総社大神宮

Last-modified: 2013-10-05 (土) 13:57:22
 

総社大神宮
そうじゃだいじんぐう
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(参拝日:平成24年10月7日)
住所:福井県越前市京町1-4-35mapionlogo.gif
主祭神:大己貴命
社格:県社
主な祭礼:9月15日(例祭)
webサイト:総社大神宮

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↑鳥居↑
(由緒:パンフレットより)
総社とは大化の改新の結果、越前国にも国府(現越前市)が置かれ、国司は管内の官社を初め、
国内神名帳所載の諸社を巡り親しく巡拝する事になっていたが、
やがて巡拝の労を少なくする為や急を要する祈願や祭礼のために、
国司所祭の神霊を1ヶ所に合祀して総社が建てられた。

爾来、当社が越前国における総社とされる。

奈良時代の天平十一年(七三九)には聖武天皇の勅願で諸国の総社に大己貴命
(大国主命ともいい国土経営の神であり、土地の守り神としても信仰されている)を併せて祀る事となり、
社伝に曰く、同年五月五日丙申の日に神霊が遷され、この併祀の際、大和国大神神社大物主の祭主、
太田田根子命の後齎忠麻呂を筑前国の糟屋郡より召し、この御鎮祭の砌、帝都より供奉したという。

元糟屋郡より出たるを以て糟谷を氏とし、元祖太田田根子命の田田を忠に用い、今にその職を伝えている。

以後 総社は越前一ノ宮及び二ノ宮と共に越前における代表的な社として、
奉額小野道風筆、社領百十余町、社家数十家有り、代々領主および人々の崇敬をうけた。

鎌倉時代の末期正応五年(一一九二)頃には、遊行上人一遍僧徒の弟子他真教が数度に亘り参詣し、
白山平泉寺僧徒の攻撃を受けるなどの争乱も歴史に名高い。

室町時代になると打ち続く戦国争乱により神領を蚕食され社殿が焼かれてその勢力は衰退したが、
天正元年(一四七二)越前の守護朝倉孝景公により社家宛に神領安堵の黒印状が出され、
更に天正元年(一五七三)には織田信長の朱印状も出されている。

天正年中(一五七三~一五九二)前田利家公府中在城の時、本殿及び拝殿が寄進され、
松平秀康公入国以来深く当社を崇敬して数多くの社領を寄進、
同忠昌公、光通公の代になり、社領の判物を納め、時に応じて社参奉幣がなされた。

本多富正公が府中(現越前市)の領主となった間もない慶長十三年(一六〇八)
三十石の社領が寄進され以後歴代の崇敬を受け、
文化元年(一八〇四)甲子八月、一千年の大祭が斎行された。

旧福井藩にて、郷社に列し、明治八年四月二十二日敦賀県にて県社に列せられ、
同四十一年四月二十六日神饌幣帛料供進の神社に指定された。

同四十四年七月二十五日武生市(現越前市)御幸にあって天照皇大神を祀る無格社神明神社を合祀した。

現在の社殿は大正十五年六月に造営されたもので、
本殿は流れ造り、拝殿は入り母屋つくりで千鳥破風を乗せ唐破風の向拝が続いている。

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↑社殿↑
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↑越前国府↑
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↑蓬莱夫婦松↑
(以下、余談)
武生駅から伸びる商店街の突き当たりに位置する神社です。
現在の福井県の中心は県庁のある福井市ですが、国府が置かれた古代はここ武生が中心でした。

日本各地にある総社のひとつで、越前国内の神名帳に掲載の神社の神霊を合祀して建てられました。
国司が諸社を巡拝する労を省くため、国府の近くに設けられた例が多く見られます。
総社の成立は一概ではなく、上記の基準とは違って成立しているところや比定できていない国もあります。

9月14-16日の例祭は俗に「武生まつり」とも言いまして、南越地方最大の祭です。

七五三の参拝客で少し慌しそうでしたが、歴史を積み重ねた神社であることを感じました。