改修文化振興堅牢奮戦牽制足止経世済民割拠

【イワイノブヨシ】
戦国時代の武将。上杉家臣。
幼少時に上杉謙信の小姓として仕えその才能を評価された。
新発田重家の乱の鎮圧や慶長出羽合戦等での活躍等、武勇に秀でていた人物であるが
内政面での活躍が大きく信濃飯山城代としては城下町の整備に功績があり会津移封後は会津三奉行の一人として領内統治に功績を挙げている。

須田長義

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7479645256果敢堅牢急襲激励衝車錐行強化割拠

【スダナガヨシ】
戦国時代の武将。上杉家臣。
須田満親の次男で父と兄の改易により家督を継ぐ。
景勝の会津移封後に梁川城代となり慶長出羽合戦では本庄繁長と共に福島において伊達勢を迎撃した。
大坂冬の陣では鴫野の戦いにて安田能元と共に柵を制圧する活躍であったが直後の後藤又兵衛隊との交戦で負傷し、その負傷が元で死亡した。

親愛武将 本庄繁長

安田能元

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7554798572能吏文化築城改修法律鉄壁鯨波激励斉射足止文事軍備割拠

【ヤスダヨシモト】
戦国時代の武将。上杉家臣。
安田景元の子で兄の顕元の死後に家督を継ぐ。
新発田重家の乱で負傷し足に障害が残った為、「跛上総」とも呼ばれた。
景勝時代の重臣として景勝上洛の際の留守居役や奉行として手腕を発揮し会津移封後は会津三奉行の筆頭で米沢移封後は城下町建設や法整備に尽力している。

親愛武将 上杉景勝 前田慶次
嫌悪武将 直江兼続