設定/【エボン教】

Last-modified: 2024-04-29 (月) 14:43:29

FF10

スピラで広く信仰されている宗教。その規模は種族を越えている。
同時に、各地で眠りについた祈り子を守護し、巡礼を行う召喚士を互助する組織である。

戒律や掟には非常に厳しく、ビサイド島では砂かけ婆のような声をした老婆に厳しく非難される。

  • 「この掟破りが!召喚士様に近づくでない!!」「いけないんですぅ!!」
    • 後にティーダが、ユウナを元気づけるために真似をしており、ユウナはそんな失礼なことと言いつつ笑っている。
    • ちなみにこの老婆、ストーリーが終盤に近づくまでずっとティーダのことを掟破りと言い続ける。
      僧官はめでたい日であることや、ティーダの毒気を考慮して大目に見てくれるのだが…。

『シン』による大破壊以前に、ザナルカンドの指導者だったエボンが広めた、とされる。
破壊を続ける『シン』は人間の「罪」の象徴であり、『シン』による破壊は機械を使い驕り高ぶっていた人間への罰であるとされる。
機械禁止や銃器禁止、質素倹約といった規則を守り、罪を償い続けることによって、いつか「永遠のナギ節」が訪れるというのが主な教義。

  • しかし、世間には禁じておきながら当のエボンはその機械をふんだんに使いまくっている。アーロン曰く、「自らの教えを影で裏切っている」。
  • ワッカら信者が掟に厳しいのは上記の事を本気で信じ込んでいるからである。二周目辺りでその事を念頭に置いてプレイすれば、彼らの見方も変わってくるだろう。
  • シンを刺激せずに技術を保存継承しようとすれば独占管理以外の方法がないのも事実だが。

教団の中心はスピラ最大の都市ベベルにあるエボン寺院総本山・聖ベベル宮
マイカ総老師を最高指導者とし、これにロンゾ族のケルク・グアド族のシーモア・人間のキノックを加えてエボン四老師と呼ぶ。
機械禁止を標榜しているため、機械を表立って使うアルベド族は老師に数えられていない。

  • なぜかハイペロ族も老師になってない
    • ハイペロ族からの老師がいないのは少数種族だから。
      老師がいない種族は他にペルペル族や体の一部が楽器となっている種族(種族名不明)がある。

教団の拝礼として、両掌で円を作ったまま礼をするのが特徴的。
熱心な信者であるワッカなどが随所で見せてくれる、
エネルギー弾が撃てそうな「祈りのポーズ」を真似した人も多いのではないだろうか。


エボンのお辞儀は夢のザナルカンドでも、ブリッツボールの勝利のおまじないとして定着している。
冒頭で、ティーダからサインをもらった子供達がこのお辞儀をしている。


信者は喜ばしい事や奇跡的な現象が起きた際などに「エボンの賜物」という表現を使う。
現実世界で言うならば「加護」とか「霊験」といったところだろう。
本編中ではワッカをはじめとした敬虔な信者がよく使う他、マカラーニャ湖の底に落ちた際(信者ではないが)ティーダが語りの中で例示的に使っている。


召喚士は民衆が希求するナギ節を実現する『究極召喚』を手に入れるために、
エボンの各寺院をめぐり、祈り子と契約することになる。
究極召喚が実はその場しのぎに過ぎず、『シン』の新たな依り代となり、召喚士の犠牲は場当たり的な生贄だという事実は人々には知られていない。
『シン』が滅びないという現実を、教団は「教えに従わず機械を用いる連中(=アルベド族)がいるから」と説明している。

誤解されがちだが、各寺院での謎の動力はスフィアを動力にしているのであり、機械仕掛けによるものではない。
とはいえ、聖ベベル宮内では教団自体が禁じている機械や銃器を使いまくっているなど、欺瞞だらけの教えである。

  • さらに、盗まれただけで壊れるアルベド族の「マキナ」とは違い、教団が使う機械は作りがしっかりしており、火器まで使いこなす。
    教団がベベルの機械技術を秘伝として残し、またメンテナンスまでこなしている証左である。
    • 盗まれただけで壊れるのではなく、リュックがどの「パーツぶっこ抜」けば壊れるか知ってるだけだろう。
      • リュック以外の仲間も、リュックにどのパーツを盗むべきかを教わったのだろうか。
      • 正確に言えばアルベド族の使用する「マキナ」は自分達が発掘した大昔の機械を詳しい知識も
        なく修理して使用しているため外見を含めて未完成品のような荒が目立つ
        (この事に関して飛空艇でのイベントにて飛空艇の仕組みについて何も知らない発言をした
        シドが「エボンの機械禁止のせいで俺達は何も知らない愚か者」と皮肉っていた)
        一方のエボン教が使用する機械はその大昔の機械を今なお継続して使い続けてきたために
        技術も衰えずに完成された形を保っているのだろう
      • エボン教の兵器にせよアルベド族のマキナにせよ100年単位のかなり昔から存在するはずだが、エボン側のものはバージョンアップを図っている(エボン=ドームとベベルとで機種が異なる)のに対し、マキナは下手すれば初期型をそのまま修理しているのだから強度・戦力差は言うまでも無い?
      • だがベベルに出る寺院製の兵器の方がエボン=ドームに出る同型の兵器より弱い。秘伝として細々と引き継いでいるだけでは技術の劣化は避けられなかったのだろうか。

元々の興りは『シン』の登場以前、1000年前のべベルとザナルカンドの国家間機械戦争時まで遡る。
当初この戦争は機械を駆使するベベルと召喚魔法を主力とするザナルカンド側が争う格好だったが、やがてベベルが優勢に立つ。
存亡の危機に立たされたザナルカンドの指導者エボンは、生き残った住民全員を祈り子として「永遠に終わらない今」を召喚することでザナルカンドの存在を残した。祈り子はガガゼト山の断崖に封印された。
直後ベベルは『シン』の襲撃に見舞われ、他のほとんどの都市も破壊されていった。ベベルの民はザナルカンド王・召喚士エボンがガガゼト山の祈り子で召喚したのは『シン』であり、スピラ中を襲うのはエボンの荒ぶる怒りと考えた。
そこでザナルカンドから落ち延びていた召喚士ユウナレスカ究極召喚によって『シン』を倒した。ユウナレスカはこの時ベベルで究極召喚の事実や教義の土台となる思想を説いたと思われる。
最初のナギ節の後『シン』が復活。残った機械文明の都市を破壊し始めたところでスピラに機械を放棄する風潮が広がった。
この流れを受けベベルで宗教組織「エボン寺院」が成立する。ユウナレスカを祀り、機械の禁止のほか迷信や伝承の類も習合して人心を掴んだ。
後に教えに従っても『シン』が消えないことに人々が不満にあふれ、反抗することを恐れた寺院は『シン』=機械を使う人の罪に対する罰であるという教えを説き、自らの責任をスピラの民全体に転嫁。ザナルカンドの「祈りの歌」を取り入れたりもした。また、『シン』を消滅させられる方法がないことを隠しながら「究極召喚が『シン』を倒しナギ節が訪れる」という話を広め、人々にわずかな希望を残すことで「エボンの教え」、しいては1000年もの間スピラを停滞させた「螺旋」が完成する。
現在寺院の中枢ではこれまでの正史を知っているのかは定かではないが、『シン』は永遠に消せないものであり、究極召喚は「見せかけの希望」であるということは、究極召喚を授ける存在として死人となりスピラに留まったユウナレスカと同様に完全に認識されている。
しかしながら捏造と欺瞞に満ちた教えではあるが、発展こそ抑制されても『シン』によるスピラ滅亡は回避され、1000年の安定をもたらしたことは一つの事実である。

  • 『シン』が機械文明に反応するのは事実であり、機械放棄は当初は、この『シン』の習性に対応するためのスピラの民の自発的な動き。寺院はこれを利用し、機械の使用を罪とし『シン』をこの罪に対する罰とする教義を導入して民心を安定させようとしたわけだが、実際のところは機械と『シン』の因縁を曖昧にすることで、機械戦争の経緯を隠蔽したかったのが本音なのかも知れない。
    • 戦争のもう片方の当事者であり、軍事面に使わなかっただけで機械文明都市ではあったザナルカンドもまた指導者自らの生み出した『シン』によって壊滅しているわけで、それを踏まえれば戦争の経緯を隠蔽すること自体に特に意味があるとは思われないのだが。

驕り高ぶっていたのはベベル側であり、ザナルカンド滅亡後における支配体制を確立するためにベベルを滅ぼしに来たシンさえも自身の都合の良いように解釈する。
「死人に口なし」とはいえ、ベベルの根本的な体質はこのエボン教に集約されるといってよい。
ティーダ達とシンとの戦いでベベルにその罪の象徴たるシンが墜落したのはなんとも皮肉。因果応報とも言える。

  • ただし『シン』による都市壊滅を間に挟んでいる以上、
    戦争を主導したであろう旧ベベルの支配者層と、草創期のエボン寺院の中枢は、
    必ずしも同じ勢力とは限らない、という点は留意すべき。
    上記の戦争の経緯を隠蔽したい云々というのも、そこが一致しなければ前提から崩れることになる。
    • 最初にナギ節をもたらした大召喚士たるユウナレスカが死人として現世にとどまり、かつエボン教が彼女とゼイオンを讃え、教団上層部が究極召喚に関する真実を把握していることを踏まえると、下手したらザナルカンド側のマッチポンプでエボン教が誕生したという推測もできなくはないからな。

典型的な神を騙り、欺瞞と捏造と侵略と欲望だけの宗教団体。

  • こちらと違って私利私欲のために暗躍してるというよりは、必要意義のために動かざるを得ないという感じである。
    少なくとも神は騙っていない。大召喚士と究極召喚獣を救世主に仕立て上げているだけ。
    「侵略」も「欲望」も筋違いだろう。
    アルベド族は侵略目的ではなく機械を使う反エボン教の民であるから迫害されているのであり、
    欲に取り付かれていたのも精々キノックくらい(しかも彼の場合は出世欲)。
  • どいつもこいつも悪人と言うより絶望に苛まれてる感じ。無理もないんだろうが。
    • 偽りの希望をもたらすための宗教なので(極論すれば全ての宗教はそう言うものかもしれないけど、
      それはさておき)確かに「悪」と言うより「諦め」の方が強いような感じがする。
      ただ、その幻想を守るためには基本的にどんな手段に訴えても良いと考えているようなので
      そう言う意味ではタチが悪い(人々を絶望から救う、と言うお題目があるからだが)。
      上層部は自分達の教えがウソであり、エボン教の教えを実践しても「永遠のナギ節」が来る事は
      絶対無いと知っているので上記のように「上層部ほど不健全」な体質になってしまっている感じがする。
  • 「どう足掻いても『シン』は消えない」なんて一般に知れ渡ったら絶望しか無くなって人類は滅んでたかも知れない。
    偽りでも希望を持たせて本当に『シン』を倒すきっかけとなるジェクトやユウナ一行が現れるまで
    生きる気力を失わせず人類を生き長らえさせたのは評価出来る。(アルベド族を人身御供にしたのはなんとかならんかったのかと思うが)
  • 『シン』を完全に消し去る方法がない以上、ある意味ベベルも仕方なかったのではなかろうか。
    1000年前のベベルとて、『シン』を排除する為にあらゆる方策を講じたのは容易に想像できる。
    しかしどうしても倒せない。不滅の絶対的破壊者『シン』が存在し続ける。
    そこに一時的とはいえ、『シン』を消し去る方法が究極召喚である。
    それを見ていた者達が召喚士を神聖視し、いつか『シン』が本当に消えてくれれば……と願うのは自明の理。
    だが、それがまやかしにすぎないと知っている者達はあらゆる手段で真実を誤魔化すより他なかろう。
    この宗教が広まっていなかったら、絶対にスピラは1000年も存続できなかったと思う。
  • エボン教が存在しなければしないで、人間はそれなりに生きていくだろう。『シン』という圧倒的な脅威があるとはいえ、人間が生きていける環境は十分存在している。単に文明の発達がほとんどなくなるだけ。
  • とても単に~だけなどと言えるものではないが。シンもエボンも無くなった僅か数年後であの有様なのだからそれも怪しいものである。
  • ここまで見当違いな難癖もなかなか見ない
  • 数々のイレギュラーが重なった結果、ティーダ達によって結果論的に解決するまでは、これが最善策であった以上仕方がない。
    臭いものに蓋をするという言葉があるが、蓋を勝手に外すだけで後は何もしないよりは、蓋をしてせめて臭さが広がらないようにする方がマシ。
    また、機械を表立って使用するのが『シン』に目をつけられる理由になってるのは事実であり、欺瞞と捏造だけとは言い難い。
    尤も、作中のエボンの連中の実態が実態だけに、そんな風に見られるのも残念でもないし当然と言わざるを得ない。

エボンの教えでは、もしもアルベド族がなんらかの理由で全滅しようものなら、機械に関する教えが揺らぐ。仮にアルベド族が『シン』が原因で全滅、なんてことが起きた時にはさぞ困ったことだろう。罰を受けて滅んだのだ、までは言い訳できても、『シン』が消えない説明がつかない。その時には、また別の種族が迫害対象になったかもしれないし、また妙な理屈をこねて魔女狩りのような事態が起きたかもしれない。

  • 機械そのものはエボンの手元にあるんだから、その場合は新しい機械文明人をマッチポンプするんじゃないかな。
    って言うかアルベドももしかしたら…。
  • かなり初期の教義が安定してない時期に言葉の通じない一族に機械発掘を任せて、死ぬ間際に言葉が通じないのを良いことに責任押し付けた老師がいたかもしれないな
  • どっかに使えそうな古い機械を適当に埋めて、「新しい機械遺跡を見つけました!皆さん掘っちゃダメですよ!絶対掘るなよ!いいか絶対だぞ!信者は近寄っちゃいけません!」とでも発表すれば後は勝手にどうにでもなるだろう。
  • 別にアルベドが機械を使うせいでシンが消えないなど何処の誰も言ってはいない。機械は人間の罪の象徴ではあっても全てでないから寺院は何も困らない

エボン教信者の代表格たるワッカは『シン』復活にたいして
「教えに従って暮らしていればいつかは罪を償いきれ『シン』は復活しなくなる」
と本気で信じ込んでおりそれが信者内の大多数の考え方とするならば
「また罪を償いきれていない」とでも豪語すれば、例えアルベドが無くなろうが更に1000年経とうがいくらでも誤魔化しが効くと思われる。

  • 性質の悪いカルト教団によくある言い回しである。「救済が必要です→お布施をしなさい」「いつまでたってもご利益がありません→お布施が足りないからです。更なる誠意を示しましょう」
  • 余談だが、エボン教でGoogle検索すると、「エボン教 統一教会」とサジェストされることがある。ただ、ユウナレスカやシーモアの(おそらく個人的な)言い分はむしろオウム真理教を思わせる。

リオファネス城ウィーグラフラムザに指摘した事を見事に実践している。

所詮、“神の奇跡”などそんなものだ…。
その時々の執政者たちが自分の都合の良いように歴史を改ざんしているだけ。
だがな、その行為のどこに問題があるというのだ? 彼らが責められる理由は何もない。
なぜなら“神の奇跡”を望むのはいつでも民衆だ。
何もせず、文句ばかり言い、努力はせず、他人の足を引っ張る…それが民衆というもの…。
そうした民衆が望むものを執政者たちが用意する…。
歴史などその繰り返しにすぎん。

  • ウィーグラフの持論は民衆の蒙が啓かれれば瓦解するという反証可能性を持つ(現実の歴史でもそんなことは起こっていないが)。一方でエボン教の場合、民衆が真実に気付いたところで何ももたらさない。エボン教を排斥する「だけ」で解決する問題などどこにもないからである。この違いは「都合の良い」の意味合いが異なることから起きている。ウィーグラフの持論は「執政者が己の権益を維持するのに都合の良い」であり、エボン教の教えは「人々が絶望しないために都合の良い」である。要するに目的が異なるという話なのだが、にも関わらず実際に取られている手法(欺瞞と隠蔽、そして改竄)が同一であるというのは興味深い点と言える。
  • どんなに頭が良く先の見通せる人物が教祖になっても、その人物の知る世界、知る時代でなければ通用しないという、言わば教えの限界は必ず表面化する。
    百年千年と続く可能性を持つ宗教の根幹がそれを正直に表明したのでは、信じさせる側にとっても信じる側にとっても不安の種なので(この利害の一致こそ宗教という概念のポイント)、
    各時代の指導者によって矛盾に対するその場凌ぎの欺瞞と隠蔽、そして改竄が行われ、一方で教えそれ自体も時代に伴って緩やかに変質していくというのは、多数派たる宗教の延命治療として当然辿る道である。

各地にいる男性の僧官は子どもから老人までスキンヘッドだが、剃髪のしきたりがあるのかは不明。
女性の僧官はロングヘアの者が多いし、男性でも僧兵などは髪を生やしている。