第二部.定理13

Last-modified: 2007-08-05 (日) 17:57:32

第二部.定理13

人間の「こころ」をかたちづくっている思いの相手、それはほかでもない、人間の身体だ。

ほかに人間の思いの相手になれるものは、現実に存在している拡張の化身(=この世のありとあらゆるものごと)ぐらいだ。それ以外のものごとは思いの相手にならないし、今までもこれからも相手になることはない。

理由

  1. じゃあもし人間の身体が、人間の「こころ」が思う相手じゃないとしたら、どうなるか。
    1. そうなると(第二部.定理9が正しいとすると?から)、いわゆる物体化身についての思いってものが、ぼくたちの「こころ」をかたちづくってくれているの中のどこを探してもない、ってことになってしまう。
      1. あるとすれば、ぼくたちじゃない「何か」(赤の他人か動物か昆虫か宇宙人か知らないけど)の「こころ」をかたちづくっているの中に、ってことになるはずだ。ぼくたちの中になければほかの何かの中にないとおかしいもんね。ここまではいいかな?
    2. だったら、第二部.定理6が正しいとすると?から、ぼくたちが自分たちの身体にどんなことが起きても(変化させられても)、ぼくたちの「こころ」にはそのことについての思いなんかこれっぽっちも生まれてこないってことになってしまう。
      1. これじゃあどんなにドツかれても殴られても何一つ感じない気がつかない不気味人間だ(笑)。
    3. でも心配はいらないよね。第二部.ルール4で決めてあったように、「ぼくたちは自分たちの身体に何か変化が起きたら、そのことに気がつくことができる」。このルールに思いっきりひっかかる。
    4. だから、ぼくたち人間の「こころ」をかたちづくっているのは、まさしくぼくたち自身の身体についての思いなんだ、ってことが完全にはっきりした。
    5. しかもそれは、実際にそこに存在しているぼくたちの身体についての思いだ。
    6. もっとひらたくいえば、ぼくたちが思うことのできる相手は、自分の身体だけじゃなくって、要するにありとあらゆる物体なんだ。どっちも「body」だからややこしいんだけど。
  1. さて次だ。ぼくたちが、自分たちの身体物体についてだけじゃなく、もっと想像を絶するようなとんでもないもの(「ありえないもの」とは違うよ)について思うことができてしまい、それがぼくたちの「こころ」をかたちづくっているとしたらどういうことになるか。
    1. そんなとんでもないことが「あり」だったら、その想像を絶するようなとんでもないものごとに何かが起こったら(存在しないのに何も起こるわけないんだけどね)、その起こった結果についての思いも、ぼくたちの「こころ」の中に必ずないとおかしい。
    2. 第一部.定理36で「が何かをすれば、必ず何らかの結果が表れてしまう」って書いたんだし、そもそも第一部のルールでもそう決めてあるんだから。
  2. これでやっと、人間の「こころ」は、現実に存在している自分の身体物体についての思いからできているし、それ以外のものについての思いが、何かの間違いでぼくたち人間の「こころ」をかたちづくる部品にちゃっかりまぎれこむことなんか絶対ない、そうはっきり言い切れるようになった。

おしまい。

やっと普通っぽい結論が出たね(笑)。21世紀に生きるみんなだったら、この結論はもしかすると「あったりまえ」のことかもしれない。でもぼくスピノザは、ここまで遠回りしてこの結論にたどりついた。一見無駄なことをしているように見えるかもしれないけど、こうやって順序立てて考えれば、ちょっとやそっとで崩れたりする心配がなくなるんだよね。だから、ひとつも無駄じゃない。

それから、この結論からこんなことも言えるんだ。「人間の想像力は無限でも何でもない。思いっきり有限だ」(笑)ってね。よく大人ども(主にちょこざいなアーティストとマスコミ)が「人間の無限の想像力をはばたかせて」とか適当なことを言っているけど、人間の「こころ」が、何でもありみたいにどんな奇想天外なことでも思い付けるわけないでしょ(笑)。人間が思い付ける範囲も量も、たかが知れているんだから。これも後できっちり説明させてもらうけどね。でも得意になってこのことを親や友達に話さないように(笑)。そんなことしたらバカまるだしだからね。
それにこれも後で説明するけど、人間は、人間が思い付ける範囲だったら、どんなことだって思い付けるんだから。