みんなの新武将/南北朝時代/南朝

Last-modified: 2023-07-02 (日) 16:24:33

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

南北朝時代・南朝(420~589)

  • 南朝
    • 劉宋 420~479
    • 南斉 479~502
    • 梁  502~557
      • 後梁 554~587
    • 陳  557~589

以下は「南北朝時代(北朝)」を参照

  • 北朝
    • 北魏 386~534
    • 東魏 534~550
    • 北斉 550~577
    • 西魏 535~556
    • 北周 556~581


宋(劉宋)

劉裕(徳與)

生年登場没年死因
363422自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9795718361闘将掃討英名規律胆力猛虎爪牙奮戦激励駆逐強襲三軍強化3覇道
9795718388闘将掃討英名規律胆力猛虎爪牙奮戦激励駆逐強襲三軍強化3覇道

【リュウユウ(トクヨ)】
東晋の武将、政治家。宋(劉宋)の高祖武帝。
孫恩の乱の平定に功績を立てる。
桓玄が帝位を簒奪すると、桓玄を滅ぼし東晋を再興させる。
東晋の独裁権を確立すると、北伐を行って南燕を滅ぼし、盧循の乱も平定する。
後蜀に朱齢石を遣わして四川を制圧し、後秦に北伐を行い洛陽・関中も一時奪還した。
宋王に封じられた後に安帝を殺害し、恭帝から禅譲され宋を建国。
恭帝ら東晋の皇族を殺害し、禅譲後に前王朝の皇族を弑する前例を作った。
治世では大規模な土断法を施行して戸籍を整理するなど宋の基礎を固めるが、即位から3年で没した。

劉義隆

生年登場没年死因
407422453不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6251728878

【リュウギリュウ】
劉宋の第三代皇帝・文帝。武帝劉裕の第三子。
少帝が徐羨之に殺害されると帝位につく。
徐羨之ら政治を専横した重臣を粛清して実権を掌握する。
国政では武帝の政治方針を継承し、戸籍の整理と税賦の減免を行い、
「元嘉の治」と呼ばれる劉宋の全盛期を招いた。
儒学館を開設して学問を奨励し、裴松之に陳寿の「三国志」に注釈を行うよう命じている。
外征では檀道済に北伐を行わせるものの、檀道済と対立し誅殺してしまう。
このため北魏の太武帝の侵攻を受け、江北を荒らされる結果となった。
その後、太子の劉劭により謀殺された。

劉穆之(道和)

生年登場没年死因
360417自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
462939568妙算封殺運搬能吏王佐深謀遠慮足止挑発鎮静経世済民3王道

【リュウボクシ(ドウワ)】
東晋の政治家。劉裕配下の謀臣。
劉裕の桓玄討伐に際して幕下に加わり、建康攻略後の慰撫を担当する。
劉裕の腹心の参謀として軍事・政治両面で献策を行い、劉裕の独裁権を確立させる。
北伐でも数々の献策を行い、自らは建康の留守を預かった。
朝政を司り、軍需を前線に供給し、決裁は流れるようで滞ることがなかったという。
しかし、北伐で洛陽を攻略した劉裕が九錫を朝廷に求めると、簒奪の前兆を感じ取って悶死した。
深謀遠猷を示し、劉宋創業の元勲と劉裕に称えられた。
性格は豪奢で、豪勢な食事を好んだという。

劉駿(休龍)

生年登場没年死因
430436464自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
10602555
5360512054文化教化浪費酒乱粗暴

【リュウシュン(キュウリュウ)】
宋の第4代皇帝。孝武帝。430~464.文帝(劉義隆)の三男。母は路恵男。
兄一族は梟首で川に遺棄し、裏切者達の首級は京観(生首ピラミッド)にして愉しんだ。
また好色でもあり、母親との近親相姦の疑惑を掛けられている。
中央集権政策を進め、寒門を登用して権力集中を図った。また、地方軍を削減し、中央軍を強化しようとした。
文化面では、礼楽に江南民間の楽曲を取り入れ、建康に南郊(皇帝祭祀)を築くなど、
建康を洛陽に取って代わる、中華の中心に位置付けようとした。
晩年の463-464年には大規模な飢饉が起き、浙江(会稽郡など)では人口の6割が餓死する惨状となった。
男子37人、女子8人がいたが、男子の7人は早世し、2人は長男の前廃帝(劉子業)に殺され、残る28人は弟の明帝(劉彧)に殺された。

劉子業

生年登場没年死因
449458466不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
50653974猛者猪突癇癪悪名粗暴

【リュウシギョウ】
宋の第5代皇帝。前廃帝。孝武帝(劉駿)の長男。
453年、皇太子・劉劭がクーデターを起こし、文帝(劉義隆)を殺して即位した。
この時、劉子業も監禁されたが、まもなく父が劉劭を打倒して即位すると救出された。
458年、皇太子に立てられたが、孝武帝は八男の劉子鸞を寵愛し、劉子業の廃立を検討した。
侍中・袁顗の反対で事なきを得た。
464年、即位すると、父の遺命を受けた劉義恭・柳元景・顏師伯・沈慶之・王玄謨の5人が実権を握った。
前廃帝は権臣を排除しようと、その権限の削減に取り掛かった。465年、劉義恭・柳元景・顏師伯は前廃帝の廃立を企てたが、
前廃帝は自ら衛兵を率いて劉義恭らを討った。さらに劉子鸞を自害させ、諫言する沈慶之を殺害した。
また、父の陵墓を掘り起こそうとして家臣に諌められ、糞便で墓を汚した。
叔母の劉英媚は、何邁に嫁いでいたが、前廃帝は叔母が欲しくなり、死んだことにして謝貴嬪として自身の後宮に入れた。
何邁は寝取られたことに気付き、前廃帝の廃立を企てたが、事前に発覚して殺された。
前廃帝は叔父達を脅威と見て警戒し、義陽王・劉昶は北魏に亡命した。また叔父達の体重を量らせ、重い順に
湘東王・劉彧を「猪王」、建安王・劉休仁を「殺王」、山陽王・劉休祐を「賊王」と呼んで嘲った。
劉彧の側近・阮佃夫らは、劉彧が殺される前に先手を打とうとクーデターを企てた。果たして、前廃帝は三王を殺そうとしたが、
阮佃夫らの遣わした寿寂之に射殺された。

嫌悪武将:劉駿、劉子鸞

劉彧(休炳)

生年登場没年死因
439448472自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4744624653

【リュウイク(キュウヘイ)】
宋の第6代皇帝。明帝。文帝(劉義隆)の十一男。
若い頃は美男だったが、次第に肥満体になった。
448年、淮陽王に封じられ、452年湘東王に改封された。
甥の前廃帝(劉子業)が即位すると、一族重臣を次々に殺した。劉彧は「猪王」とあだ名され、
豚のように泥まみれの桶から食事をさせられ、その様子を見た前廃帝は爆笑したという。
劉彧は腹心の阮佃夫や李道児と前廃帝の廃立を謀議し、李道児らが前廃帝を殺害すると即位した。
即位前に豫章王・劉子尚(孝武帝の次男)や山陰公主・劉楚玉(孝武帝の長女)を自害させ、
劉子勛(孝武帝の三男)が反乱を起こしたのでこれを討った。しかし、反乱に乗じた北魏の侵攻で淮北4州と豫州の淮西を奪われた。
家臣には寛容で、叛乱者であっても連座は最小限に留め、多くの者が許された。
反面、わが子の地位を脅かす皇族を次々に処刑し、特に孝武帝の皇子は生き残りを皆殺しにした。
晩年は肥満のあまり性的不能になり、諸王や側近の愛妾が妊娠すると、ひそかに後宮に入れて、生まれた子を自分の養子にしていたという。

劉昱(徳融)

生年登場没年死因
463472477不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1602011癇癪悪名高慢強欲粗暴

【リュウイク(トクユウ)】
宋の第7代皇帝。後廃帝。明帝(劉彧)の長男。幼少時から気性激しく、感情的になると直ぐ暴力を振った。
『宋書』には「天性好殺、以此為歓、一日無事、輒惨惨不楽(生来殺しを好み、それを悦びとし、1日でも殺さぬと直ぐ不機嫌に成った)」と在り、
「非行少年」では到底片付けられぬ、先天的な反社会性の持ち主であった。
また毎日の様に昼夜問わず凶器を手に町を徘徊して人獣を殺めるのを楽しみとし、妊婦の腹を裂くと謂った凶行も行っている。
最期は過剰な残虐性の被害者と成り掛けた大臣・蕭道成によって殺害された。

劉準(仲謀)

生年登場没年死因
469?471479不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
299623260

【リュウジュン(チュウボウ)】
南朝宋の第8代皇帝。順帝。明帝(劉彧)の三男で、後廃帝(劉昱)の弟。後廃帝の弟、劉休範の子ともいう。
後廃帝が殺されると、蕭道成に擁立されたが、全くの傀儡であった。
479年4月、蕭道成に禅譲し、斉となった。蕭道成の使者となった王敬則に「私を殺すつもりか」と泣きながらいうと、
王敬則「劉氏が司馬氏から受禅した時のやり方にならうのです」。劉準は殺されるに違いないと思い、
「生まれ変わっても帝王の家にだけは生まれたくない」といい、周囲の家臣は涙した。
斉では汝陰王に封じられ、丹陽宮に移された。1ヶ月後、丹陽宮で馬が駆けていることを謀叛の企みと難癖を付けられ、殺された。

※生年は467年、字は「仲謨」とも。

王鎮悪

生年登場没年死因
373385418不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9539913748神機妙算長駆悪名強欲兵貴神速急襲混乱鼓舞駆逐水軍育成4覇道

【オウチンアク/オウチンオ】
東晋の武将。劉裕配下の武将。前秦の名将・王猛の孫。
前秦が淝水の戦いで敗れた後に荊州へ移った。
弓馬の扱いには優れなかったが、軍事や国家を論じ、迅速果敢な決断力に富んでいた。
劉裕の麾下となり、その将才を賞賛される。
劉毅討伐では、野戦で劉毅軍を破ると、さらに江陵に速攻を仕掛け二十日で平定した。
後秦への北伐では先鋒を務め、虎牢関を落とし洛陽を攻略する。
さらに黄河・渭水を遡上して長安へ侵攻すると見せて陸路から侵攻し、長安も攻め落とした。
劉裕の建康帰還後は関中を守備するが、同僚の沈田子と対立し殺害された。

朱齢石(伯児)

生年登場没年死因
379418不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9180837159遠矢勇将長駆動転奮戦連弩鯨波鼓舞駆逐雁行強化王道

【シュレイセキ(ハクジ)】
東晋、劉裕麾下の武将。
はじめ桓脩の参軍となるが、京口で起兵した劉裕の参軍となった。
桓玄の征討では桓氏への恩義を訴え、許されて軍の後方に配置されている。
盧循の乱や劉毅討伐でも功績を挙げ、後蜀討伐の元帥として出征。
彭模の北城を精兵で攻め落とし、反転して南城も潰し、この間に別軍で牛脾城も陥落させた。
この勢いで巴西を降し、成都に入城して後蜀を平定した。
劉裕の北伐では建康に残って劉穆之を補佐する。
赫連勃勃の侵攻を受けると関中へ派遣され、
王敬先と曹公塁を守るも水道を絶たれ、捕らえられ殺害された。

※特技は刀子が百擲百中という記述が宋書にあるため射手も候補。

檀道済

生年登場没年死因
436不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9589882577脱兎掃討督将泰然封殺百戦錬磨斉射鯨波足止駆逐兵站改革割拠

【ダンドウセイ】
東晋末宋初の将。
東晋を滅ぼし皇帝を僭称した桓玄討伐のため、劉裕に従い決起。
北伐にも参戦し、後秦を滅ぼした。
宋の建国者の劉裕の死去後、少帝を廃して文帝を擁立し、政権を掌握し北伐を実行したが、兵糧不足で撤退。
後に司空となるが、後難を怖れた文帝に殺害された。
この時、文帝の目の前で頭巾を床に叩きつけ、
「自分を殺すことは万里の長城を壊すことに等しい」と叫んだという。
その報を受けた北魏は、宋への侵攻を開始し文帝は後悔したという。
後世、その見事な撤退策は、「三十六計逃げるに如かず」の語源となった。

王懿(仲徳)

生年登場没年死因
367?383438自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9468647579

前秦・東晋・宋の武将。太原郡祁県の人。王苗の次男。兄は王叡。王允の弟・王懋の七世の孫。
王叡・王懿兄弟は司馬叡(司馬睿)・司馬懿の諱を犯した名で、これは王苗が晋打倒を願った命名であるという。
383年、前秦が淝水の戦いで大敗すると、慕容垂は独立して後燕を建国した。王懿兄弟は打倒慕容垂の義兵を挙げたが敗れ、東晋に亡命した。
以降、兄弟は司馬睿・司馬懿の諱を憚って、もっぱら字を名乗った。同族の王愉を頼ったが冷遇され、桓玄の幕下に入った。
桓玄が皇帝を簒奪すると、王叡は桓玄打倒を企てた。王懿は秘密が漏れることを忠告したが、案の定発覚して王叡は殺され、王懿は劉裕を頼った。
劉裕の南燕攻撃の先鋒となり、20あまりの合戦に勝利して南燕平定に貢献した。410年、盧循の反乱軍が建康に迫ったが、王懿は遷都論を退け、盧循軍を敗走させた。
劉裕の武将で功績は筆頭に挙げられ、416年の北伐では、檀道済・王鎮悪、劉遵考・沈林子、朱超石・胡藩の諸将はみな王懿の統率下にあった。
宋が建国されると冀州刺史となり、徐州刺史、安北将軍を歴任した。430年の北伐で、北魏に勝利して司州・兗州を平定した。
しかし10月の北魏の反撃で、洛陽と虎牢関を失い撤退した。一度免官となるが、のちに鎮北大将軍にまで昇進し、死去した。

裴松之(世期)

生年登場没年死因
372391451自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3013607369史官

【ハイショウシ(セイキ)】
東晋~南朝宋(劉宋)の政治家、歴史家。裴珪の子で裴徽の六世の孫。
東晋の時代にて、劉裕の北伐に従軍するとその才能を認められ、首都・建康に栄転し世子洗馬に任じられる。
しかし、劉裕の簒奪の企てには消極的であったようで、零陵内史として外地に出されている。
劉宋が成立すると、文帝・劉義隆の代になって有力者に地方を巡回させたが、その中に裴松之の名が見える。
以降は司州・冀州大中正など様々な官職を歴任し、文帝の命を受けて正史『三国志』の注釈を書いた。
外地に出て永嘉太守となった時も治績を挙げ、思いやりのある統治で住民に評価された。
三国志の注釈をつけるに当たり、資料の信憑性は問わずに記載するスタンスを取った他に私見も多いものの、
(信憑性の低い資料から採った記述にはその旨を記載している)
陳寿が立場上記すことの出来なかったこと(例:曹髦の死についてなど)についても忖度のない記述をしている。
また、晋の歴史書『晋紀』を著し、何承天が未完成のまま死去した『國史』(宋の歴史)の続きも編纂することになったが、手を付ける前に死去した。

柳元景(孝仁)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8984656874

【リュウゲンケイ(コウジン)】
劉宋の武将。
沈慶之の蛮討伐で、寡兵ながらも出撃し蛮族の退路を断って功績を挙げた。
北伐の西路軍を統率して北魏を攻め、弘農、潼関を制圧し、攻城兵器を作り決戦に備える。
陝西で北魏軍を度々打ち破るも、東路では王玄謨が北魏に敗れて蕭斌が虎牢関から撤退し、逆に北魏に侵攻されたために撤退した。
劉劭が文帝を殺害するとこれを唆した蕭斌を殺して乱の平定に貢献し、その後も孝武帝の元で頻発する反乱鎮圧で軍功を重ねた。
前廃帝の代にその暴虐な治世を憂えて廃立を計画するが、沈慶之が前廃帝に訴えたため殺害された。

薛安都(休達)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
58997342

【セツアント(キュウタツ)】
南北朝の武将。北魏、劉宋、再び北魏に仕えた。
非常に勇猛で騎射に優れていたが、親族が北魏に反乱したために罪を恐れて劉宋へ出奔した。
柳元景の麾下で北伐に従軍し、弘農に駐屯する。
潼関付近での戦いでは北魏軍の挑発に激怒し、鎧兜を脱いで単騎矛を奮って勇戦して敵を突き崩し、
戦線が膠着する度に単騎で突撃すること四度に及び、北魏軍を潰走させた。
魯爽の反乱では、単騎で敵軍に突入して魯爽の首を斬って帰還する大功を立てた。
明帝が立つと、明帝に不満を持った劉子勲に従うが劉子勲が敗れたために、北魏に再度出奔した。

※魯爽の反乱では自ら魯爽を刺し殺し、関羽に比せられた猛将である。項羽や尉遅恭等に並んで中華最強の猛将に挙げられることも多い。

劉義慶

生年登場没年死因
403415444自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6228667874規律学者輿望太学4礼教

【リュウギケイ】
劉宋の皇族。劉裕の弟劉道憐の次男で、叔父劉道規の家を継いだ。劉裕から「これは我が家の豊城である」と才能を愛され、
劉裕の北伐に随行し劉宋成立後は臨川王に封じられ、侍中、中書令、荊州刺史、江州刺史、南兗州刺史などの役職を歴任、
特に荊州の8年間の統治は安定をみた。文学を愛好し文学の士を招集し、『世説新語』『集林』『幽明録』などを編纂、
とりわけ『世説新語』は後漢から魏晋南北朝の著名人の逸話を集めた小説集として梁代の劉孝標の注と併せ広く人口に膾炙した。
444年(元嘉21年)42歳で病死。

※ 『世説新語』は三国志の有名人たちの逸話も多く収録されている。
  小説集なので史実とは言い難いが、三国志演義など後世の作品に採用されているものも少なくない。劉孝標の注では、逸話の出典などが補われている。

司馬元瑜

生年登場没年死因
448自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
55333139

【シバゲンユ】
宋の零陵王2代。河内郡温県の人。晋の祭祀を受け継いだ。
劉裕が零陵王に封じた司馬徳文(東晋の恭帝)を殺した後、後継に擁立された。
当初、席次は陳留王・曹氏(魏皇帝の後継)の下とされたが、荀伯子の上表で、零陵王の席次は陳留王の上に改められた。

范曄(蔚宗)

生年登場没年死因
398445不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1222606539詩想史官小心軽率太学3名利

【ハンヨウ(ウツソウ)】
劉宋の政治家・歴史家。名門・順陽范氏出身で范泰の庶子。劉宋が成立すると劉裕の四男・劉義康付きとなるが、
劉義康の怒りを買い宣城太守に左遷される。左遷先でそれまでの史家達が編纂した後漢の歴史を整理し編纂した『後漢書』は
後世二十四史に加えられるなど高く評価された。のち許されて諸官職を歴任するが、孔熙先に誘われて文帝(劉義隆)を廃し劉義康を擁立する謀議に加担し、
445年(元嘉22年)発覚して本人をはじめ一族が処刑された。享年48。他の著作に『双鶴詩序』『樂游應詔詩』などがある。
なお、『後漢書』は「志」が未完であるため、梁の劉昭が司馬彪『続漢書』の「志」部分を代わりに付けた。現行の『後漢書』もそれに倣っている。

※ 最近新版が出た吉川忠夫『侯景の乱始末記 南朝貴族社会の命運』に、「史家范曄の謀反」が追加収録された。
  范曄の生涯特に謀反に加担し処刑されるまでの様子が克明に描かれている。

劉楚玉

生年登場没年死因
446?466不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
53372976傾国浪費悪名名利

【リュウソギョク】
宋の山陰公主。孝武帝(劉駿)の長女。母は王憲嫄。
皇族で一番の美人と評判だった。何戢に嫁いだが、弟の前廃帝(劉子業)が即位すると、次のように不満をいった。
「私と陛下は男女の別はあれど、同じ父親から生まれたのに、陛下は後宮に万人の美女がおり、私はたった一人の夫しかいないのは不公平ではありませんか」。
前廃帝は納得し、劉楚玉のために30人の美しい情夫を用意した。尚書吏部郎・褚淵は絶世の美男子で、劉楚玉は自分のものにしようと、
10日間だけの約束でそばに仕えさせた。褚淵は既婚者であり、劉楚玉のあらゆる誘惑にも応じなかったので、ようやく諦めた。
劉楚玉は男遊びを楽しみ、夫の何戢と夜を共にするのは月に数日に過ぎなかった。
前廃帝が殺害されると、劉彧の意を受けた皇太后・路恵男の令で「淫乱をほしいままにした」として自害させられた。

斉(南斉)

蕭道成

生年登場没年死因
427482自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7678808280

【ショウドウセイ】
南斉初代皇帝。高帝。蕭承之の子。

蕭鸞(景栖)

生年登場没年死因
452498自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5147776043割拠

【ショウラン(ケイス)】
南斉第5代皇帝。明帝。高帝(蕭道成)の兄・蕭道生の次男。
幼くして両親を亡くし、蕭道成に我が子のように育てられた。
宋では厳格さで知られ、宣城太守,輔国将軍を歴任した。
南斉が成立すると郢州刺史となり、さらに侍中・驍騎将軍に昇進。
蕭昭業が即位すると、蕭子良と共に実権を握った。蕭子良の死後、蕭昭業を殺して
蕭昭文を擁立した。494年、蕭昭文を廃立して自ら皇帝となり、蕭昭文を殺した。
明帝は政治家として有能であり、『周礼』に基づく儀礼整備を行っている。
一方で猜疑心が強く、我が子の脅威となる皇族を次々に殺した。かつて蕭昭業に疑われた時、
自分を庇った鄱陽王・蕭鏘も、即位後に殺した。武帝(蕭賾)の子を年上から順に殺し、ついには皆殺しにした。
明帝は仏教徒であり、殺害を決めると焼香して嗚咽するのが常だったので、家臣は誰かが殺されることを知ったという。
晩年、重体となると道教に没頭したり服装を全て紅くするなどの行動に出たが、まもなく死去した。

蕭宝巻(智蔵)

生年登場没年死因
483498501不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
11111軽率惰弱小心浪費動転

【ショウホウカン(チゾウ)】
南斉第6代皇帝。明帝(蕭鸞)の次男。
愚挙が多数記録される。
・父親の明帝の葬儀の際、家臣が激しく慟哭するあまり、帽子が脱げて禿頭を露出させたのを見るや大笑いする。
・先代より輔佐を命じられていた6人の重臣を殺害し、独裁体制を作ると奸臣を近づけ、民衆から収奪して享楽的な生活を送る。
・内向的な性格であり、重臣との接触を避け、多くの宮殿を造営するなどして国家財政を破綻させる。
・通行人を馬蹄で踏みつける奇行があり、妊婦もその対象となり、母子共に命を落とす事件を頻発させる。
最終的に簒奪され、死後諸侯に落とされ、前漢の海昏侯・劉賀の先例を元に、「愚かな東の侯」という意味で東昏侯の号を与えられた。

※「東昏」は名目上は陳留郡の県名。後に廃止されたが、蕭宝巻の号にするために「東昏」の名前に戻された。

曹粲

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
167344248

【ソウサン】
宋・南斉の陳留王8代。
473年、陳留王・曹銑の死去により後を継いだ。
479年、蕭道成に禅譲を勧める群臣の中に、曹粲も名を連ねた。
同年、南斉が成立すると、8月24日(ユリウス暦9月25日)、陳留王は廃止され、国を除かれた。
曹奐が西晋の陳留王となって以来、215年で曹氏の陳留王は終わりを告げた。

周盤龍

生年登場没年死因
415493自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8496585268

【シュウバンリュウ】
劉宋、南斉の武将。
蕭道成の麾下で軍功を重ねる。
北魏の寿春侵攻に対して勇戦し、数万を殺傷して牛馬や輜重を得た。
淮陽の角城が攻められると、息子の周奉叔が二百騎を率いて出撃し北魏軍に包囲される。
奉叔戦死の報を聞くと「周公来る!」と叫んで突撃した。
奉叔はまだ包囲の中で奮戦しており、息子と合流して敵陣を東西南北に駆け巡って大勝し、北魏に勇名を轟かせた。
後に角城の守将の張蒲が北魏に内通すると、王僧慶を救援に向かわせた。
一時罪を問われて免官になるも晩年まで国境を守り、老いて退職を許された後に病没した。

蕭懿(元達)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8680697279

【ショウイ(ゲンタツ)】
南斉の武将。梁の武帝蕭衍の兄。
晋陵太守として善政を敷き、要職を歴任する。
拓跋英(元英)の南伐に対して迎撃に失敗し南鄭を包囲されるものの、数十日に渡って城を固守し、
撤退する北魏軍から六つの城を奪還し、征虜将軍に任じられた。
暗君東昏侯の治世で頻発する反乱鎮定に携わり、
蕭衍から東昏侯を廃するよう助言されたが、これを無視して乱を平定した。
これらの功績を妬まれ、茹法珍ら宿臣に謀反の兆しありと讒言される。
逃亡を勧められるが、逃げずに死を賜った。
その後、東昏侯を廃した蕭衍により、丞相、長沙郡王が追贈された。

蕭衍(叔達)

生年登場没年死因
464549不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8575799184任才名声文化教化浪費経世済民王道

別案 ※治世前期Ver.

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8578909598任才名声文化教化仁政経世済民王道

※治世後期Ver.

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4532673286教化文化消沈優柔浪費経世済民王道

【ショウエン(シュクタツ)】
梁の高祖武帝。
南斉の武将として、北魏の南下を淮河や湖北で度々防いだ。
東昏侯蕭宝巻の暴政に対して蕭宝融(後の和帝)を擁して挙兵し、建康を攻略した。
それまでの皇帝の行いが酷すぎたため、「皇族を5人(蕭宝巻含む)しか殺さなかった」と称賛されたという。
その翌年に和帝の禅譲を受け、梁を建国する。
蕭宝融をすぐに殺したが、それでも南朝の禅譲劇では比較的穏当とされた。
治世前半は倹約を旨とし、沈約や范雲を重用して政治改革を行い、南朝の繁栄期を招来した。
しかし、沈約らが没すると仏教に耽溺し、吝嗇を示すようになった。
東魏に反乱した侯景を迎え入れるも、侯景の乱によって建康が陥落、幽閉され餓死した。
博識で文武に優れる多才な人物で、治世後半に衰えを見せたものの南朝第一の名君と評価されている。

韋叡(懐文)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9326948178火神堅守一心地利寡欲神火計斉射混乱鼓舞駆逐火計研究王道

【イエイ(カイブン)】
南朝の将で、劉宋・南斉・梁に仕えた。
蕭衍の軍師として数々の献策を行い、梁の建国に尽力した。
その後、北魏の領土へ侵攻し、合肥を水攻めにして陥落させる。
中山王元英と楊大眼?率いる北魏軍が鍾離を包囲した際には援軍として駆けつけ、
淮水で水軍を用いて北魏軍の架けた橋を火攻で焼き払い、北魏軍に大勝を収めて鍾離を救った。
その後も北魏の侵攻を食い止め、北魏の人々から「韋虎」の異名で恐れられた。
馬に乗れなかったため、戦場では儒学者の風体で輿に乗り、竹杖を用いて軍を指揮している。

曹景宗(子震)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8493511941遠矢豪傑水戦胆力強欲妙才連箭奮戦大喝駆逐強襲鋒矢強化名利

【ソウケイソウ(シシン)】
宋、斉、梁の武将。
騎射に秀で、二十歳前の時には数百の蛮人に包囲された際には、毎箭必殺の腕前で蛮人を逃散させた。
馬圏の包囲戦では、援軍に来た中山王元英の四万の軍を二千の伏兵をもって撃ち破る。
蕭衍が起兵するとこれに従い、先鋒として郢城を落とし、李居士、王国珍の軍を破る。
鍾離の戦いでは韋叡と援軍に向かい、南岸に楊大眼?の攻撃を退けつつ趙草城を築城。
浮橋に火攻めを敢行し、総攻撃を行って北魏軍を徹底的に打ち破った。
豪放な性格で酒と女を好み、部下の略奪を禁じなかったことから民からの評判は悪かった。

蘭欽(休明)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9386748275神機求心堅牢能吏八門金鎖奮戦牽制駆逐強襲

【ランキン(キュウメイ)】
梁の武将。
梁の雲麾将軍・冀州刺史の蘭子雲の子として生まれた。幼くして決断が早く、身軽さでは常人にすぐれていた。
北魏との戦争でも連戦連勝。太守を任されば仁政を施した。民衆は石碑を建てて彼の功徳を称えた。
散騎常侍、平南将軍、広州刺史とされるも、前任刺史の南安候に妬まれて毒殺された。
陳慶之とともに廉頗、李牧、衛青、霍去病らに匹敵する名将と称えられる。

陳慶之(子雲)

生年登場没年死因
484539自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9446917980神機疾走勇将再起徴税兵貴神速急襲撹乱鼓舞鎮静鋒矢強化王道

(別案)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
966918082神威疾走機略胆力農政白馬義従機知奇策急襲混乱鎮静鋒矢強化王道
9620948290神機疾走勇将再起徴税兵貴神速急襲撹乱鼓舞鎮静鋒矢強化王道

【チンケイシ(シウン)】
南北朝時代、梁の将軍。
梁の武帝に建国前から仕えて信任厚く、若くして将軍に任じられて、南征を目論む北魏と対決した。
北魏の政局が乱れ、皇族である北海王・元顥が梁に亡命してくると、北海王を洛陽まで護衛するように武帝より命じられる。
率いる兵士はわずか7千。ここから後世に語り継がれる快進撃が始まる。
北魏の迎撃軍7万を1日で撃破したのを皮切りに、47回に及ぶ戦闘に全勝、32の城を落として、ついに洛陽を陥落してしまった。
その采配は「将略有り、戦えば勝ち攻めれば取る」と称えられている。
しかし元顥は酒色に溺れ、また南朝の臣(ただし元顥の官職も受けていたので、陳慶之は形式上、元顥と梁の両方に属していた)である
陳慶之を警戒して遠ざけるようになり、梁本国への増援要請も却下した。
果たして、北魏の爾朱栄の反撃を受けて元顥は戦死したが、陳慶之は僧侶に変装して脱出に成功した。
梁は陳慶之を右衛将軍・永興県侯に封じ、食邑1500戸を与えられた。
ずば抜けた軍才があったが、個人としては馬術も武芸も不得手だったという。

親愛武将:蕭衍

侯景(万景)

生年登場没年死因
503552不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8884781047奸雄飛将崩壁功名粗暴倒山傾海奮戦突撃鯨波罵声侵略荒廃5我道

【コウケイ(マンケイ)】
南北朝末期の将。侯標の子。
北魏の爾朱栄軍で頭角を現し、北魏の東西分裂後、東魏の高歓に臣従するが、
高歓の死去後に東魏から造反し、梁の武帝に帰順した。
その後、東魏の慕容紹宗に敗れ、寿春?へ退くが、梁と東魏の間に和議成立が見えると再び梁へ叛乱。
梁宗室の蕭正徳を抱き込み十万の兵を集め、梁国内の不和に乗じ建康?を攻略し、
簡文帝を擁立して、相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事に就任。簡文帝は「将軍に宇宙号があるのか!?」と驚いたという。
更に簡文帝を弑殺、蕭正徳を除き、擁立した予章王蕭棟から禅譲を受け、漢の皇帝に即位したが、
王僧弁・陳霸先の義兵に敗れ、敗走途上で殺害された。

(別案)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9234881047奸雄飛将崩壁功名粗暴倒山傾海奮戦突撃鯨波罵声侵略荒廃5我道

智将バージョン。生まれつき脚が悪く武術を苦手としたが、智謀をもって活躍した、と記す史書があることに基づく。いろいろと残念な人物ではあるが軍事能力だけは極めて高く、代名詞の健康攻略の他、野戦での駆け引きでも慕容紹宗を上回る采配を見せている。

王偉

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2020928230機略策士頑健兵貴神速上兵伐謀2我道

【オウイ】
侯景の謀臣。優れた文才を見込まれて属官として登用。北朝からの離反と梁への亡命、叛乱に至るあらゆる局面で
的確な助言・献策を行い、建康攻略の立役者となる。
その異才は南朝人士の認めるところとなるも、侯景の乱の元凶として、また簡文帝暗殺などの凶行の首謀者として憎悪の的ともなった。
乱の平定後は捕らえられて惨殺。最後まで平然とした態度を崩さず気骨を示したという。
侯景を裏で操り、南朝を混乱させるために北魏側が送り込んだエージェントであったとする俗説もある。

羊侃(祖忻)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8285756273

【ヨウガン(ソキン)】
梁の武将。
『春秋左氏伝』と『孫子兵法』を好み、十余石の剛弓を引き、文武に優れていた。
当初は北魏に仕えて武功を立てるも、南帰を望む父の遺言もあり、河陰の変に乗じて挙兵。
兄の羊敦が守る据州を落とせず、于暉・高歓らの重囲を突破して辛くも梁に入った。
梁では北伐や反乱平定に従事し、冠軍まで昇進。
また、新造された槊の馬上試技で樹を断ち、武帝にその勇姿を賞賛された。
侯景の乱では建康の守将となり、侯景軍の火攻や侵入を防ぎ退け、
人質となった息子に城壁から弓を向けて降伏を拒否したが、防衛戦の最中に病没した。

補足:特技は他に、槍将(槊の試技)・鉄壁(建康防衛)・血路(入梁や北伐撤退)・楽奏(音楽に精通)なども候補

王僧弁(君才)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8683784355

【オウソウベン(クンサイ)】
梁の武将。
父に従って北魏から梁へ亡命し、湘東王蕭繹(後の元帝)に仕える。
河東王蕭誉を長沙で破り、その間に江陵を襲撃した岳陽王蕭詧も蕭繹に策を授けて退ける。
侯景の乱が起き侯景が西進してくると、巴陵で侯景軍を撃破する。
建康を目指して進軍し、陳霸先と盟約を結んで建康を陥落させ、侯景の乱を平定する。
しかし、建康入城の際に略奪や失火を起こし、民の失望を買っている。
蕭詧を庇護した西魏が江陵へ侵攻し元帝が殺害されると、
北斉の支援を受けて江陵を奪還しようとするが、陳霸先と対立して建康を襲撃され斬られた。

王琳(子珩)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8878806971

【オウリン(シコウ)】
梁、北斉の武将。
王僧弁の麾下で侯景の乱の平定に携わり、杜龕とともに戦功第一とされる。
王僧弁を廃した陳霸先に抵抗し、「野猪」と呼ばれる千隻の戦艦を率いて周文育、侯安都らに勝利する。
陳が建国されると、北斉にいた永嘉王蕭荘を梁の皇帝に擁立し陳に抗戦を続ける。
しかし、蕪湖で陳軍の火攻に失敗し大敗、根拠地の郢州も北周に攻撃されたため北斉に投じた。
呉明徹の北伐を受けて寿陽城を守備するが、支援を得られず陥落。
軍兵や民衆の人心を得ている姿を見た呉明徹にその影響力を恐れられ、処刑された。

沈約(休文)

生年登場没年死因
441513自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
615774839詩想史官智嚢小心覇道

【シンヤク(キュウブン)】
宋・斉・梁の政治家。呉興郡武康県の人。沈璞の子。
父を孝武帝(劉駿)に殺された。武官の家柄だったが、若くして学問を好み、文才があった。
斉の竟陵王・蕭子良の文学サロンで重きをなし、「竟陵の八友」に数えられた。
八友の作風は、詩の形式・韻律の美を追究したもので、元号から「永明体」と呼ばれた。
梁の武帝(蕭衍)とは文学仲間であり、政治面のブレーンにもなった。
武帝が斉の和帝(蕭宝融)の禅譲を受け即位すると、「(禅譲の)虚名よりも、現実の災いを防がなければなりません」
と蕭宝融を殺すよう進言し、実行された。晩年は武帝と疎遠になり、憂悶のうちに死んだ。
所轄の役人は、諡を「文」にすると決めたが、武帝は悪諡の「隠」に改めさせた。

正史『宋書』は、斉の武帝(蕭賾)の命令で沈約が編纂した。何承天・山謙之・蘇宝生・徐爰らの先行する『宋書』が
存在したため、本紀・列伝は1年ほどで完成したが、志の完成は10年以上かかり、梁の時代になっていた。
宋が滅亡して間も無い時期の編纂であるため、同時代史料が多く収録されている。特に、志は漢代までさかのぼって制度史を詳細に記録している。
反面、父を殺した孝武帝などの暴虐の記述は、私情で誇張や曲筆があるという批判もある。現存本は一部が欠落しており、『南史』などで補われている。

親愛武将:蕭子良
嫌悪武将:劉駿

陳霸先(興国)

生年登場没年死因
503559自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9389867893

【チンハセン(コウコク)】
陳の初代皇帝。武帝。
後漢の名臣陳寔(陳羣の祖父)の末裔と言われる。
体躯に恵まれ、明達果断で、兵書を読み武芸にも多く秀でていた。
交州で李賁が前李朝を立てると討伐に赴き、李賁や李天宝を撃ち破って功績を立てる。
侯景の乱が起きると南方より軍を還して江州を攻め取り、東進してきた王僧弁と合流し建康を陥落させる。
元帝が江陵?で殺害されると敬帝を擁立し、北斉と結んだ王僧弁を殺害。
杜龕ら王僧弁の残党を平定しつつ、北斉の侵攻も退け、陳朝を開いて皇帝に即位するがすぐに病逝した。
後代には史家から、恭倹かつ勤勉な為人の英傑で、南朝の賢帝と評価されている。

陳叔宝(元秀)

生年登場没年死因
553562604自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2737335詩想動転酒乱短慮優柔

※個性の組み合わせ不可能(短慮/優柔)

【チンシュクホウ(ゲンシュウ)】
陳の5代皇帝。後主。幼名は黄奴。隋による諡は煬公。宣帝(陳頊)の子。
江陵に生まれた。554年、西魏の侵攻で捕らえられ、人質として拉致された。
562年帰国し、569年、皇太子に立てられた。
582年、宣帝が崩御すると、異母弟の始興王・陳叔陵は手ずから陳叔宝を殺そうとしたが、命からがら逃げ出した。
叔陵の謀反は蕭摩訶によって鎮圧され、陳叔宝は即位することができた(一説には、陳叔宝が挑発して謀反を煽ったとも)。
即位後は国政を顧みず、もっぱら遊興と文学にふけった。後宮の美女を詠んだ「玉樹後庭花」は名作とされるものの、
後世「亡国の歌」と呼ばれることになる。
588年、隋の文帝(楊堅)が天下統一の軍を起こしても、将兵に至るまで酒宴で酔い潰れていたのですぐには手を打てなかった。
589年、隋が首都・建康に迫ると、降伏して隋軍を迎えるよう家臣に進言されても従わず、
愛妾の張麗華・孔貴人と共に井戸に逃げ込んだが、隋軍に発見され洛陽に連行された。
南北朝時代、亡国の皇帝は殺されるのが常だったが、あまりの情けなさに文帝も安心したのか、身辺に侍らせ余生を送った。
隋の煬帝(楊広)の時に死去し、大将軍を追贈され、煬公と諡された。「煬」は「非礼で民衆を遠ざけた」など最低の意味の諡だが、
皮肉にも煬帝も、唐によって同じ諡を付けられることになる。

陳淵(承源)

生年登場没年死因
575?583自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6046696868

【チンエン(ショウゲン)】
陳の皇太子。陳叔宝の四男。母は張麗華。
幼少にして聡明で志操があり、威厳を持っていた。また、感情を露わにしなかった。
張麗華は後主に寵愛されたことから、陳淵もまた寵愛を受けた。
最初は長兄の陳胤が皇太子となったが、588年、廃立され陳淵が皇太子に立てられ、張麗華も皇后となった。
589年、隋が首都・建康に迫ると、後主は宮殿から逃げ出した。
陳淵は代わりに隋軍を出迎え、「遠路はるばる、ご苦労であった」と労った。隋の将兵は陳淵に敬意を持って接した。
隋の首都の大興(長安)に連行され、大業年間(605-618)、枹罕太守となった。
618年、唐が成立すると秘書丞となり、在官のまま死去した。

※『陳書』『南史』では、唐の李淵の避諱で「陳深」と表記。
枹罕は、隋末に挙兵した李軌に攻め落とされている。李軌に従わず、唐に帰順したという事だろうか。

呉明徹(通照)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8778705979

【ゴメイテツ(ツウショウ)】
陳の武将。
陳霸先と親交を結び、安南将軍に任じられる。
梁将王琳の征討軍に従軍するが大敗し、主将が捕縛されたため撤退の指揮を執り帰還した。
北斉の支援を受けた王琳が侵攻すると、湓城に夜襲を仕掛けるが失敗し敗走した。
華皎の反乱では、北周の援軍を撃ち破り勝利に乗じて後梁の河東を奪取した。
宣帝の代に、北斉の重臣粛清の混乱に乗じて北伐を行う。
寿陽?を落とし守将の盧潜を捕え、宿敵の王琳を殺害する。
数十城を抜き淮南を陳の支配下に置いた。
北斉を滅ぼした北周への北伐を行うが王軌に敗れ、虜囚となり長安で没した。

蕭摩訶(元胤)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7997542468
8699552173

【ショウマカ(ゲンイン)】
梁、陳、隋の武将。
侯景の反乱に際して少年の身ながら陳霸先率いる梁軍と戦い、
武勇が認められて陳霸先麾下の侯安都に従った。
鍾山の戦いで侯安都が北斉軍に包囲されると、単騎で突撃して救出する。
呉明徹の北伐に従い、西域から来た北斉の援軍を打ち破り、関羽?張飛?に比せられた。
その後、始興王の反乱を鎮めて車騎大将軍に任じられる。
隋の侵攻では、後主に無謀な出撃を命じられ賀若弼の捕虜となる。
首に刃を当てられても屈さなかったため、縄を解かれ隋の開府儀同三司となった。
煬帝の即位に際して楊諒の反乱に従い、殺害された。

周羅睺(公布)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8590634978

【シュウラコウ(コウフ)】
陳、隋の武将。
呉明徹の北伐に従い、江陽の戦いでは流矢で左目を負傷する。
宿預で呉明徹が包囲されると騎馬を突進させ救出し、蕭摩訶の支援を受けて大勝した。
北周への北伐では、落馬した蕭摩訶を救出し、「勇は三軍に冠たり」と勇名を馳せた。
隋の南征では巴峡縁江の都督として秦王楊俊と長江で対峙し、建康?陥落まで渡河させなかった。
隋に投降した後は、上儀同三司となる。
文帝の高句麗遠征で水軍総管となるが暴風に阻まれ撤退した。
突厥征伐や楊諒の乱の平定で上大将軍まで上るが、楊諒の残党との交戦中に流矢に当たって戦死した。

※PC版では「睺」の字の代わりに「侯」を当てる。