第一部.あとがき

Last-modified: 2007-07-16 (月) 07:33:49

第一部.あとがき

お疲れさま。とりあえずここまでで、とは何なのか、そしてはどのように振舞うのかについて説明させてもらった。がいやおうなしに存在すること、はたった一つしかないこと、はただその本性に忠実に存在し活動すること、は(自身も含めて)あらゆるものの自由な原因であること、そしてあらゆるものごとがの中にあること、どんなものごともに依存していること、どんなものごともなしでは存在することもできないし、抜きのものごとというものを想像することすらできないこと、そして、どんなものごともあらかじめの中で決定済みで、その通りにしか存在できないしその通りにしか活動できないこと、しかもそれは自由きままにものごとに指図するからじゃなくて、が無限のパワーを持っているから、でなかったらそうすることがの本性だからだ、ということはあらかた説明し終った。それから機会あるごとに、みんながについて勝手に思い込んでいた偏見をできるだけ取り除いて、ぼくが説明したりそれをまとめるのに邪魔にならないようにしたつもりだ。でもきっと、みんなはまだまだ少なからず勘違いしているところがあると思うし、そのせいで、ぼくが一つ一つ積み重ねて説明してきた定理を理解するのにきっと大きなさまたげになっていた(なっている)ことだろうと思う。だから、こういう勘違いをあえて考え直してみるのも、きっと無駄にはならないんじゃないかな。
こういうすべての偏見が、みんなが抱いているどんな考え方から飛び出してくるのかこっそり教えてあげる。それはね、「あらゆるものごとの活動を、まるで人間の行動であるかのように見立ててしまう」ってことなんだ。ずばり、「自然にあるものごとの活動には、きっと何らかの(隠された)目的があるはずだ」って知らず知らずのうちに思い込んでいることなんだ。この思い込みはすっかりみんなにしみついてしまっているし、だからこそ、の行動にも何か目的があるはずだ、とうかつにも思い込んでしまったんだ(は人間を喜ばそうと思っていろんなものを作ってくれたんだ→だから人間はをおがむんだ、っていうのが典型的)。とりあえず、こういう偏見がいったいどうして広く信用を勝ち取ってしまったのか、そいつをまず考えてみよう。次に、どうしてみんなみんな一人残らずこんな偏見をあっさり信じてしまうのか、それも考えてみよう。それから、この偏見がいかにウソで塗り固められているかを指摘してみよう。最後に、この偏見があるせいで、おんなじものを見ているにもかかわらず、それが「善いものに見えたり悪いものに見えたり」「正しく見えたり間違って見えたり」「ほめてるように見えたりこきおろしているように見えたり」「秩序立って見えたり混乱して見えたり」「美しく見えたり醜く見えたり」してしまうのはなぜなのか、それを何とかわかりやすく示してみよう。
...でも、本当はこのページは、そういうこと(人間の心が引き起こしてしまう勘違い)について考える場所じゃないんだ。それはもっと後のページでちゃんと話すから。今はとりあえず、「人間は生まれた時には、何一つものごとの原因をわかっていない」「人間は、自分にとって都合のいいものだけを求めようとする」「人間は、自分が何を欲しがっているのか、そのことぐらいはわかっている」この3つは、どんな人でも認めないわけにはいかないと思うから、これを出発点にさせてもらうよ。簡単で悪いけど。じゃあ始めようか。
まず、人間は、自分のことを自由だと思っている。どんな風に自由だと思っているかというと、「自分が何をしたいと思うか」「自分が何が欲しいと思うか」、こういうことを自分で勝手に決められると思い込んでいる(笑)。そのくせ、自分がなぜそれをしたがるのか、なぜそれを欲しがるのか、その原因については何一つ知らないまんまだし、どうして自分がそれを欲しがるのか、そのことを考えてみようとも思わない。次に人間は、自分が欲しいもの、自分にとって都合がいいものを手に入れるためだけに行動する。だから、ものごとの(手っ取り早く目に付く)最終的な原因には興味を持って、それがわかれば満足してしまうけれど、そこからもっともっと先の別の原因にさかのぼって考えようとはしない。そもそもそうする理由もないんだし。
もし、珍しくもこういう人間がものごとの原因について考えていて、(なかなか目に付かない)外側にある別の原因というものについに気が付かないままだとすると、いやでも自分自身の中から勝手な原因を捜し出そうとしてしまうだろう(ほかに目に止まるものがないんだから)。そして、自分が抱いていた目的(下心)が、ものごとがなぜそうなってしまったのかという原因だったんだろうと、これまた勝手に決めつけるようになってしまうだろう。「自分がこういう目的を持っていたから」「自分の目的が邪(よこしま)だったから」「自分の目的は尊いのだから」→「だからこういう結果になったのだ」って具合に、一見反省に見えてちっとも反省じゃないやり方でね。そして、この人たちはその考え方を他人にも、あらゆるものごとにも当てはめて考えるようになってしまうだろう。自分がそうなんだから、「他人も何らかの目的を持って行動していて、それがそのひとの回りに起こるものごとの原因になっているんだ」「自然も何らかの意図を隠し持っていて、それが自分たちの身の回りに起こる原因となっているんだ」という具合にね。
それだけじゃない。この人たちは自分の中(身体)にも自分の外(他人や自然)にも、自分に都合よく使える「手段」、自分が欲しいものを見つけ出すのに役に立つ「手段」ばかりが目に付くようになる。たとえば「見るための眼球」「噛むための歯」「(人間が)収穫するための植物や動物」「(人間のために)光をよこしてくれる太陽」「(人間のために)魚を育ててくれる海」という具合に。しまいには、自然にあるありとあらゆるものが、自分が便利に利用できる「手段」にしか見えなくなってしまい、とうとう「こういう自然の恵みは、いくらなんでも人間には作れやしない。きっと自分たち人間にとって便利になるようにどこかで誰かが用意しておいてくれたに違いない」とぬけぬけと考えるようになってしまったんだ。をディズニーランドのスタッフとでも勘違いしてんじゃないの(笑)?
そうやってものごとが「手段」としか見えなくなってしまったら、ものごとが(自分たちとは無関係に)ひとりでにできあがるなんて夢にも思わなくなる。代わりに、自分たちのために誰かが用意してくれた(とすっかり思い込んでいる)「手段」をものさしにして何もかも判断するようになるんだ。そしてついに人間は、宇宙を統一する支配者(たち)を妄想し、それが人間に自由を与え、わざわざ人間のためにいろいろな恵みを用意して人間が便利に使えるようにしてくれたんだと考えるようになった。それからその支配者がどういう性格の人物なのかということをあれこれ考え(何一つ手がかりはないっていうのに(笑))、とりあえず目に付く人間自身の性格から勝手に支配者の性格を推し量って、「は人間のためにあらゆるものを用意してくださったのだ」「その理由はきっと、は人間を従わせたいからだ、人間から最高の感謝と尊敬を受けたいからだ」って、人間が飼い犬に餌をやる程度の心情を勝手にに押しつけていたんだ。
そこから先はもう誰も止められない。どの人間もそれぞれ、そいつのしょーもない下心にふさわしいやり方で、てんでばらばらにを崇めたて拝みまくり、自分だけがの恵みを少しでも他人より多くもらえるように、がそいつの手前勝手な欲望を優先的に満たしてくれるように、いくら与えても飽きることを知らないそいつの貪欲さをが満足させてくれるように、それだけを願うようになってしまったんだ。そしてこの勝手な思い込みから、ありとあらゆる迷信も生まれた。この思い込み(とそこからくる迷信)は人間の心に深ーく根付いていて、それが動機となって、人間は異常な熱心さでものごとの最終原因を(になすりつけようとして)探ろうとし、それを説教して回るようになったんだ。でもこの説教師たちがいくら「自然には(人間にとって)無駄がない」とか「すべてのものは人間が使うために(によって)作られたのである」なんてムキになって主張しても、それじゃかえって「も人間も、そして自然も狂っているとしか思えない」ってことを裏付けてしまった(笑)も同然なんじゃないかな。ご苦労様だと思うよ。
だって、この事実をどう説明する?自然は必ずしも都合よく人間に恵みだけを与えてはくれない、むしろ暴風雨や大地震、大火事、大洪水のようなものすごい災いももたらしていることを。そうすると説教師たちはまたああ言えばこう言うで、「がお怒りなのです」「誰かがに背くようなことをしたからなのです」「誰かがお祈りの時にへまをしたからなのです」と主張する。信心深い人だろうとカミやホトケを信じない不心得者だろうと、結局みんな同じように災難に遭うってことは子供でもわかることなのにね。でもその程度のことじゃ、説教師たちは自分たちに深く食い込んだ偏見を捨て去ろうとはしない。誰だって、偏見をきれいさっぱり捨て去って新たに考え直すのは難しいんだ。それよりも、「私たちはがなぜそのような気まぐれを起こすのか、それについては何も知らされないのです」ってこんな時だけこの矛盾を無知のせいにして、どうして自分たちがそれほど無知なのか、そのことについてはほったらかしにする方がぜんぜん楽ちんだからね。
そしてたいていこういう結論になる:「の判断は、人間の判断をはるかに上回っている。だから人間にはなぜがそんな災いを好んで引き起こすのか、その理由は知りようがない」ってね。この教えは見かけ以上に巧妙にできていて、この教えに従っている限り、人間はものごとの真実を永遠に知ることができなくなってしまう(だから矛盾に気付かれなくてすむ)んだ。さいわい、数学という素晴らしい学問があり、そこでは図形の性質やその本質だけを追求して、こういう教えなんかと無関係に真実を体系づけてくれたからよかったようなものの、それがなかったらと思うとゾッとする。もちろん数学以外にも、こういう偏見におちいりがちなぼくたちの心を正しい知識へとみちびいてくれるものはあるんだけど、わざわざここで数え上げる必要もないよね。
これで、約束通り最初の点については説明させてもらった。自然()には「目的」も「狙い」も「下心」も「陰謀」もありはしない、一見すべてをうまく説明できそうなこの「(隠れた)自然の目的」だとか「のおぼしめし」なんてものは人間が勝手に作り出した絵空事なんだってこと。この話しはこれで十分だと思う。そしてここまで話せば、こうした偏見は何が原因なのか、この偏見が何にもとづいているのか(二番目の約束だよ)ってことも、ついでにみんなにもよくわかっただろうと思う。第一部.定理16第一部.定理32が正しいとすると?その1でもハッキリ説明したし、そもそもこの章のすべての定理で「自然(宇宙)にある、あらゆるものごとは(偶然じゃなく)必然性があって生まれてしまったもので、しかもこれ以上ないくらい完璧だ」ということを繰り返し説明したから、きっとわかるはずなんだ。
とはいうものの、ぼくはこの説教師たちが唱えるような、が目的を持って行動しているという教えを完全に叩きつぶしておきたいから、もう2つ3つダメ押しをしておこうと思う。
この教えは、本当は原因であるはずのことを「結果」だと、結果であるはずのことを「原因」だと勘違いしてしまった。そのせいで、本来最初にくるはずのものを最後にくるものと取り違えてしまった。ついには最も完全で素晴らしいはずのもの(、自然、宇宙)を最も不完全にしてしまったんだ。最初の2つは説明不要だから略すけど、第一部.定理21第一部.定理22第一部.定理23でぼくが証明した通り、「から直接作り出されたもの(結果)は最高にカンペキだ」ってこと、そして「から間接的に、つまり複数の原因があって引き起こされる結果はから遠ざかるその分だけ不完全になる」ってことはもうわかりきったことだよね。でもこの教えによれば、から直接作り出されたものごとは単にの目的を達成するための手段でしかなくて、が間接的に作り出したもの(わざわざはそいつのためにものごとを直接作っておいたらしいよ)の方がより素晴らしいものだってことになってしまうんだ。がそんな回りくどいことをするかな?(だいたいから遠ざかるほどより完全になるんだったら、が一番不完全ってことになってしまうでしょ?)
だから、この教えの言う通りだとしたらはとんでもないできそこないになってしまう。それに、もしが何らかの目的を持って行動しているんだとしたら、には何か足りないものがあって、それを追い求めて行動しているってことになってしまうんだから。まあ確かに、ぼくの同業者(学者とか形而上学者)たちは、同じ対象(目的)であっても、「(自分がそれを持っていないから)欲しいと思う対象(object of want)」と「それと一つになりたいと思う対象(object of assimilation)」というふうに一応区別してはいるんだ(たぶん、は人間みたいにないものねだりで目的を追いかけるんじゃなくて、それと一体になりたいために目的を追求するんだと言いたいんだろう)けど、それでも、この人たちの言う通りだとしたら、がものごとを創造したのは、が創造したもののためではなく、自身のためなのだと言ったも同然になってしまう。自分のことしか考えないエゴ丸出しのじゃこの人たちにとって都合が悪くはないですか?
この人たちのやりかただと、宇宙が創造される以前には、そこ(そこは宇宙ですらないんだけどね)自身しかいないということになる。しかもそこでは、が働きかけることができる相手は自身しかいないことになるわけだ。暗黒の中に一人ぽつんと取り残された、何ともさみしいだよね。だから、この人たちも「には何か欠けているものがあるんじゃないか。何でも作れる力があるがいて、そのの回りに何もないから、だからはいろんなものを回りにおいておきたいから作り出したんじゃないか」ということはしぶしぶ認めないわけにはいかなかったようだ。ぼくが何も言わなくたって、この人たちの話の進め方に沿っていればどうしてもこういう結論になってしまうもんね。
他にもぜひ指摘しておきたいことがある。この教えを信じてやまない人たちは、自分たちが頭がいいところをみんなに見せつけようとして、とんでもない悪知恵を仕入れてきたんだ。この悪知恵を使って「ほら、ものごとのすべての原因はこれなのです。私たちはそれを知っているのです(どうです、驚きなさい)」ともっともらしいことをぬかすようになったし、いまだにそうし続けている。その悪知恵というのは、言ってしまえば「おまえがそれを知らないだけなのだ」「おまえがそれを知ることはできないのだ」という結論に相手を誘い込む、ただの挙げ足取りなんだ。何でもかんでも、最後にこれを言ってしまえば相手は反論しようがなくなってしまう。ホント下らない手法なんだけど、論理という素晴らしい武器を持っていない、持っていてもさびつかせているような相手には意外に通用してしまうんだ。ちょっとだけ難しい言葉で、帰謬法(あるいは背理法)という立派な手法があって、その手法ではいったん「あることが不可能であることをみちびき出す」という手順を踏む。この言い方にならえば、さっきの悪知恵は「帰無知(キムチ?)法」とでも呼べばいいかな。この人たちがこの帰無知法を振りかざしているということは、結局、他に自分たちの教えを正当化する方法がなかったんだろうと思うよ。
この人たちのやりかたを具体的に見せてあげよう。たとえば、屋根の上から石が落っこちて、運悪く下にいた男の頭に当たって死んでしまったとしよう。とたんにこの人たちは帰無知法を持ち出してくる。「下にいた人を殺すために、この石が落ちてきたのだ」「これは様の意志なのだ。そうでなければ、いろんな偶然が重なって石が落ちてくるようなことが起こるわけがない。」とね。「あのー、たまたま風が吹いていて、その下をたまたま通りかかっただけなんじゃないですか?」「ではなぜ風が吹いていたのだ?なぜその男はまさにそのときに下を通りかかったのだ?」「今日は海が荒れてますからねえ、おとといまでは静かだったんですけどね、そりゃ風も吹きますよ。それにそいつは友達から招かれて遊びに行くところだったんですよ。」「ではなぜ海が荒れたのだ?なぜその男は友達から招かれたのだ?」と、こんな調子でいつまでもいつまでも挙げ足取りを繰り返し、相手が「そんなの、わかんないっすよ!」と泣いて謝るまでやめないんだ。すかさずこの人たちは「それは様の意志なのです」「わたしたち人間にはその意志の崇高さはうかがい知ることはできないのです」と言って得意になる。そういうやりかたなんだ。
それだけじゃない。この人たちは人間のからだを解剖してみてものすごくびっくりする。「何て巧妙にできているんだろう、人間のからだは。」と。それはいいんだけど、この人たちには科学的な裏付けが何もないもんだから、「これは誰かがつくったに違いない」と思ったんだ。それも「時計やロボットを作るように機械工学的につくったんじゃなくて、きっと様が超自然的な力を発揮してつくってくれたに違いない」「その証拠に見ろ、いろんな臓器や筋肉がうまく組み合わされていて、調和して動いているではないか。ある器官がほかの器官を邪魔したり傷つけたりしていないではないか。」と結論を出してしまった。
それだけではすまなかった。あほうのようにこういう不思議な現象をただぼうっと見つめるのではなく、こういう一見奇跡にしか見えないことをきちんと研究し、その本当の理由や原因をきちんと探し出そうとする学者を、この人たちは「不信心な奴だ」「異教徒だ」とののしって、や自然を解釈する権利があると認められている権力者(法王だか皇帝だか)に「こいつはをないがしろにしています」と言いつけてしまう。この人たちにもうっすらとわかっていたんだろう。人々が自然に関する正しい知識を持ってしまうと、自分たちの地位が危ないということを。正しい知識を手に入れて、一見不思議に見える現象が実は不思議なものではなく、自然の法則に従った現象に過ぎないということがわかってしまうと、そういう奇跡(に見えるもの)を根拠にして自分たちを偉そうに見せているこの人たちにとっては、そりゃ大問題だろうね。わかるでしょ?この人たちは、みんなが無知のままでいて欲しいと願っている、とんでもない奴らなんだ。アメリカのどこぞの州でも、未だに「進化論を学校で教えてはならない」って決めているところがあったよね(笑)。逆だよ。知れば知るほどこの世は不思議なんだ。それもいい加減な雑学やオカルト知識ではなく、数学を手段として正しく知れば知るほど、逆にぼくが言っているのパワーを思い知ることになるんだ。そして、この世が「理解可能」であるってことがこの世で最も理解不能なこと、不思議なことなんだ(これはアインシュタインの言葉だ)。きりがないから、この話題についてはこれでおしまい。次に3つめの問題に話を進める。
この人たちは、が作ったものごとにはすべて何らかの目的があるはずだ、なんてうっかり思い込んでしまったからさあ大変。この世のいろんなものごとのうち、自分たちにとって都合よく使えるものだけが「よいものだ」「大事なものなのだ」と信じて疑わなくなってしまった。この人たちがお金を異常に大事にするのも、株や財テクみたいにお金をおもちゃにすることに夢中になるのもわかるよね。てっとり早く、しかも努力も精進もなしに自分たちを気持ちよく刺激してくれるものだけが素晴らしいものだと信じて疑わなくなるのも不思議じゃない。この人たちがセックスとドラッグとビデオ狂い以外に何の趣味もない、どうしょうもなくさみしい人になってしまうのもわかるよね。ものごとに(隠された)目的があるのだという思い込みを押し進めると、必ずこういう結末になる。こういうものしか生まれてこないんだ。ぼくスピノザが生きていたのは主に17世紀だけど、この思い込みはたぶん数百年たってもなくなっていないと思うよ。迷信から縁を切っても、この思い込みと縁が切れないと意味がないんだけどなあ。アメリカという国がいかに迷信深いかがよくわかるでしょ。
そして、この人たちは、ものごとの(隠された)目的という思い込みを正当化するために、「善」や「悪」だの、「秩序」と「混沌」だの、「暖かい」や「冷たい」だの、「美」や「醜(ブス)」だのといった抽象的な概念をこしらえて、それを使ってものごとの本質をかたっぱしから説明するはめになった。それから、「自分たちは自由を代表しています」という今一つ根拠不明な信念から、「賞賛」と「非難」、「罪」と「手柄」というような概念もこしらえるようになった。
今の後ろ半分については、「人間の正体」のところでじっくり説明するから省略させてもらって、前半分について少しばかり説明させてもらうよ。
この人たちは、自分たちの健康に役に立ち、への信仰に役に立つようなものを「善」つまり「(都合の)いいこと」と呼んでいる。逆に、健康や信仰の邪魔になるようなものを「悪」つまり「(都合の)わるいこと」と呼んでいる。で、この人たちはものごとの正体についての理解がまったく不足しているもんだから、どうやっても現象を正しく説明することができない。ものごとが生まれた後から、のろのろと「どうやってこれが生まれたのだろう」と想像することしかできないんだ。しかもこの人たちは見事に「(単に)想像すること」と「(本当に)理解すること」の区別もつかないもんだから、ものごとの中には何らかの秘密めいた秩序が隠されているに違いない、と裏付けもなしに確信している。そのわりには、ものごとどころか自分の正体もからっきしわかっていないんだよね。後できちんと説明するけど、「想像」するのにははっきりいって何の努力もいらないし、むしろいらぬ想像をしないでいることの方が難しいぐらいだ。でも「理解」はひとりでに、自動的には決して行なわれないんだ。必ず自分が積極的に「理解しようと」しないと、決して理解することなんかできやしないんだ。こんな単純なこともわかっていないんだ。確かに、理解するというのは楽なことじゃないし、ましてや他人に頼むわけにはいかないけど、理解することを避けて、勝手気ままな想像力だけで納得してしまうようなことは断じてあってはならない。
ここにある現象が発生したとしよう。その現象がたまたまとっても印象的で、想像力すらほとんど使わないでもぼくたちの感覚に楽々と残るようなものだとしよう。そういう現象は後から思い出すのに何の苦労もいらない。こういうのをこの人たちは「整っている」とか「秩序がある」なんて言っている。逆の現象、つまり後から思い出すのに苦労するような現象を指して、「整っていない」とか「混乱している」なんて言ったりする。そう、ぼくたちは「想像しにくい」「想像するのが面倒くさい」ものなんかより、やっぱり「想像しやすい」ものの方がどうしても好きなんだ。だから「整っていない」ものよりも「整った」ものを選んでしまう。でもここで注意して!その「整っている」だの「混乱している」だのという印象は、あくまでぼくたちのこころの作用の結果なんだ。いくら「整った」ものを好んで、「整っていない」ものを忌み嫌ったとしても、実際の自然が君たちの想像通りの形で整っているとは限らないからね。もちろん、自然にはどこかに美しい部分はあるだろうし、その一部を人間が理解することもできるだろう。でもそれはこっちが勝手に期待しているものとは全然違う、ものすごく複雑な、凄絶きわまる美しさであるかもしれないじゃない。ぼくたちが想像しようとしまいと、客観的にその美しい(というより少々単純すぎるような)「秩序」なんてものがあるんだと、つい思い込んでしまいがちなんだ。ご用心。
この人たちは「は秩序だってこの世をおつくりになった」「は無駄なものを何一つつくらなかった」と言う。こうやってついつい、に何か超能力(笑)みたいな、何もない所からハトを出すみたいな天地創造パワーがあるに違いないと決めつけてしまうんだ。あるいは、「はやさしい人だから(笑)、人間がきっといろんなものを想像したがるだろうということをあらかじめ予知して(笑)、人間の想像力にぴったりフィットさせてものごとを整然と、秩序だってつくってくれたのだ」なんて言ったりもする。こんな珍妙な考えを本気で信じられるんなら、この人たちはきっと、ちょこざいなアーティスト(笑)御用達の「感性」だの「想像力」だのがふっとんでしまうような無数の「真に感動的で、そして恐ろしい」自然現象に出くわして、自分が誇っている想像力とやらが、いかに頼りなくてちっぽけなものかということを思い知らされなくてすみそうだね、一生。平和だなあ(笑)。これについてはこれくらいにしとこうか。
さっきいろいろ書いた「善」だのなんだのっていう抽象的な言葉ってのは、結局この人たちにとっては単なる「想像」のバリエーション(化身)でしかなくて、この人たちの想像(っていうより「妄想」っていう方が近いかもね)をいろんな形で刺激する道具にしかなっていない。「娘」という字を見てオナニーするようなものか(爆)。でもこの人たちは、こういう「善」だの「平和」だの「平等」だのという抽象的な言葉をなぜかとても大事にしていて、ものごとには必ずこういう性質があって当然と考えるのが好きだ。まあ無理もない。この人たちは「この世にあるものはすべて人間様のためにつくられている」(だから早いもの勝ちだ、渡すものか)という考えにすっかり毒されてしまっているし、そとからの刺激に反応して、それに対して勝手に「善」や「悪」だの、「すこやか」や「ただれた」だの、性質でも何でもない性質をものごとの中に見てしまうんだから。この人たちなら、白い石と黒い石を見てそれを「善」と「悪」と呼ぶなんて朝飯前(笑)だし、しまいには「平和」という字を見ると直立不動になっちゃう(爆)。
ここでちょっとだけ抽象的な言葉について簡単に説明しておく。ある物体がぼくたちの眼球に映る動きが、広い意味で身体によい感じがすると、冷静に考えればただの動きにしか過ぎないものを「美しい」と呼ぶし、広い意味で身体のどこかにいやな感じをもよおすなら、それを「醜悪だ」とか「カッコ悪い」と呼んだりするようなもんだ(こういう回りくどい言い方をするのはぼくらの業界の習わしなんだ、ごめん)。こんなふうに、鼻から匂いを感知すると「いい匂いだ」とか「臭い」と感じ分けたり、舌で味わうものを「甘い」とか「苦い」と感じわけたり、「うまい」とか「まずい」を感じ分けたりする。触って感じるものには「固い」「柔らかい」、「ごつごつしている」「なめらかだ」と感じ分けたりする。特に、耳から入ってくる刺激は単なる「ノイズ(雑音)」や「音楽」、そして世にも美しい「ハーモニー」を感じ分ける。この中でも「ハーモニー」の魔力は聴く人をとろとろに狂わせてしまう力があって、それこそですら聴きほれてしまうだろうと信じられていたほどだ。しかめっ面した哲学者でもうっかり「このハーモニーは天上世界の運動が奏でたに違いない」と信じ込んでしまったぐらいだからね。なにぶん昔の人間なんで、分類がどことなく古くさいのは勘弁してね。
でも、こんなものは、たかだか「想像」のバリエーション(化身)でしかない。それが言いたかったんだけどね。だって冷静に考えれば、ノイズと音楽ってどこが違うの?人間がどう感じるかが違うだけじゃない。そりゃ音楽の好き嫌いが分かれるわけだ。
こうやって並べて見ると、誰もかれもが自分のオツムの程度に合わせてものごとを判断しているというか、自分の想像力のバリエーション(化身)にしかすぎないものを、ものごとの性質と取りちがえているってことがよくわかる。同じものを見てこれだけ食い違うんだったら、昔にあったようなぼくの同業者の大論争が巻き起こって、最後にはそろって何も信じられなくなって懐疑主義(笑)になってしまったのも無理はないね。ぼくたちの身体は、ものごとを同じように感じられることもあるけど、やっぱり食い違うことの方が全然多いよ。だからおなじものを見聞きしても、人によって「善なるものに見えたり」「悪に見えたり」、「整然として見えたり」「とっ散らかって見えたり」(部屋をそうじするしないで家の人とケンカしたことない人はたぶんいないでしょ)、「気持ちよく感じたり」「いやでいやでしょうがなかったり」(音楽の好き嫌いで誰かと言い争いした覚えがあるでしょう)しても不思議じゃない。ちょっと話が横にそれてしまったんでこのぐらいにしておこう。「十人十色」とか「知ってることならよくしゃべる」とか「味覚も違えばオツムも違う」みたいなことわざならいくらでもあるしね。こういうことわさだけ見ても、今書いた「誰でも自分のオツムの程度に合わせて判断し、理解しているつもりで想像に振り回されている」ってことはよくわかる。もし誰でもものごとを正しく理解できてあたりまえなら、何も理路整然と数学の証明みたいに説明できないとしても(みんながみんな数学が好きなわけじゃないからね)、少なくともぼくが説明していることが何なのかってことが誰でも楽勝で確信できるはずだし、そしたらぼくがこんなに手間ひまかけて説明しなくってもすむんだけどな(ちょっとだけ皮肉)。
もうみんなにもわかったと思うけど、そのへんに転がっている新興宗教だの健康法だのマルチ商法だの自己改造セミナーなんかの人たちが、「宇宙の意志」とか「何とかさえ食べれば健康になれる」とか「エル・カンターレ」だの「天行力」(爆)なんてもっともらしい概念を説教しているのは、たかだか自分のちっぽけな想像力のバリエーション(化身)を大声で説明しているだけで、何一つぼくたちに納得がいくようにものごとの本質を説明してくれていないんだ。この手の概念は、言ってみれば「理性の産物」から最も遠い「妄想の産物」とでも呼ぶしかないね。この手の人たちがぼくの書いたものを読んだら、それはそれはカンカンになって怒ることは間違いないと思うけど、この人たちが何を言ってこようとぼくは百発百中で論破してみせるよ。
ここで一つ恥さらしなことを白状すると、ぼくスピノザも14才のときに、「カバラ秘術」っていうオカルトを研究していたことがあるんだ。そのあまりのバカバカしさに気付くのに1年もかかってしまったんだけどね。ところで、この本ではただの一度も「秘」について語ってなんかいないんだよ。オカルト小僧(笑)だった経験から、「秘」を口にする人たちのインチキはもう身にしみて知っているからね。ぼくは単に、疑いようがないぐらい吟味されたことについて「言葉を決めて」「ルールを定めて」、それから「結論」を出しただけなんだ。
それからもう一度繰り返すけど、ぼくは決して宗教全体を馬鹿にしているんじゃない。ぼくがおちょくっているのは、耳触りのいいことばっかり吹聴して、そして自分たちだけが宇宙の秘を手に入れたと思い込んで、何でも自分の都合のいいように解釈して、はしゃいでいる人たちのことだ。ぼくがこれっぽっちも無論者でないことはもうわかったと思うんだけど(笑)、自分の儲けのためではなく、他人のために必死になって、様や仏様やご先祖様に真剣に祈る人の姿を誰がおちょくったり、あざ笑ったりできるだろうか?子供が病気になったときに、あらゆる手をつくして、それでも助かるかどうかわからない、その時に心から祈る母親の姿を見て、それでもそんなことが言えるだろうか。だいぶ前に、「祈りは人間のためにある」と書いたけど、自分のことを完全に忘れて、一心に他人のために祈る姿は、本当に、本当に大事だと思う。それと今の議論を一緒にして恥ずかしいとも思わないような、今の議論の形だけ猿マネして、他人のために真剣に祈れる人をあざ笑えるような奴らは、とっとと馬に蹴られて死んでしまえとすら思う。仏教だろうと道だろうと道教だろうと、イスラム教だろうとキリスト教だろうと、その他無数の土着宗教だろうと、ちゃんと考えられる人だったら、そして自分を捨てて人のために祈ることができる人であれば、ぼくの書いたものを読んで怒ったり悲しんだりすることは決してないと信じているよ。そして科学するこころをつねに忘れていない人たちも、きっとそうだろうと信じている。
もうわかると思うんだけど、ぼくは誰よりも(!)を信じている。いや、確信していると言ってもいい。そして自分の信仰も他人の信仰も大事にしているし、そして自分でも祈る。決して、決して、信仰をないがしろにしたことなんかない。ぼくがこの第一部でやりたかったのは、自分のへの信仰をけがすことなく、「には何の目的もなければ意志もない」ってことをきちんと説明し、「は人間様のために世界を作った」だの「宇宙の意志(笑)」だのを壊滅させることなんだ。これを読んでいる21世紀のみんなにとっては、「様」というのは時代遅れの概念になってしまっているかもしれない。だからといって、他人の信仰に「そんなのは宗教だ」というだけでケチをつけて許されるはずがない。破壊し、捨て去るべきなのは宗教じゃない。「は意地悪で、人間を面白半分にいじめて楽しんでいる(笑)」「はいい人(爆)で、人間のために何もかもお膳立てしてくれた」という大・大・大勘違いのほうなんだ。よくそんな幻覚(笑)を見られるもんだと思うよ(後で説明するから)。
もうみんなにだって、インチキ宗教とそうでないものの違いぐらいわかるでしょ?本当に皮肉なことに、インチキ宗教に入信していても、だまされたまんま正しく祈ることはできてしまうし、たとえ歴史のある立派な宗教に入信していても、一緒になって見事に勘違いし続けることができてしまうんだ。言っておくけど、「宗教」だけじゃないからね。よく落ちる洗剤を売ってる会社だろうとマルチだろうと、名の知れた大企業だろうと国家だろうと今にもつぶれそうな中小企業だろうと町内会だろうと学校だろうとサークルだろうと、この勘違いをしていればまったく同じことなんだよ。だから、インチキ宗教が起こした間抜けな犯罪を笑いながら、同時にお金をおもちゃにすることに夢中になっている人は、きっと自分で自分のことを笑える、すごく頭がいい人たちなんだね(笑)。
ぼくがこの本をわざと難しそうに書いたのは、別に自分が頭がいいところを見せびらかしたい(笑)からじゃないんだよね。ぼくはちっとも頭なんかよくないし、師匠デカルトもそんなことを言っていたけど、あれは謙遜で言ってるんじゃないよ。自分の理解の悪さ、のろくささを本気で悩んでいるのに誰も信じてくれないんだよね(笑)。最後の最後に説明するけど、一見難しそうに書いたのには、まったく違うねらいがあったんだ。どうも聞くところによると、大書記長デスマルクスはぼくの本を一生懸命読んでいたらしいんだけど、あんなふうに見事に勘違いされるとはぼくスピノザも思ってみなかった(笑)。この人はきっと、第一部だけを自分の都合のよいように読んだ(笑)んだな、きっと。ぼくが「必ずこうなる」って断定的な書き方をしたのは、まったく違う狙いがあってのことなのに、この人は自分の勘違いを正当化するために「必ずこうなる」を連発していたみたい(爆)。頼むから最後までちゃんと読みなって、猿マネなんかしないで。
それはともかく、この本を読んで怒り狂う人たちは、たとえばこう言ってぼくを問詰めようとするだろう。「では貴様に聞くが、貴様が言う通り、この世の何もかもがの最も完全な本質から生まれてきたというのであれば、何でこの世はこんなにでたらめで不完全なのだ?なんでこの世にすさまじい臭いを発するような汚物や、吐き気がするほど醜い人間や、混乱や戦争や犯罪や虐殺があるのだ?返答次第ではただでは済まさんぞ。」ってね。
ぼくはこう答える。「ものごとの完全さというのは、その天分と能力が100%発揮されるかどうかで判断するしかない。あなたの目に映るものがこころよいものだろうとつらいものだろうと、あなたにとって都合がよかろうと悪かろうと、ものごとの完全さには何も変化がない。汚物が汚物らしくあれば、あなたがどう思おうと、それは汚物として完全さを発揮しているのだ。何もしないのに突然、汚物が汚物でなくなってしまえば、その瞬間から、汚物から完全さが失われてしまう。喝(かつ)!」
「ぐぐぐ...(気をとり直して)ではもうひとつ聞こう。貴様は日頃から人間には理性が大事であると主張しているが、そんなに大事なものなら、なぜは最初から人間に理性だけを与えなかったのだ?なぜ嫉妬やおべっかや怒りや悲しみを人間に与えてしまったのか?返答次第ではただでは済まさんぞ。」
それならこう言うしかない。「がつくりだすものごとには、最高に素晴らしく完璧なものから、どうしょうもなく下らないものまで、すべてが含まれる。は、素晴らしい大天才から信じられないほどの大馬鹿野郎まで、最高の人格者から最低の人でなしまで、もれなく生み出したのだ。は、いいものからひどいものまで、あらゆる可能性を実現し、それをつくりだすための材料に一度も困らなかったのだ。もっと言えば、は、可能性のあるものごとは一つ残らず実現するが、可能性のないものを無理してつくったりすることなど決してないのだ。面白半分に遺伝子をいじくる人間とは違うのだ。腎臓が100個ある奇形人間がもしいるなら連れてくるがいい。理性は様のクリスマスプレゼントなんかじゃない。理性は人間が【勝ち取る】ものだ。甘ったれたことを言うんじゃない。喝あーつ!」とね。
でなかったら、第一部.定理16でぼくが説明したように、(人間の世界だろうとどこだろうと)は備えている無限の知性を駆使してあらゆる可能性を考えだし、の本質にセットされているあらゆる法則は、それをすべて実現してしまうほど巨大なパワーがあると言ってもいい。
以上でに関する偏見の話は終り。これを読んだみんなが、いきなり偏見をすっぱり忘れてくれるということはそうめったにあることじゃないと思うけど、今後ちょっと注意するだけで誰でも偏見と縁を切れるようになるはずだと思う。ぼやぼやしていられない。次に行こう。