飛鳥奈良時代から朝廷の尊崇篤いと伝承されている当神社が記録に見えるのは大同元年(八〇六)
「新抄勅格符鈔」に神封一戸を寄せられたとあるのが最初である。
貞観元年(八五九)正五位下を授かり、延喜の制では名神大社として官幣及び祈雨の幣に預かったことが「三代実録」に、
又、延喜式祝詞皇室の御料林守護の為、山麓に山神の霊を祀るとあり、大山祗命と御祭神としていたことが伺える。
文安三年(一四四六)「五郡神社誌」に畝傍山口神社、在久米郷畝火山西山尾とあり、当時は西麓にあったとされている。
天正三年(一五七五)の畝傍山古図では、山頂に社殿が描かれており、この間に山頂へ遷座されたことが明らかで、
口碑に当時の豪族越智氏が貝吹山に築城の際、真北に神社を見下すことを恐れて山頂に遷座したと符合する。
「大和名所図絵」にも昔、畝火山腹にあり、今山頂に遷す。祭る所、神功皇后にてまします畝火明神となづくとあり、
当神社の御祭神、神功皇后が朝鮮出兵の際、応神天皇をご安産なされたとの記紀の伝承により、
今に「安産の守神」として信仰されている。
主神であった大山祗命を境内社に祀り、本殿に気長足姫命・豊受姫命・表筒男命の三神を奉祀したのもこの頃かと思われる。
神社名も畝火坐山口神社から畝火明神・畝火山神功社・大鳥山などと呼ばれてきたが、
明治に入って旧郷社「畝火山口神社」と定められ、俗にお峯山と呼ばれてきた。
現在の社殿は昭和十五年、皇紀二千六百年祭で橿原神宮・神武天皇陵を見下し、神威をけがすということで、
当局の命により山頂から遷座した皇国史観全盛期の時勢を映した下山遷座であった。
(以下、余談)
大和三山の畝傍山の山麓にあります。『日本三代実録』や『延喜式神名帳』に記載がある古社です。
この付近は風致地区に指定されていることもあり、長閑な風景が広がっています。
創祀については不詳ですが、文安三年(1446年)「五郡神社誌」では畝傍山西麓にあったとされています。
天正三年(1575年)「畝傍山古図」で畝傍山頂に記載されているので、この間に遷座されたことになります。
昭和15年(1940年)畝傍山東麓の橿原神宮が拡幅された際に、現在地へ遷りました。
当時の皇国史観により、橿原神宮や神武天皇陵を見下し神威をけがすと考えられたためと推察します。
朱色の社殿は畝傍山の深い緑の中で、よく映えていました。