藤島神社

Last-modified: 2013-05-10 (金) 23:27:29
 

藤島神社
ふじしまじんじゃ
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(参拝日:平成24年10月7日)
住所:福井県福井市毛矢3-8-21mapionlogo.gif
主祭神:新田義貞
社格:別格官幣社、別表神社
主な祭礼:8月25日(例祭)
webサイト:藤島神社

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↑鳥居↑
(由緒:パンフレットより)
新田義貞公は清和源氏の流れで、八幡太郎義家から十代目の子孫に当ります。

代々関東の上野国(群馬県)の新田郡に住んでましたので、新田氏を称し、
義貞公は新田氏の嫡男として生まれました。

後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうと二度目の計画をされた元弘の変(一三三一)後、
新田義貞公は、元弘三年(一三三三)、密かに朝廷の命を受けて五月鎌倉に攻め入り、
遂に二十二日執権北条高時の鎌倉幕府を滅しました。

この日を記念しまして藤島神社では、毎年記念祭を斎行いたしております。

鎌倉幕府が滅亡してから後、いわゆる後醍醐天皇の建武中興の政治が始まりますが、
この時足利利尊氏が天皇に謀叛を起し、南北朝の動乱の時代となりましたが、
新田義貞公は盡忠報国の精神を以て後醍醐天皇に尽くされ、楠木正公が湊川で戦死された後も、
形勢不利の中を延元元年(一三三六)、天皇の皇子恒良・尊良両親王を奉じて敦賀の金ケ崎に籠城され、
翌年三月金ケ崎落城と共に杣山へ、更に延元三年(一三三八)足利軍と福井平野で奮闘中、
閏七月二日灯明寺畷(新田塚)の戦で壮烈なる戦死を遂げられたのであります。

御年三十八歳でありました。
この閏七月二日を太陽暦に換算しますと、八月二十五日になりますので
この日を藤島神社の例大祭と定め、毎年厳粛なる祭典が盛大に行われております。

この新田義貞公戦死の地から明暦年間(一六五五~五七)、義貞公の兜が発見されましたので、
福井藩松平光通候は萬治三年(一六六〇)そこに「新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建立されました。

これが国の史蹟として指定されている「史蹟灯明寺畷」(新田塚)であります。

明治初年、この新田義貞公の忠誠に対し神として祀る運動が起こり、
明治九年十一月別格官幣社藤島神社が御創建されました。

その後、変遷がありまして同十四年同郡牧ノ島に社殿を移したが
ここもまた水害が甚だしいため同三十四年五月、
足羽山の現在地へ奉遷されたのが今の藤島神社であります。

殊に、御皇室をはじめ各宮家の御崇敬篤く、
昭和八年昭和天皇さまの本県への行幸に際しご親拝あわせられ幣饌料を賜りました。

戦災・震災と二度の災害を被りましたが、全国各地の崇敬者の方々のご奉賛により、
昭和三十一年御創立八十周年大祭には檜造りの拝殿が、百年大祭には宝物収納庫を兼ねた参集殿が、
六百五十年祭に神符授与所等諸殿の復興がなされ、平成二十年御殉節六百七十年祭を迎えます。

福井市を一望する緑に囲まれた杜は、福井県はおろか全国より詣でる人々が絶えないことは
御神慮の広大無限さに只々有難く真に恐懼に堪えない。

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↑拝殿↑
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↑福井市街地 遠景↑
(以下、余談)
福井市の近郊にある小高い丘が足羽山です。足羽神社や継体天皇像も山内にあります。
江戸時代に兜鉢が出土しましたが、これを当時の福井藩の学者は、新田善貞公のものであると認めました。

webサイトを見ていると、七五三の男児は御兜を頭に、女児は御鏡を胸に当てるそうです。
他の神社では聞いたことない風習ですので、独自のものだと思います。

小高い場所にあるので、市街地が見渡せました。