セリフ/【永遠の安息を手に入れたのだ】

Last-modified: 2021-08-17 (火) 22:27:51

FF10

ベベルグレード=ブリッジにて、シーモアキノックを殺害し、ユウナ一行に、そのキノック殺しのことを説明した時にのたまったセリフ。
この時を皮切りにシーモアは、「死の安息」を何度も一行に提唱するようになる。

  • 「死の安息に沈め」とか「永遠の安息を受け入れるがいい」とか。
  • 「死の安息」という言葉は彼の印象的なセリフかもしれない。
  • そしてこの理論にのっとり、この野望を語りだす。

スピラでは死んでも魔物化や死人化があるため、余り正鵠とは言えない価値観である。
現実であれば一理なくもないと思えるかも知れんが。


彼が言うには「死は甘き眠り。ありとあらゆる苦しみを、優しく拭い去り癒やす。
ならば、全ての命が滅びれば、全ての苦痛もまた癒える」らしい。
死を救いとしているのは、ユウナレスカも同じなんだけど(さらに他者に押す点も似ている)、
個人的にはこの2人が提唱する「死」は全く違う気がする。
ユウナレスカが見据えているのはスピラの「存続」、つまり希望(ただし偽りの)であり、
シーモアが見据えているのはスピラの「終焉」、つまり絶望ではないかと思う。

  • と言うより、ユウナレスカの「死の螺旋の存続」の思想をシーモアは認めず、
    さらに母親を失った悲しみで歪みに歪みきり「死で螺旋を断つ」なんていう考えに至ったんだろう。
  • スピラを救うという心持ちは一行と変わらなかったのだろう。
    無論、歪んだ考えだけど。
  • 変わらないと分かっているものを生かしつづける事/殺す事が幸福なのかという問題と、既に死んだ集団の夢を守るために他の人間を犠牲にして、新しく発展する文明を滅ぼそうとするって問題は、何と無く現代の日本を彷彿とさせる。
  • >つまり絶望ではないかと思う。
    その絶望を感じる人が全ていなくなるんだから絶望を見据えてるわけではないと思う。
    シリーズによく出てくる「無」に近い概念かなと捉えてる。

死が救いだと思うなら、どうして、シーモア自身は死を受け入れず留まっていたんだろう……?

  • スピラを救わねば。だからまだ死ねない。
    みたいな妄念(彼からすれば使命感)があったのかもしれない。
  • もしかしたらユウナへの執着で死ねないのかも。
  • そもそもエボン自体がムジュンだらけなので、おかしくはないだろうけど。
    まあ、シーモアはエボン教なんて信じてないだろうけど。
  • 死は自覚できないところにあるから死なんじゃないかな。それは死は救いだと提唱する人自身も例外じゃない。
  • 一回死んでみた結果、「死は安息ではなかった」と悟ってしまったのでは…?それでユウナ一行を執拗に追うことにした、とか。

「全て滅ぼし癒す」というのが彼の持論だが滅びと絶望で世界が救えるのだろうか。

  • 何もかもが滅びれば、生きる中で苦しかったり悲しいと感じる人もいなくなる。
    結果として負の連鎖は断ち切れるため世界の悲しみは癒される。
    そういうものじゃないだろうか?
  • でも誰もいない世界なんてむなしくないか、と個人的には突っ込みたくなる。
    まあ、だから悪役なんだけど。
  • こいつの言い分は永遠の闇の論理と近い
  • この種の論理は他のアニメ・ゲームでも用いられる。
  • これが自分ひとりの世界に向けば「死ねば楽になれる」になるね。
    シーモア程の力を持った人物なら世界全体にその考えを持って実行するだけの潜在力もあるだろう。
    他人(世界)に向いたのは、彼が(好意を抱いた相手に限るが)優しいからだと思う。お母さんと同じくらいには。
    • ありふれた存在なら自死で済むが、シーモアには力もあり世界への憎悪もありスピラの真実に到達する執念まであった。全て破滅に至るのは業が深いとしか言えない。

なんというかデザインといいこのセリフといいアイツに共通する。
アイツは「哀しむことはない。星の命がなんとやら」とか似たような理屈を言っていた。