談山神社

Last-modified: 2014-02-23 (日) 21:58:45
 

談山神社
たんざんじんじゃ
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(参拝日:平成25年4月28日)
住所:奈良県桜井市多武峰319mapionlogo.gif
主祭神:藤原鎌足公
社格:別格官幣社、別表神社
主な祭礼:11月17日(例大祭)
webサイト:談山神社

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↑鳥居↑
(由緒:パンフレットより)
飛鳥・法興寺で行われた蹴鞠会において出会った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の中臣鎌足)が、
藤の花の盛りの頃、当社本殿裏山で極秘の談合をされました。

『多武峯縁起』によれば、「中大兄皇子と中臣鎌足連に言って曰く。鞍作(蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。
願わくは奇策を陳べよと。中臣連、皇子を将いて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず。」と記されています。

この談合により、皇極天皇四年(六四五)飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び、
文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げられました。

多武峰はこの後、談峯・談い山・談所が森と呼ばれるようになり「大化改新談合の地」の伝承が残りました。
現在の社号の「談山神社」もここからきています。

天智天皇八年(六六九)十月、鎌足公の病が重いと知った天皇は自ら病床を見舞い、
後日、大織冠内大臣という人臣最高位を授けられ、藤原の姓を与えました。藤原氏はここから始まります。

鎌足公の没後、御墓は摂津国安威山(現在の高槻市)に造られましたが、白鳳七年(六七八)唐より帰国した
長男・定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称しました。
さらに、大宝元年(七〇一)方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置しました。これが談山神社の始まりです。

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↑本殿↑
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↑楼門・拝殿↑
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↑摂社・東殿(恋神社)↑
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↑十三重塔・権殿↑
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↑儀式殿↑
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↑閼伽井屋↑
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↑末社・比叡神社本殿↑
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↑岩くら・龍神社↑

(以下、余談)
飛鳥から県道を40分くらい山道を走ると、山深い「多武峯」の地に鎮座する神社が見えてきます。
この道路は2009年に開通した道路で、それまでは永らく桜井方面からの隘路しか辿り着けませんでした。
飛鳥坐神社や石舞台古墳からハイキングコースを徒歩2時間、自転車や徒歩で坂を登り・降りする人も見かけました。

拝観料を支払い、石段を登ると朱塗りの社殿や十三重塔が見えてきます。
世界でここにしかないという木造の十三重塔です。紅葉を背景にするとよく写真映えするでしょうね。

藤原鎌足(中臣鎌足)をお祀りしていますので、本殿には尊像が安置されています。

談山とは、藤原鎌足と中大兄皇子が乙巳の変の談合をここで行い、「談い山」「談所ヶ森」と呼ばれたことに因みます。
鎌足の長男・定恵が、摂津安威の地にあった墳墓から当地に移し、十三重塔を建立したのが発祥とされています。

明治以前は多武峯妙楽寺として、興福寺との騒乱、室町時代の永享の乱や国人一揆と多武峰合戦と戦乱が絶えませんでした。
天正13年(1585年)には豊臣秀吉により郡山城下に移すことを厳命され遷座しましたが、5年後に帰山しました。
徳川家康により復興され、3000石の朱印領を賜りました。明治の廃仏毀釈に際し現在の社名に改められました。
社殿は寺院建築をそのままに使用していますので、神社よりも有力寺院のような趣があります。

今度は紅葉のシーズン期に再度訪れたいですね。