放生津八幡宮

Last-modified: 2013-12-22 (日) 16:57:42
 

放生津八幡宮
ほうじょうづはちまんぐう
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(参拝日:平成25年1月6日)
住所:富山県射水市八幡町2-2-27mapionlogo.gif
主祭神:応神天皇
主な祭礼:10月1日(新湊曳山まつり)

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↑鳥居↑
(由緒:パンフレットより)
神域、七五四七平米、南方は旧往還道に沿い、北方は幕末に築かれた台場と新湊第二漁港を
へだてて奈呉の浦に面する。石垣巌として社地を画し境内をとり巻き、老松空を覆う。
正面に「上立釣方漁師中」の寄進した大鳥居がそびえる。

ここに掲げる神領「八幡宮」の題字は安政四年(一八五七)七月、知恩院第七十一世大僧正萬誉顕道の乞いにより
左大臣近衛忠煕卿の揮毫である。手水舎前の御神燈は、放生津の海商柴家が天明三年(一七八三)八月奉献した
ものである。

当宮は、聖武天皇の御代、天平十八年(七四六)越中国守大伴宿禰家持卿が古国府(高岡市伏木古国府)に在任中、
常に奈呉の浦の勝景を愛せられ、また、郷人に敬神の念を普及せしめんとの深慮により、
豊前國宇佐八幡神を勧請して奈呉八幡宮と称したのが創始といわれ、秋季大祭には放生会が営まれ、
永々として今日に伝えている。当地放生津の地名は、嘉暦三年(一三二八)これに因り名づけられたといわれる。

正和年間(一三一二~)守護名越時有が社殿を造営、神領八幡田を寄進した。
永禄年間(一五五八~)上杉謙信の兵火にかかる。のち、放生津城主神保長職が社殿を再建した。
天正年間(一五七三~)藩主前田利長公、信仰篤く度々社参し、「八幡宮」の神額を染筆奉納す。
弘化二年(一八四五)二月、放生津の大火にかかり社殿、宝物等ことごとく焼失した。

現在の社殿は文久三年(一八六三)七月竣工したもので、名棟梁高瀬輔太郎、脇棟梁野上武平、
同赤井弥左エ門の作で豪壮な流破風造りの神輿庫(霊松殿)は、宝暦元年(一七五一)の造営で、
神輿は寛延三年(一七五〇)「能州所口の住人、後藤六代中川浅右衛門良直、同岩五郎」の作である。

神域東北側に、天平二十年(七四八)正月、大伴宿禰家持卿が奈呉の浦の風望を詠まれた。
「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟こぎ隠る見ゆ」(万葉集巻十七、四〇一七)の
歌碑(佐佐木信綱博士筆)がある。また、松尾芭蕉が「奥の細道」の行脚に放生津を通ったとき詠んだ。

「早稲の香や分け入る右は有磯海」の歌碑が翁の百五十年遠忌にあたる
天保十四年(一八四三)九月郷土の俳人子遇が建立。

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↑拝殿↑
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↑祖霊社↑
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↑霊枩殿↑
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↑松尾芭蕉の句碑↑
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↑射水市保存樹・榎↑
(以下、余談)
射水市の北方・新湊(富山新港)がある海べりに神社が鎮座しています。

古代、高岡は越中国府が置かれ、国司として赴任した大伴家持が次の歌を始め、多くの短歌を遺しています。
「あゆの風 いたく吹くらし 奈呉なごの海人あま 釣りする小舟 漕こぎ隠かくる見ゆ」
(東風が強く吹いているらしい、奈呉の海人の釣する小舟が漕いで隠れようとするのが見える)

この奈呉の浦はかつて、老松に囲まれた境内から立山連峰・能登半島を望む風光明媚な土地だったようですが、
今では海浜の浸食が激しく、コンクリートの漁港が広がるばかりで、砂浜が2kmも続いていたという面影は少ないです。

新湊が賑わうのが10月1日、富山県で最も多い13基の曳山が街を巡る「曳山祭り」です。
華やかな曳山は富山県各地に残されていますが、その祖型ともされるのが当社の築山です。

境内の松の木を背景として、西向きに舞台状の山を造ります。
中央に姥神様、周囲には鎧甲姿の四天王、中央には客人を配します。
10月2日の早朝から日没まで曳山が飾られますが、姥神様が怒り暴れるので神事が終わると急いで解体します。
移動できるよう発展した築山神事は射水神社伊須流岐比古神社?(明治時代に神事は廃絶)当社に伝承されました。

一度見てみたいお祭りですね。今度来るときは大いに賑わうときに訪れたいものです。