住吉三神は遠い神代の昔に、伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギハラエ(禊祓)を
された時に、志賀海神社の御祭神ワタツミ三神と警固神社の御祭神・直毘の神と共に御出現になりました。
したがって当社の御鎮座は遠い遠い神代のことで、年代を定めることは出来ませんが、
全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つです。
住吉大神をお祀りする神社が全国に二千百二十九社ありますが、当社は住吉の最初の神社で、
古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されております。
また平安時代に全国各地に「一ノ宮」が定められましたが、
当社は筑前国一の宮として朝野の厚い崇敬をうけました。
約八千年前、神功皇后の三韓への御渡航に際し、住吉大神の荒魂は水軍をお導きになり、
和魂は胎中天皇と申し上げた応神天皇の玉体をお守りになり、
刃を用いずして御帰還遊ばすことが出来ました。
よって皇后は住吉三神の御神徳を厚く敬仰感謝され、新羅の都に国の鎮護として住吉大神をお祀りになり、
摂津(大阪)、長門(山口)、壱岐に住吉神社を御創建になりました。
住吉大神のご神徳は、その御出現の由来に拝しますように、
「ミソギハラへ」の御霊徳によってわれわれに心身の清浄を保たしめ給い、
そしてそれにより生ずる「開運と光明」をお恵みになるものであります。
さらに、応神天皇の御代から国運大いに開けたこともあり、
住吉大神は文教、殖産、興業、開運、安産、予言の神として信仰されております。
またツツノオ(筒男)のツツには星の意味があると言われ、
筒男三神は航海安全、船舶守護にその神威をあらわされ、
開運・漁業者の崇敬が極めて厚く「住吉丸」と名づけた船の多いのもそのためであります。
このように御神徳が広大でありますので、当社への朝廷の御崇敬は特に篤く、
神功皇后の勅祭(十月十三日の例祭の起源)に始まり、
聖武、清和、陽成、後一条、鳥羽、後花園の各天皇が奉幣あらせられ、
大正天皇は三度、昭和天皇は五度の奉幣がありました。
また当社は諸武将の崇敬も厚く、楠正成・源頼朝・足利尊氏は祈願文、寄進状を寄せ、
一時は自国・他国を合わせ神領三千余町(ha)歩、神人三百人に及んだと伝えられます。
江戸時代に入っては黒田藩祖長政以来歴代藩主の崇敬は殊に篤いものがありました。
(以下、余談)
JR博多駅西口から徒歩圏内に神社がありました。
古書に「日本第一住吉宮」「住吉本社」などと記述のある筑前国一宮です。
全国2129社ある住吉大神を祀る神社の中でも、最初に祀った神社であるとしています。
神功皇后が厚く崇敬しており、摂津?と長門?・壱岐?にそれぞれ住吉神社を創建しています。
立て看板の中に、中世の状態を描いた「博多古図」をプリントしたものがありました。
それを見ると、古来より大陸交通の要衝だった儺の津の入り江に突き出した岬に神社がありました。
船舶・航海の守護神として信仰されたのは、自然な流れだったのでしょうか。