注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
南北朝時代(420~589)
劉裕による東晋簒奪から隋朝による中国統一までの期間を指し、南朝では宋・斉・梁・陳が、北朝では魏と斉・周が興亡した。
南朝社会の特徴などは東晋で既に顕著で、また中国では、周から興った隋朝も北朝に数える。
この時代の国境線は、北魏の華北統一より南梁の侯景の乱までは概ね秦淮地帯にあり、江南開発の飛躍的進展によって
南北の経済力は逆転したが、紛争の恒常化と淮河流域の荒廃などによって総体的な流通経済は低迷した。
諸外国との交流は東漢・西晋より寧ろ活発で、北魏は柔然対策として高車や西域諸国と活発に交渉した他に高句麗を朝貢国とし、
南朝も東南アジア諸国や朝鮮諸国・日本と冊封関係を結んだだけでなく、青海の吐谷渾を介して西域とも交流した。
侯景の乱(548)と承聖の江陵?陥落(554)で、湖北・四川の喪失と併せて南朝の没落は決定的となり、
589年に隋により、南朝・陳の都の建康?が攻略されたことで終焉する。
- 北朝
- 北魏 386~534
- 東魏 534~550
- 北斉 550~577
- 西魏 535~556
- 北周 556~581
以下は「南北朝時代(南朝)」を参照
- 南朝
- 劉宋 420~479
- 南斉 479~502
- 梁 502~557
- 後梁 554~587
- 陳 557~589
北魏
拓跋珪
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
371 | 409 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
93 | 83 | 76 | 79 | 91 | 疾走 | 長駆 | 文化 | 輿望 | 酒乱 | 聡明剛毅 | 突撃 | 急襲 | 激励 | 混乱 | 魚鱗強化 | 王道 |
【タクバツケイ】
北魏の初代皇帝・太祖道武帝。代王・拓跋什翼犍の孫で拓跋寔の子。鮮卑名は涉珪。皇后は慕容氏(慕容宝の娘)。
ただし『宋書』では拓跋什翼犍の子としている。
父は長孫斤に殺され、祖父も拓跋寔君に殺された。この内紛で前秦の侵攻を招き、代はいったん滅亡した。
拓跋珪は外祖父の賀野干を頼った。
前秦の苻堅の死後、386年1月、雲中川(現:フフホト)で代王を称して独立を宣言した。4月には国号を魏と改め、
後燕と激しい抗争を繰り広げ、一代で華北の大半を平定した。398年には平城に遷都し、皇帝に即位した。
鮮卑の風習に代わって漢民族の風習を積極的に取り入れ、仏教を優遇した。
晩年は酒色に溺れ、また寒食散(五石散)の飲み過ぎで精神に異常を来した。
母の賀氏の身を案じた、次男の清河王・拓跋紹によって殺された。拓跋紹もまた、兄(珪の長子)の拓跋嗣に殺された。
拓跋焘(佛狸)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
408 | 423 | 452 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
99 | 96 | 72 | 80 | 82 | 神将 | 疾走 | 長駆 | 威風 | 癇癪 | 白馬義従 | 突撃 | 撹乱 | 罵声 | 衝車 | 三軍強化3 | 覇道 |
【タクバツトウ(ブツリ)】
北魏の第三代皇帝・太武帝。拓跋嗣(明元帝)の長男。
即位後、柔然の雲中侵犯を親伐し撤退させる。
夏を攻め関中を攻略し、柔然への親征を行って可汗の大檀を敗走させた。
南朝宋の北伐を防ぎ、北燕、北陵を滅ぼして華北を統一、五胡十六国時代を終わらせた。
柔然の北伐を度々行い、柔然が北辺を侵犯出来なくなるまで弱体化させる。
さらに北方の吐谷渾、西域の鄯善に侵攻し勢力圏を広げた。
その後、宋への南征を行い長江北岸までを制圧し、虜民を獲て帰還した。
騎兵の用兵に優れ、電撃戦術を創始している。
また、治世面では道教保護のために廃仏を行った。
補足:拓跋の二字姓。
廃仏しておきながら字が佛狸(仏狸)なのは、突厥語で狼を意味するブリを漢語で当て字したため。
「焘」の字は「寿」に部首の連火。PC版では旧字の「壽」に連火の「燾」で登録可能だが、「寿」か「壽」を代字として置き換えることもできる。
拓跋宏
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
467 | 471 | 499 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
73 | 77 | 84 | 92 | 89 |
【タクバツコウ】
北魏の第六代孝文帝。父は拓跋弘(献文帝)、母は李皇后。
5歳で皇帝に即位したため、暫くは馮太后による垂簾政治が続いた。
490年に親政を始めると、馮太后時代の漢化政策をより一層推進した。
洛陽遷都、漢人風の姓への変更、鮮卑貴族と漢人貴族の通婚奨励など、
これらの改革で北魏の政治体制は南朝を模した北朝貴族制へと変貌した。
北魏の全盛時代を築くが、499年の対南斉の遠征中に33歳の若さで崩御した。
漢籍の教養に富み、寛恕の精神を備えるなど名君の風格を有していたが、
急激な漢化政策は鮮卑族の反発を招き、496年に反乱が起き、皇太子・元恂も加わる事態となった。
この反乱は鎮圧したが、北方軍人による「六鎮の乱」の遠因となり、ひいては北魏滅亡の遠因となる。
※漢化政策による国姓改姓後は「元宏」を名乗る。
元子攸(彦達)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
507 | 515 | 531 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
47 | 69 | 61 | 53 | 70 | 覇道 |
【ゲンシュウ(コウソク)】
北魏の第九代孝荘帝。彭城王・元勰の子。母は正室の李媛華。皇后は爾朱氏。
孝明帝(元詡)の初年、父の軍功で武城県公に封じられ、孝明帝にそば仕えした。
526年8月、長楽王・侍中・中軍将軍となった。528年、孝明帝が実母の胡太后に殺害されると、
爾朱栄はクーデターを起こし、元子攸は呼応して合流した。爾朱栄は胡太后と、彼女の擁立した元釗を黄河に沈め、
元子攸を皇帝に擁立した。また、爾朱栄の娘を皇后として擁立した。
外戚となった爾朱栄は実権を握り、529年に元顥に一時洛陽を落とされた後、洛陽奪還や六鎮の乱平定などの武功を挙げ、
公然と簒奪を狙うようになった。孝荘帝は中書舎人・温子昇に、王允が董卓を討ったいきさつを調べさせ、
爾朱栄を討った後、その一族・配下には寛大にすれば王允の(李傕らに討たれた)失敗を繰り返さないと計算した。
孝荘帝は近臣に「高貴郷公のように死んだとしても、常道郷公のように生きながらえるつもりは無い」と決意を示した。
530年9月21日、爾朱皇后が出産したと偽って爾朱栄を参内させ、手討ちにした。
しかし爾朱兆・爾朱世隆らは挙兵し、長広王・元曄を皇帝に擁立して孝荘帝を攻撃した。12月、洛陽は陥落し、孝荘帝は晋陽に送られ、城内の三級仏寺で殺された。
これより先、爾朱皇后が遅れて出産した子も殺された。
親愛武将:曹髦
嫌悪武将:爾朱栄
元脩(孝則)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
510 | 527 | 535 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
35 | 66 | 43 | 32 | 52 | 慎重 | 浪費 | 割拠 |
【ゲンシュウ(コウソク)】
北魏の第十三代孝武帝。北魏最後の皇帝。父は広平王・元懐、母は側室の李氏。
落ち着き払って重々しく、口数が少なかった。武術を好み、全身傷だらけにしていた。
527年、汝陽県公となり、530年、平陽王に進んだ。尚書左僕射に昇進するが、まもなく内戦を避けて逃亡し、農村に身を隠した。
532年、高歓の説得で、後廃帝(元朗)より譲位を受け即位した。しかし孝武帝は高歓の傀儡であり、
いつも不安を抱いていた。そこで賀抜岳、ついで宇文泰と結んで高歓を討とうとした。
534年7月、洛陽を脱出し、宇文泰のいる長安に出奔した。高歓は孝静帝(元善見)を皇帝に擁立し、北魏は東西に分裂した。
しかし、今度は宇文泰が実権を握っただけだった。孝武帝は3人の従姉妹(平原公主元明月・安徳公主・元蒺藜)を寵愛し、
元明月を長安に連れて来ていた。宇文泰が元明月を殺したことから孝武帝と険悪になり、まもなく孝武帝も毒殺された。
宇文泰は従兄の文帝(元宝炬)を皇帝に立て、歴史上西魏と呼ばれる。しかしまもなく、
東魏は高氏の北斉に、西魏は宇文氏の北周にそれぞれ取って代わられた。
嫌悪武将:高歓
元英(虎児)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
510 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
88 | 86 | 80 | 57 | 75 |
【ゲンエイ(コジ)】
北魏の武将。もとの名は拓跋英。中山王。
聡明な性格で騎射に秀で、音律を解し医術にも通じる博学な人物だった。
漢中へ侵攻し、斉軍を破って南鄭を包囲し、撤退の際には殿軍を率いて撤兵を完了させた。
雍州(襄陽)への援軍に派遣されるが陳顕達の軍に連敗し、一時免官される。
司州への侵攻では曹景宗の援軍を打ち破り、義陽を陥落させた。
楊大眼とともに大軍を率いて鍾離を包囲するも、韋叡と曹景宗の援軍に大敗し、平民に落とされた。
京兆王の反乱の際に復帰し、乱を平定する。
北魏三関が梁に降ると南征を行い、三関を攻略した。
補足:孝文帝の漢化政策で国姓が「拓跋」から「元」に変わり、漢中の戦いの後に元英を名乗る。
元顥(子明)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
494? | 529 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
79 | 82 | 46 | 20 | 64 | 勇将 | 論客 | 粉砕 | 短慮 | 強欲 |
【ゲンコウ(シメイ)】
北魏の北海王。元詳の子。一時、皇帝を称した。
若くして意気盛んだった。散騎常侍・撫軍将軍・徐州刺史に昇進したが、523年、汚職を御史に摘発され、罷免の上王位も没収された。
524年、宿勤明達・叱干麒麟らが反乱を起こすと、北海王の地位を回復し、撫軍将軍として幽州・華州(三国時代は雍州の一部)の救援に貢献。
しかし結局、鎮圧には失敗して洛陽に退却した。
528年、定州(三国時代は冀州の一部)で反乱を起こした葛栄が鄴に迫った。元顥は
侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・相州刺史に任命され、防衛に当たった。その頃、爾朱栄が
クーデターを起こし、胡太后と元釗を殺して孝荘帝(元子攸)を擁立した。元顥は葛栄と爾朱栄を潰し合わせて
身の安全を図ろうとしたが、相州行台の甄密先に警戒され、軍を派遣して元顥の出方を窺った。
元顥は計画がうまく行かないのを見て梁に亡命し、武帝(蕭衍)に泣いて自説を述べた。武帝はその言説の壮烈さを立派として、
元顥を魏主に擁立し、陳慶之と7千の兵を貸した。529年1月頃出撃し、陳慶之を主力とする北伐軍は連戦連勝した。
4月、元顥は皇帝を称し、5月にはついに洛陽を占領した。これを見て、北魏国内から元顥に呼応する勢力が現れ始めた。
しかし、元顥は近習ばかり取り立て、酒や女遊びにふけった。また、梁から自立しようと、陳慶之の梁への増援要請を握り潰し、武帝に援軍は不要と上奏した。
6月、北魏の爾朱栄らは百万を号する大軍で洛陽に侵攻した。元顥軍はよく戦ったが衆寡敵せず戦死した。陳慶之は梁に逃げ戻った。
後に爾朱栄が孝荘帝に討たれると、元顥も一定の名誉回復が行われ、侍中・都督雍華岐三州諸軍事・驃騎大将軍・太尉公・尚書令・雍州刺史を追贈された。
劉氏
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
409 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
11 | 3 | 51 | 55 | 64 |
【リュウシ】
道武帝(拓跋珪)の夫人。諡は宣穆劉皇后。匈奴独孤部の出身。劉眷の娘。
386年、拓跋珪の夫人(側室)となった。華陰公主と拓跋嗣を生み、寵愛された。
しかし、金人の鋳造の儀式に失敗したことを理由に、皇后には立てられなかった。
拓跋嗣が皇太子に立てられると、409年、前漢と拓跋氏の故事を理由に自害させられ(子貴母死)、皇后位を追贈された。
「子貴母死」、すなわち後継者の生母に賜死する行為が実際に制度化されたのは、この時が初めてである。
鮮卑では漢族と比較して女性の発言力が大きく、劉氏と独孤部が実権を握ることを警戒した、道武帝の策であるという。
記録上、明確に自害させられたのは二人だけだが、実態として孝文帝によって廃止されるまで続いたという。
馮氏
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
442 | 455 | 490 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
16 | 2 | 89 | 93 | 67 |
【フウシ】
文成帝の皇后。諡は文成文明皇后。北燕の昭成帝・馮跋の孫。
若くして文成帝が崩御すると火に飛び込み殉死を図るが一命を取り留めた。
義理の子にあたる献文帝が11歳で即位すると皇太后として補佐に努めた。
しかし、献文帝が成長すると権力争いが生じ、これを毒殺。
代わって義理の孫にあたる孝文帝が5歳で即位すると、垂簾政治を行い朝政を専断した。
政治手腕に非常に優れ、漢人官僚の李沖らを信任し、
均田制、三長制などの富国政策を断行して北魏全盛の土台を作った。
490年に没するが、孝文帝の悲しみようが尋常ではなかったため母子説も根強い。
長孫嵩
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
358 | 437 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
88 | 82 | 76 | 88 | 89 | 疾走 | 長駆 | 文化 | 輿望 |
【チョウソンスウ】
崔宏(玄伯)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
418 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
33 | 29 | 82 | 84 | 74 |
【サイコウ(ゲンハク)】
北魏の政治家。清河郡の人。前燕に仕えた崔潜の子。崔林?の6世の孫。
幼少にして「冀州の神童」と評判になった。父に書を学び、草・隷・行・押書に優れた。
前燕滅亡後、前秦に仕えた。陽平公・冀州牧の苻融の陽平公侍郎・冀州従事となり、実務を滞らせることが無かった。
苻堅は評判を聞き、太子舎人として都に呼び寄せたが、断ったため著作佐郎に左遷された。
前秦滅亡後、後燕に仕えたが、魏王・拓跋珪(後の道武帝)に捕らえられ、その家臣となった。
張袞と共に国家制度を整え、有職故実に通じていた。また、国号を代より魏とするよう進言したとされるが、
拓跋珪は既に魏王を名乗っていたので、皇帝即位に際し、引き続き魏の国号を支持したということかも知れない。
拓跋紹が道武帝を殺すと、人気取りの為に家臣に金を配ったが、崔宏は受け取らなかった。
明元帝が即位すると、刑事訴訟を担当し、のちに国政全般の諮問に預かるようになった。
崔浩(白淵)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
381 | 396 | 450 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
40 | 34 | 96 | 95 | 67 | 神眼 | 諌止 | 言毒 | 占術 | 悪名 | 精練策数 | 挑発 | 罵声 | 鎮静 | 上兵伐謀3 | 名利 |
【サイコウ(ハクエン)】
北魏の政治家。清河郡の人。崔宏の子。崔林の7世の孫。
北朝随一の謀略家と称され、自ら張良?に比した。
若い時から文学を好み、経史や陰陽に通じ、この時代の人は崔浩に及ばなかったという。
劉裕の北伐に際して、劉裕が関中を保持できないことを予見して明元帝に力を蓄えるよう進言する。
太武帝の代には夏、柔然、北涼との戦いで数々の献策を行い、太武帝の華北統一に貢献する。
天師道(五斗米道)の寇謙之に師事し、道教保護のための廃仏を主導した。
しかし急激な漢化政策に鮮卑族の反発を招き、
国史編纂の際に拓跋氏について有りの儘を記述したため誅殺された(国史の獄)。
寇謙之(輔真)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
27 | 1 | 86 | 84 | 72 |
【コウケンシ(ホシン)】
北魏の政治家、道士。
代々天師道を信奉する家に生まれ、自身も修行のため嵩山に20余年に亘って籠もった。
このとき太上老君から天師を名乗って張魯から続く制度の旧弊を改めるよう啓示を受けたという。
山を下りると仏教を基に道教の教義を整理、体系化し、華北統一を進める北魏に接近した。
崔浩の推挙で拓跋燾の信頼を得ると、拓跋燾に道教を信奉させることに成功した。
以後、国家の庇護の下で道教普及を推進し、442年には国教化を実現した。
これら精力的な活動により、道教は後世の王朝から国教に準じる扱いを受けることとなる。
高允(伯恭)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
6 | 2 | 76 | 85 | 87 | 泰然 | 教化 | 柱石 | 史官 | 学者 | 鎮静 | 太学4 | 礼教 |
【コウイン(ハクキョウ)】
北魏の政治家。
経史、天文、暦数など諸学に通じ、千余を数える門弟に学問を教授した。
やがて北魏に仕えると崔浩と共に国史編纂を担当した。
国史の獄に連座しかけるが、貞潔な受け答えと皇太子・拓跋晃の取り成しで特赦された。
文成帝の即位に参与すると、以後は朝廷の中枢で高官を歴任し、
学校の設立、律令の制定など北魏の安定と発展のために貢献した。
生涯を通して五帝に仕え、国家の柱石として晩年には孝文帝から特に尊崇を受けた。
慕容白曜
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
90 | 75 | 78 | 82 | 80 |
【ボヨウハクヨウ】
北魏の武将、政治家。
文成帝の代に北部尚書となり、剛直で阿らず、厳格に法を執行して厚遇された。
劉宋の混乱期に乗じて青州に侵攻し、該・肥・靡・溝の四城を十日で落とすという大功を立てる。
彭城と升城も続けて抜き、歴城は一転して持久戦によって陥落させた。
東陽では宋の守将が一時降るも再び反したため猛攻を加えて攻略し、青州を北魏の領土に加えた。
この功績により青州刺史に任じられ済南王となったが、その直後に献文帝によって謀反の罪で処刑された。
次代の孝文帝により冤罪であるとして名誉回復された。
李冲(思順)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
15 | 4 | 73 | 90 | 75 |
【リチュウ(シジュン)】
北魏の政治家。
献文帝の治世に北魏に出仕し、馮太后が実権を握ると寵遇された。
三長制を献策して北魏の民衆把握状況を改善。税収を大いに高めた。
律令の制定、新たに都になった洛陽の造営などにも辣腕を振るい、孝文帝の厚い信頼を得た。
指導に当たった太子・元恂が謀反の疑いで廃されるが、その後も孝文帝の信頼は揺るがなかった。
温厚な人柄であったが、自身が推挙した李彪から軽んじられると激怒し、それが元で病死した。
楊大眼
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
91 | 98 | 75 | 52 | 74 | 神将 | 闘将 | 驍将 | 一騎 | 直情 | 軍神 | 万人敵 | 突撃 | 鯨波 | 大喝 | 三軍強化 | 覇道 |
※別案。三国志11に合わせた。
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
88 | 98 | 65 | 52 | 79 | 神将 | 闘将 | 驍将 | 一騎 | 直情 | 軍神 | 万人敵 | 突撃 | 鯨波 | 大喝 | 三軍強化 | 覇道 |
【ヨウタイガン】
南北朝時代、北魏の将軍。
孝文帝の頃に南征に志願。飛ぶように走る様を認められ将校となる。
その豪傑ぶりは関羽、張飛と比され、「武勇は三軍に冠たり」と称された。
妻の潘宝珠も武芸に通じ、共に戦場に出て戦ったという。
やがて中山王・元英の指揮下に入ると、南朝の梁軍と戦って目覚ましい戦果を上げ、南朝の人々の間では、その名を聞けば泣く子も黙るといわれた。
しかし、鍾離の戦いで大敗を喫し、責任を取って中山王は王位を返上。
楊大眼も一兵卒に降格されたが、後に再び起用されて荊州刺史となった。
邢巒(洪賓)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
90 | 72 | 89 | 85 | 74 |
【ケイラン(コウヒン)】
北魏の武将。
孝文帝の元で、南斉への外交、機密文書の管理や起草に携わる。
宣武帝の代に梁に侵攻し、漢中?・巴西の十四郡を攻め取り東西七百・南北千里を北魏の版図に加えた。
梁の兗州侵攻を防衛し、楊大眼?と共に宿豫を攻め取る。
この勝利に乗じて中山王元英と楊大眼が鍾離を攻めるが、鍾離の天険と梁の堅守から勝機がないと宣武帝に上奏している。
豫州の反乱では騎兵八百を率い、智略をもって賊軍を撃破する。
元英が三関を落とすと呼応して掎角の攻めを見せ、豫州を平定した。
その後、突然の病に倒れ没した。
潘氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
67 | 80 | 52 | 18 | 49 |
【ハンシ】
楊大眼?の妻。
騎射を善くするなど武芸に通じ、楊大眼は妻に軍装をさせ戦や狩に従軍させていた。
戦場では楊大眼と轡を並べて駆け巡り、軍営に帰還すると幕下に同席して僚将と交談していたため、
人々から「潘将軍」と呼ばれていた。
その後、楊大眼との間に三人の息子をもうけた。
鐘離で大敗した楊大眼が営州の一兵卒に落とされると洛陽?に残るが、
留守中に不貞を働いたために楊大眼の怒りを買い、幽閉されて殺された。
爾朱栄(天宝)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
493 | 530 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
85 | 88 | 80 | 27 | 10 |
【ジシュエイ(テンホウ)】
北魏の武将。奸雄・権臣と評される。
将才に優れ兵法に明るく、北魏末期に各地で頻発した乱の平定で活躍した。
六鎮の乱を討伐する中で、降伏した賀抜岳、高歓、宇文泰らを幕下に加え勢力を拡大する。
孝明帝が霊太后に殺害されると洛陽?を攻め、霊大后と幼主元釗を殺害し黄河に投げ捨てた(河陰の変)。
529年、六鎮の乱を完全に鎮圧し、鎮圧の隙に北海王・元顥と梁の陳慶之?に奪われていた洛陽も奪回する。
同年、天柱大将軍となり、侍中・録尚書事・大丞相・太師を兼ねた。
外戚として専横を振るい帝位簒奪を狙うが、孝荘帝に露見したため誅殺された。
死後も甥の爾朱兆らが専横を振るい、北魏が分裂する発端となった。
(別案)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
91 | 88 | 80 | 27 | 93 | 梟雄 | 倒山傾海 | 三軍強化2 | 我道 |
横暴なイメージが強いが、強烈なカリスマ性を魅力に反映して大幅に上げたバージョン。史書に特筆される美男であり、清廉潔白な人柄を讃えられてもいる。
将才は間違いなくトップクラスであり、猛威を振るった六鎮の乱鎮圧の殊勲者であることから統率も微妙に上げ。子分の高歓、宇文泰らとの比較から統率も90オーバーでも妥当かと思いこの値に。
賀抜岳(阿斗泥)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
88 | 85 | 75 | 52 | 68 |
【ガバツガク(アトデイ)】
北魏の武将。賀拔勝の弟。
武勇に優れており、兵書を読まなかったが用兵が合致しており、識者に訝しがられた。
六鎮の乱の際に爾朱栄に帰順し、賀拔勝を招いた。
河陰の変、葛栄討伐、洛陽?奪還で功績を上げる。
万俟醜奴の乱では軽騎八百を率いて尉遅菩薩の軍二万と対峙し、
遁走するふりを見せて伏兵に誘い込んで撃破し、三千を捕え一万の兵を降した。
爾朱天光とともに涇州まで万俟醜奴を猛追し、捕縛した。
高歓が起兵すると関中で軍閥を形成し、宇文泰と共に対抗する。
しかし、高歓に通じた侯莫陳悦により暗殺された。
補足:賀拔の二字姓
東魏・北斉
高歓(賀六渾)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
93 | 74 | 88 | 84 | 71 | 梟雄 | 掃討 | 驍将 | 英名 | 再起 | 虎嘯風烈 | 鼓舞 | 急襲 | 火矢 | 井闌 | 三軍強化 | 覇道 |
【コウカン(ガロクコン)】
北魏、東魏の武将、政治家。鮮卑化した漢族の出身。北斉の基礎を築いた。
爾朱栄の挙兵に従い、先鋒として洛陽?の霊太后を攻める(河陰の変)。
爾朱栄が孝荘帝に殺害されると独立し、後廃帝と孝武帝を擁立して爾朱一族を滅ぼした。
北魏の実権を握り賀抜岳を誅殺するも、孝武帝が逃亡したため東魏を成立させた。
その後は宇文泰が掌握する西魏と、北魏の正統と河東の地を巡って戦う。
沙苑の戦いでは大敗を喫するも、邙山の戦いでは勝利を収めた。
玉璧の戦いの最中で病に倒れ、翌年没し、北斉成立後に高祖神武皇帝が追号された。
補足:鮮卑名は賀六渾。
高洋(子進)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
526 | 559 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
95 | 92 | 76 | 59 | 20 | 神将 | 威風 | 驍将 | 粗暴 | 酒乱 | 虎嘯風烈 | 突撃 | 急襲 | 井闌 | 鼓舞 | 三軍強化 | 覇道 |
【コウヨウ(シシン)】
北斉初代皇帝、文宣帝。高歓の次男。
若いころ、父が子供達に絡まった糸をほどかせたことがあった。兄弟の誰もほどけなかったが、
高洋は刀で結び目を断ち切った(「快刀乱麻を断つ」の語源)。
550年、東魏の孝静帝(元善見)に迫って禅譲させ即位した。
当初は政務に力を注ぎ、州郡の削減と官僚の削減、加えて富国強兵政策を実施し、
農業・塩鉄業・窯業を中心にした経済を背景に北斉を短期間のうちに国家として成長させた。
軍事面では柔然・契丹・高句麗などを攻撃し、勢力範囲の拡大も実現した。
しかし、しばらくすると政務を省みなくなり、酒色に溺れ民衆生活を圧迫した。
特に酒乱と暴虐に関する逸話は多い。
・貴族や家臣を手当たり次第に刑戮した。廷臣たちは処刑道具の傍に死刑囚の檻を造り、皇帝が好きな時に人殺しを堪能できるように手配した。
・元善見と3人の子を殺害、他の旧東魏の皇族も殺した。
559年、旧東魏皇族の元韶に鎌を掛け、「(王莽は)劉一族を皆殺しにすべきだった」との言質を取ると、元氏の25家を皆殺しにした。
元韶は失言を恥じて自害したが、最終的に拓跋什翼犍(北魏は昭成皇帝と追贈)の子孫に当たる721人が皆殺しにされ、
主立った者は公開処刑。遺体は漳河に捨てられた。しばらくの間、川の魚から人肉を食った跡が出てきたため、人びとは魚を口にしなかった。
・酔って実母を怪我させたあげく、それを悔いて焼身自殺を図り臣下に自らをを罰しようとし、拒めば殺害すると脅した。
・出産したばかりの寵姫をその姉諸共殺害し頭蓋を群集に見せつけ最後にはその骨を琵琶にして彷彿した。
慕容紹宗(紹宗)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
92 | 84 | 94 | 80 | 82 | 洞察 | 掃討 | 柱石 | 威風 | 寡欲 |
【ボヨウショウソウ(ショウソウ)】
北魏、東魏の武将。
剛毅な風貌で、深い胆略に富んでいた。
爾朱栄に仕え、高歓と共に羊侃を破るなどの軍功を立てた。
爾朱栄死後に高歓が起兵すると壺関を守備するが、爾朱兆の本軍が敗れたため投降する。
東魏建国後は、西魏の独孤信が洛陽?を支配した際に蜂起した賊を平定する。
梁の劉烏黒の侵攻を防ぎ、二度目の侵攻の際には劉烏黒を捕えて斬った。
侯景の反乱では、侯景を支援した梁の蕭淵明を撃破し、軍を返して侯景も破り敗走させた。
潁州を水攻めにした際に船が暴風に遭って城壁まで流され、虜囚を拒んで水中に投身した。
堯雄(休武)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
88 | 86 | 87 | 79 | 80 |
【ギョウユウ(キュウブ)】
北魏、東魏の武将。
起兵した高歓に爾朱兆の麾下として抗戦するも敗れ、高歓に帰順する。
高昂に従い賀抜勝を撃破して三荊を征討し、
豫州刺史を自称した趙継宗を破り、西魏に寝返った王長を討伐した。
梁の李洪芝らが州境を侵すと伏兵を用いて捕縛し、
陳慶之?の侵攻では負傷しながらも勇戦して撃破し、
南荊州が陳慶之に包囲されると逆に白苟堆を攻め落として梁軍を退けた。
西魏の韋孝寛が侵攻して豫州が西魏に降ると捕虜を奪還し、後に豫州も奪回した。
驍勇果断で騎射に善く、温厚寛大な性格と誠実な統治で兵や民から慕われていた。
斛律金(阿六敦)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
88 | 86 | 70 | 51 | 71 |
【コクリツ・キン(アロクトン)】
北魏、東魏、北斉の武将。子に斛律光。
匈奴の用兵を用い、塵を見て敵兵の量を、地を嗅いで敵の遠近を見極めた。
六鎮の乱に参加するも敗北を悟り投降、以後は爾朱栄、高歓に従う。
東魏建国後は宇文泰に備え、三万の軍を率いて国境に駐屯した。
沙苑の戦いで奪われた諸城を奪回し、河橋の戦いでは別軍を率いて太州へ向かい掎角の勢を成した。
穎川に西魏の王思政が入ると西魏の救援路を断つが、慕容紹宗が戦死したため穎川に入って平定した。
晩年は北辺を守備し、柔然に対して北伐を行う。
外戚となった斛律氏の末路を憂いて病没した。
補足:斛律の二字姓。
字はテュルク語のアルトゥン(黄金を意味し、名の金と同義)から。
三文字なので入力する際は、どれか一文字を削って入力。
斛律光(明月)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
96 | 91 | 76 | 62 | 78 | 神威 | 勇将 | 威風 | 築城 | 遠矢 | 神弓 | 急襲 | 鯨波 | 牽制 | 撹乱 | 雁行強化5 | 覇道 |
【コクリツ・コウ(メイゲツ)】
南北朝時代末期、北斉の将軍。
若年の時に巨大な大鷲を射落としたことから「落鳥都督」の異名を持つ。
北周や突厥との戦いで活躍、守勢では長城を築き、攻勢では歩騎を率い攻守両面で功績をあげる。
北周の平陽侵攻を防ぎ、洛陽が包囲された際には高長恭と共に援軍として駆けつけ撃破した。
娘が後主・高緯に嫁ぎ外戚となるも、北周による流言とそれを信じた重臣の讒言により粛清された。
北周の武帝は北斉を滅ぼした際に、斛律光がいれば鄴(北斉の都)に入れなかったと述べている。
段韶(孝先)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
93 | 89 | 68 | 75 | 73 | 闘将 | 柱石 | 威風 | 英名 | 疾走 | 彊壮進軍 | 突撃 | 衝車 | 強襲 | 矢嵐 |
【ダンショウ(コウセン)】
東魏、北斉の武将。高歓の外甥。
少年時代から騎射に優れ、高歓に寵愛された。
大兵を有する爾朱兆と敵対した高歓を鼓舞して勝利に貢献する。
邙山の戦いでは賀抜勝に本陣を脅かされるが、賀抜勝の馬を射抜きその猛攻を押し止めた。
玉璧の戦いにも従軍するが、高歓が病に倒れると後事を託され鄴へ遣わされた。
北斉の冀州刺史、并州刺史を歴任して善政を敷く。
梁の涇州侵攻では、厳超達を破って艦・兵器を鹵獲し、陳霸先を敗走させた。
北周の度重なる侵攻を斛律光、高長恭?らと撃ち破る。
病に倒れると、自身の軍権を高長恭に託して没した。
高長恭
「高長恭?」を参照。
※別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
91 | 93 | 70 | 35 | 91 | 神威 | 胆力 | 救心 | 昂揚 | 果敢 | 単騎駆 | 突撃 | 斉射 | 激励 | 鯨波 | 鋒矢強化 | 王道 |
別名に高孝瓘、高粛。蘭陵王。高澄の四男。史書に「音容兼美」と明記された美男子。
并州刺史として突厥や北周と激戦し、その勇猛ぶりを天下に知らしめた。
564年、北周の大軍に洛陽が包囲されると、段韶、斛律光らとともに寡兵で援軍に向かう。
敵味方もわからぬ混戦の中、兜を脱いで城兵に顔を見せて入城し、反撃して北周軍を大破した。
この時の勇姿を北斉の兵士たちが称えて歌ったものが「蘭陵王入陣曲」として伝わる。
以後も転戦を重ねて武勲を重ねるが、その名声を後主・高緯に疎まれて賜死させられた。享年33。
高延宗
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
82 | 76 | 81 | 62 | 93 | 堅守 | 剛将 | 怒髪 | 胆力 | 寡欲 |
北斉に仕えた武将。高長恭の実弟。安徳王の通り名でも知られる。
剛直な人物で兄の戦いぶりについても度々批判していたが、その最大の理解者でもあり、兄が皇帝に毒殺されると慟哭した。
北周が北斉に侵攻して皇帝が逃亡した後も北斉軍に抵抗を続け、将士達によって皇帝に擁立されるが、本拠である晋陽を落とされて捕虜にされる。
北斉から投降を勧められてこれを拒否し続けるが、その武勇と忠義を評価されて賓客として遇された。
その後も自害する機会を狙って果たせずにいたが、降伏した皇帝が謀反の疑いで粛清されたと聞いて処刑されるのも時間の問題と見て自害を果たした。
高緯
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
556 | 565 | 577 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
4 | 8 | 5 | 3 | 1 | 高慢 | 惰弱 | 小心 | 浪費 | 動転 |
北斉の王。後主とも呼ばれる。
賢臣を用いず、奸臣たちを信任して国力を大きく衰退させた。
なお、彼のせいで亡くなった賢臣には蘭陵王も含まれている。
逸話に関してもろくなものがなく、
- ある家臣が「蠍をたくさん入れた穴の中に人を入れてもがき苦しむ様を見るのが楽しかった」と言うと、「なぜ、このように面白いことを隠しておったのだ」という
- 陥とされた平陽を奪還しに行った時、あと一押しで落とせたが、馮淑妃と共に落城する様を見物しようと攻撃を止めさせたあげく、落とすことができなかった
- 陳に侵略された時はさすがに顔色は失ったものの、臣下に「一生遊び暮らすには充分ではありませんか」といわれて、そのまま納得してしまった
といったものばかりで、この暗君のせいで最終的に北斉は軍事的優位を失い、滅亡したばかりか、彼自身も一族もろとも殺害されてしまう羽目に遭う。
魏収(伯起)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
506 | 572 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
11 | 44 | 79 | 71 | 8 | 史官 | 学者 | 功名 | 高慢 | 悪名 | 覇道 |
北魏・東魏・北斉の政治家、学者。鉅鹿下郡曲陽県の人。魏子建の子。
15歳にして学問に秀でていた。父が東益州刺史として漢中郡武興県に駐屯すると同行し、
乗馬と騎射が上手になり、武術を極めたいと思った。しかし、鄭伯調という者に
「魏の若さまが戟を振るったところで、何ほどのことができようか」といわれ、恥ずかしくなって武術は止めた。
北魏の節閔帝(前廃帝とも。元恭)の時に散騎侍郎となり、起居注(皇帝身辺の記録)を管掌した。
26歳の時、修国史・中書侍郎となる。東魏・北斉の詔書の原稿の多くを手がけた。
東魏から北斉への禅譲の詔書も手がけ、北斉では中書令・著作郎となり、文宣帝(高洋)の命令で正史『魏書』を編纂した。
その内容は北魏→東魏の正統性を主張したもので、鮮卑の習俗については極力排除している。
また、敵国の徹底的な否定はもちろん、国内の家柄を規定し、敵対者を積極的に貶めている。そのため、完成直後から国内の漢人官僚より批判が起きたが、
文宣帝は魏収をかばい、抗議した盧斐らの方が処罰されている。しかし、文宣帝の死後、一部の改訂に応じた。
私生活は淫乱で、南朝・梁への使者となった時、迎賓館に妓女を連れ込んで顰蹙を買った。
また、才能を自負して軽薄であったため、恨む者は多かった。死後、北斉が滅亡すると、魏収の墓は暴かれて遺骨は捨てられたという。
『魏書』は後世まで「濊史」(汚れた歴史)と呼ばれ、非難されている。しかし、南北朝時代の史料として貴重なことには変わりなく、
「釈老志」は仏教史・道教史の貴重な史料である。また一からの捏造は少なく、出典を自説に都合がよいように構成した内容であるという。
ただし、現存本は一部が散逸しており、『北史』で補っている。
親愛武将:王粛、杜預、元宏、高洋
嫌悪武将:盧斐、劉備、孫権、劉淵、石勒、司馬睿、宇文邕、陳霸先
※王粛・杜預への親愛は、「二王三恪」の制度で両者の学説を支持したことから。
西魏・北周
宇文泰(黒獺)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
94 | 78 | 92 | 94 | 82 | 奸雄 | 泰然 | 再起 | 柱石 | 王佐 | 神機妙算 | 急襲 | 連弩 | 激励 | 鼓舞 | 経世済民 | 覇道 |
【ウブン・タイ(コクダツ)】
北魏、西魏の武将、政治家。西魏八柱国の一人。北周の基礎を築く。
六鎮の乱で挙兵。賀抜岳に従い、その死後に軍権を引き継いで総帥となった。
高歓の専横を除くことを宣言して孝武帝を長安?に迎える。
後に孝武帝と対立して殺害、文帝を擁立し西魏を建てその実権を握った。
国政改革を行って漢人を登用し、均田制を導入、公文書の書式を制定し戸籍を整え、地方官吏の指針を制定した。
軍政面では府兵制を導入し、八柱国の筆頭として軍事面を統率。
潼関では東魏に大敗するが、その半年後に沙苑の戦いで高歓に大勝して七万人の捕虜を得た。
補足:宇文の二字姓。
宇文護(薩保)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
74 | 59 | 90 | 95 | 58 | 梟雄 | 柱石 | 策士 | 能吏 | 悪名 | 酖毒 | 混乱 | 井闌 | 斉射 | 先従隗始 | 覇道 |
【ウブン・ゴ(サツホ)】
西魏、北周の武将、政治家。叔父である宇文泰から後事を託されて国政を掌握。
皇族・元勲らを時に懐柔、時に圧迫して国内をまとめ上げ、独裁者として強権を振るう。
西魏から北周への禅譲を成功させたほか、軍事・行政制度の確立、漢人の積極的な登用による人材整備、
突厥との同盟、吐谷渾討伐など数々の成果を上げる。小国だった西魏を引き継いだ北周は、于文護の執政期に北斉を
凌ぐ強国へとのし上がり、後の華北統一の礎となった。
その絶大な功績の一方、皇帝の弑逆を繰り返し専横を極めた奸臣とも評される。
最後は宇文護からの自立を図った武帝によって誅殺された。
宇文邕(禰羅突)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
93 | 79 | 92 | 91 | 96 | 疾走 | 威風 | 策士 | 能吏 | 剛将 | 魏武の強 | 強襲 | 井闌 | 三軍強化 | 覇道 |
【ウブン・ヨウ(ジラトツ)】
北周第三代皇帝。武帝。
第二代明帝が宇文護に殺害され、次代の皇帝として擁立される。
迫害を避けるため暗愚を装い、時期を待って宇文護を誅殺して親政を開始。
更に弱体化した北斉に侵攻し華北を統一。南朝陳にも攻勢をかけ長江以北を領土とした。
中華統一まで目前に迫ったが、36歳の若さで病没。
寺院の破壊と財産の没収、税賦を逃れる目的で僧籍に入る者を還俗させて税を取ることで財政改善を狙った(三武一宗の廃仏の二)。
宇文贇(乾伯)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
3 | 9 | 12 | 31 | 26 | 酒乱 | 虚弱 | 強欲 | 悪名 | 浪費 |
【ウブン・イン(ケンハク)】
北周第四代皇帝。宣帝。
皇太子だった頃、次期皇帝としての資質を周囲に疑問視され、父の武帝からも厳しい躾をされた。
その甲斐なく父が死去した際には杖で打たれた傷を撫でながら「死ぬのが遅い」と呟いたとされる。
その後は宇文憲などの功臣を誅殺し、宮殿造営など浪費を繰り返す。
在位1年で7歳の長男に譲位。天元皇帝を名乗り酒色に走るが22歳で死去。
政務は楊堅に放任していたため北周は簒奪される結果となる。
于謹(思敬)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
92 | 80 | 92 | 78 | 82 | 洞察 | 驍将 | 掃討 | 堅守 | 機略 | 王佐の才 | 急襲 | 火矢 | 鉄壁 | 混乱 | 三軍強化 | 割拠 |
【ウキン(シケイ)】
北魏、西魏、北周の武将。西魏八柱国の一人。
孫子の兵法を愛好し、「王佐の才」と評される。
北魏の代には、二千騎を率い柔然と十七戦し、全てに勝利を収めた。
鮮卑征伐、梁の北伐防衛などに従軍し功績を上げる。
宇文泰による東伐では楊氏壁、盤豆、弘農の攻略で功績を上げる。
邙山の戦いでは偽投降を仕掛けて東魏軍を混乱させ、西魏軍の退却を成功させた。
その後、梁の江陵?を攻め落とし、傀儡の後梁を立てて帰還した。
六官が建てられると大司徒となり朝政に与る。
北周では燕国公となり、賀蘭祥の吐谷渾討伐では軍を統制し戦略を授けた。
李弼(景和)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
88 | 94 | 74 | 58 | 77 | 闘将 | 崩壁 | 勇将 | 英名 | 胆力 | 陥陣営 | 突撃 | 急襲 | 衝車 | 駆逐 |
【リヒツ(ケイワ)】
北魏、西魏、北周の武将。西魏八柱国の一人。
常に先鋒となって敵陣を陥とし、「李将軍の前に当たる者無し」と畏れられた。
侯莫陳悦が宇文泰と敵対すると諌めるが聞き入れられず、宇文泰に投降した。
潼関と回洛城を攻め、竇泰の侵攻を迎撃し、弘農を平定する。
沙苑の戦いでは右軍を率い、左軍の後退に乗じて六十騎を率いて突撃し勝利に貢献した。
洛陽?の攻防戦で負傷し捕縛されるが、重傷を装って敵兵を欺き、馬を奪って脱出している。
侯景の荊州侵攻を独孤信と食い止め、侯景の反乱の際には侯景の援軍として東魏軍を潁川から退けた。
独孤信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
86 | 89 | 78 | 69 | 90 |
【ドッコ・シン】
北魏、西魏、北周の武将。西魏八柱国の一人。
騎射に優れ、容姿が美しく服飾を好み「独孤郎」の美称で呼ばれた。
北魏の孝武帝が長安?へ逃亡し東魏が分裂すると、家族を捨て単騎で駆けつけ忠義心を称えられる。
荊州を東魏から奪うが、東魏の大軍に攻められ梁に亡命し、西魏に戻った。
その後も東魏を相手に洛陽?を守備し、荊州を奪回するなど功績を挙げる。
西魏が敗れた邙山の戦いでは、東魏軍の後背を痛撃し、西魏軍の撤退を援護した。
北周が建国されると、政治を専横した宇文護に対して趙貴が謀反を企て、これに連座して毒酒を呷った。
補足:独孤の二字姓。
もとの名は独孤如願(ドッコジョガン)、後に宇文泰より信の名を賜り独孤信となる。
賀抜勝(破胡)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
85 | 89 | 61 | 48 | 73 |
【ガバツショウ(ハコ)】
北魏、西魏の武将。
六鎮の乱で反乱軍に抵抗し、度々包囲を突破して北魏に援軍を求めた。
爾朱栄の配下となり、北海王元顥が洛陽?を占拠すると、元顥を破り洛陽に入城した。
孝武帝の西遷に従うが、高歓が潼関を落としたため荊州に依ろうとする。
しかし侯景に迎撃され、梁へ一時亡命した。
西魏帰還後は東魏との戦いで功績を重ねる。
邙山の戦いでは高歓の本陣に迫るが、段韶に乗馬を射られ好機を逸した。
これを恨んだ高歓に親族を皆殺しにされた事で病を発し、没した。
梁への恩義から、狩猟の際に南向きの鳥獣は射らなかったという。
耿豪
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
58 | 95 | 27 | 20 | 40 |
【テキゴウ】
北魏、西魏の武将。
豪快かつ凶暴な性格で武芸に秀で、賀抜岳、次いで宇文泰に仕えた。
宇文泰の東伐では先鋒として功績を上げ、前将軍となる。
沙苑の戦いでは非常に多くの兵を殺傷し、甲冑が血で赤く染まり、宇文泰から「向かう所敵なし」と賞賛された。
邙山の戦いでは敗勢の中、右手で刀を抜き、左手に矛を持って奮戦し、勇名を轟かせた。
人に屈することを嫌い不遜な言動をとることが多かったが、その驍勇を宇文泰に非常に愛されていた故に許されていた。
車騎大将軍、驃騎大将軍を歴任した後に没し、その死を宇文泰は痛惜した。
楊忠(掩于)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
84 | 90 | 64 | 51 | 60 |
【ヨウチュウ(エンウ)】
梁、北魏、西魏、北周の武将。隋の文帝・楊堅の父。
美髯の容貌で、武芸に秀で深い見識を持っていた。
また、狩猟の際に猛獣を素手で倒して「掩于」と称され、自らの字とした。
若い頃に梁に捕えられ、北海王元顥と陳慶之?の北伐に従い洛陽に入る。
その後は爾朱一族に従い、独孤信の麾下となると孝武帝の西遷に従う。
西魏の将として東伐や沙苑の戦いで軍功を重ね、侯景の乱で混乱する梁に侵攻し漢水流域を平定する。
于謹の江陵?攻略では、梁軍の戦象を弓射で退けた。
晩年は国境を守り北斉や突厥と相対し、斛律光を恐れる諸将を叱咤した。
宇文貴(永貴)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
85 | 88 | 52 | 48 | 65 | 遠矢 | 胆力 | 屯田 | 楽奏 | 柱石 |
【ウブンキ(エイキ)】
北魏、西魏、北周の武将。
少年の時に「男は剣を提げ馬に汗して公侯を取る」と嘆いて勉学を止める。
六鎮の乱では夏州を救援し、数十戦を戦って勇名を馳せた。
爾朱栄の麾下となって洛陽?に入城した北海王元顥を攻め、橋を焚いて勝利に貢献する。
西魏では宇文泰と同姓の誼で重用され、
東魏の穎川侵攻では寡兵ながら決戦を挑み、乗馬を失いながらも徒歩で戦い勝利を収めた。
文帝の園遊で金の酒器を一矢で射抜き、養由基に例えられる。
羌族、氐族の反乱を鎮圧し、蜀で屯田や遊軍の編成を行う。
突厥へ使者として赴き、帰還途上に張掖で没した。
※宇文の二字姓。
賀蘭祥(盛楽)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
86 | 77 | 83 | 88 | 84 |
【ガラン・ショウ(セイラク)】
西魏、北周の武将、政治家。
孤児となり宇文泰の庇護を受け、北魏末期に仕官し宇文泰の幕下に加わる。
潼関、回洛城の攻略で功績を上げ、沙苑の戦いでは長安?の留守を預かった。
荊州刺史となる善政を敷き、清素な性格で公私にわたって賄賂や贈物を受け取らなかったという。
その後、涇水と渭水の灌漑事業に携わり、堰を築き、開渠を設けて民を利した。
北周が成立すると趙貴の誅殺と孝閔帝の廃位に協力し、宇文護の政権基盤を固める。
吐谷渾が涼州に侵攻すると迎撃して討ち破り、洮陽など二城を落として洮州の地を獲得した。
補足:賀蘭の二字姓。
韋叔裕(孝寛)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
93 | 78 | 98 | 85 | 83 | 虚実 | 堅守 | 沈着 | 策士 | 堅牢 | 不撓不屈 | 火矢 | 鉄壁 | 混乱 | 挑発 | 上兵伐謀3 | 覇道 |
【イ・シュクユウ(コウカン)】
西魏、北周の武将。
経史を広く読み、智謀に長け、攻守ともに秀でていた。
蕭宝寅の乱や潼関の戦いで功績を上げ、独孤信の洛陽入城後は潁川で東魏軍を破り、豫州を攻め取る。
并州刺史となると、高歓率いる大軍の侵攻を玉壁で固守する。
五十日に渡って城を徹底的に防衛し、東魏は七万の犠牲者を出し撤退した。
北周の代になると斛律光と国境を争い、その武勇を畏れ北斉に流言を飛ばし斛律光を殺害させた。
晩年に退職を願うが中華統一まで許されず、北斉討伐の先鋒を務め北斉滅亡に功績を立てた。
尉遅迥の反乱を鎮定した後に病没した。
宇文憲(毗賀突)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
92 | 84 | 88 | 82 | 85 | 神機 | 疾走 | 驍将 | 遠矢 | 崩壁 | 豪気衝天 | 急襲 | 斉射 | 鼓舞 | 投石 | 軍制改革 | 王道 |
【ウブンケン(ヒガトツ)】
北周の武将。宇文泰の第五子。斉煬王。
幼い頃から聡明で宇文泰に重器と賞された。
北周が成立すると宇文泰の遺言に従って益州に赴任し善政を敷く。
宇文護の東伐では、王雄が討たれ軍が動揺する中で督励し敗軍を収拾した。
北斉の侵犯に対応するため宜陽を包囲して北斉の糧道を断つが、斛律光に敗退。
その後も斛律光や高長恭?と戦い、一進一退を繰り返す。
北斉が弱体化すると北斉征伐の指揮を取り、高延宗や高孝珩を撃破し北斉を滅ぼす。
善謀算略を有し、先陣に立って将兵の人心を得ていたが、暗君の宣帝にその声望が危険視され誅殺された。
※諡号の「煬」は本人の生前の行動によるものではなく、宣帝に貶められたもの。