第二部.定理12
人間の「こころ」をかたちづくっているのは思いなわけだけど、その思いの相手の身に起こったことについて、人間の「こころ」は感じとれる(知覚できる)し、感じとってしまう。
こう言ってもいい。あるものごとについての思いは、人間の「こころ」の中にどうやっても必ず生まれてしまうし、存在してしまう。
ということは、人間の「こころ」をかたちづくっている、ある思いの相手がたまたま人間自身の身体だとしたら、その身体に何かが起これば、必ず人間の「こころ」がそのことを感じとってしまう。人間の「こころ」に気付かれずに、その人間の身体に何かが起きるようなことはありえない。
まあ自覚症状のない病気なんてものもあるけど、これについては後できっちり説明するから、そのまま読み進めといてよ。
理由
- 第二部.定理9が正しいとすると?では、思いの相手に何かが起こったら、そのことについての知識(情報)は必ず自動的に神の中にあることになる、とぼくは言った。これはいいかな?
- しかも第二部.定理9が正しいとすると?ではその理由についてこうも言った。神が、その相手についての思いに変身したから(=その思いに神が宿っているから)なんだし、「こころ」はすみからすみまで、神が変身した思いたちが集まってできあがっているからなんだ、ってね。これもいいよね?
- だったら、思い(人間の「こころ」をかたちづくっているんだけどね)の相手にどんなことが起こっても、その相手についての知識(情報)が神の中にあるんだったら、言い替えれば人間の「こころ」の本質をかたちづくっているのが神なんだとしたら、第二部.定理11が正しいとすると?で言った通り、その相手についての知識(情報)は(神の中にあるんだから)人間の「こころ」の中にも必ずあると言い切れることになるわけだ。
ごちゃごちゃ言ったけど、要するにこのことを指してぼくたちは【人間の「こころ」が、その外にあるものごとを感じとる】と言っているわけだ。おしまい。