景行天皇四十年、皇子日本武尊が東国御平定の折、当地にて平定成就と旱天に苦しんでいた住民のために
天照大神を祀り祈願された処、御神徳の顕現がありました。これが当宮の創祀であります。
同五十三年、天皇御自身が御東行、武尊の御功績を御追憶なされ、「意富比神社」の称号を賜りました。
平安時代、延長五年(九二七)に編纂が完成した『延喜式』にも当宮が記載されており、式内社としての歴史を
知ることができます。
後冷泉天皇の御世、天喜年間(一〇三五~五八)には、源頼義・義家親子が当宮を修造し、近衛天皇の御世、
仁平年間(一一五一~五四)には、船橋六郷の地に御寄付の院宣を賜り、源頼朝が之を奉じて当宮を再建し、
その文書には「船橋伊勢大神宮」とあります。
鎌倉時代、日蓮聖人(一二二二~八二)は宗旨の興隆発展成就の断食祈願を当宮にて修め、曼荼羅本尊と剣を奉納されました。
江戸開府の頃、徳川家康公(一五四六~一六一六)は当宮に社領を寄進、奉行をして本殿・末社等を造営し、
以来江戸時代を通して五十石が幕府から献納され幕末に至りました。
近代に入り、明治天皇陛下(一八五二~一九一二)には習志野・三里塚へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奠遊ばされました。
往時の諸社殿の景観は、江戸時代末期の「江戸名所図会」に窺えますが明治維新の戦火のため焼失しました。
その後、明治六年(一八七三)に本殿が造営されたのを初めとして、大正十二年(一九二三)、昭和三十八年(一九六三)、
同五十年(一九七五)、六十年(一九八五)に本殿・拝殿・末社・鳥居・玉垣・参道等に至るまで随時造営が成され、
県文化財指定の灯明台の修復等も経て今日に至っております。
船橋大神宮は「日本一小さい大神宮」の異名を冠しており、あちこちに書かれていました。
延喜式神名帳では「意富比神社」の名称で登場します。実際は大神宮のほうが通りがいいので、併記しています。
現在の御祭神は天照皇大神に対する信仰が強まった後のもので、当初の意富比神社の祭神は知る由がありません。
非常に長い参道に多くの境内社が祀られています。少なくとも20社は確認が出来ました。
、大神宮と号するのは東京大神宮や小石川大神宮に似た名称パターンではないでしょうか。
いずれも伊勢の神々を御祭神としているのが共通で、神宮を遥拝する役割やその分社としている神社が多い印象ですね。