加藤清正

Last-modified: 2010-02-02 (火) 09:41:08

生まれ

かとうきよまさ
1562年生まれ

どんな人?

戦国時代の武将
豊臣秀吉子飼いの将

肥後熊本藩初代藩主

おいたち年表

1562年0歳尾張の鍛冶屋・加藤清忠ねねのイトコである母から誕生!
 歳子供のいない豊臣秀吉ねねの子飼いとなっていく  
1573年11歳秀吉の小姓になる   
1576年14歳秀吉から170石もらう。秀吉から将来有望視され始める   
1582年21歳山崎の戦い。  
1583年22歳賤ヶ岳の戦いで大活躍!賤ヶ岳の七本槍の一人になる 
1585年24歳秀吉が関白になる  
1586年25歳九州征伐に参加  
1588年27歳熊本25万石の領主になる   
1592年31歳文禄の役。朝鮮へ渡る。ここで石田三成と対立。
三成の讒言で秀吉から怒られ蟄居。以後三成を恨むようになる   
1596年35歳伏見で大地震。この時すぐさま秀吉のもとに駆けつけ、忠義を認められ蟄居を許される   
1597年36歳慶長の役先鋒?として参加   
1598年37歳秀吉死去。石田三成憎さから徳川家康に近づく  
1598年37歳徳川家康の養女と結婚
1599年38歳前田利家が死去した後すぐ石田三成を襲うが失敗   
1600年39歳関ヶ原の合戦。九州にいて東軍につき毛利家をけん制する  
1609年48歳熊本城を築城   
1611年50歳徳川家康豊臣秀頼二条城での会見を浅野幸長とともに仲介する   
1611年50歳会見後の帰国途中、船の中で病気に。そのまま死去   

逸話

●背が大きかった。191センチあったといわれている
●口の中に握りこぶしが入る
新撰組近藤勇は尊敬する人が清正だった
●伏見で大地震が起きた時、すぐに秀吉のもとに駆けつけたことから「地震加藤」と呼ばれた
●突然の死去は徳川による暗殺の噂もある
●領民からも大人気だった
●清正の愛馬はものすごく巨大。帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)
●築城の名手
●熱心な日蓮宗の信者だった。そのため隣の領地のキリシタン大名小西行長が大嫌い
日蓮宗の式典などで、ダメな振る舞いをした武士を切腹させたりした
●晩年は恩のある豊臣をとるか、徳川をとるかでものすごく悩んだ
●潔癖症で、便所ではく専用の下駄の高さは30センチあった
●清正の不思議な予言

清正といえば熊本城!
ということでこのお城に清正はイチョウの木を植えました
その時に清正が「このイチョウの木が大きくなった頃、兵乱が起きるかもしれないな」とつぶやきました
その予言は見事的中!
何百年も後になりますが、イチョウの木が大きくなった頃、幕末のヒーロー西郷隆盛が挙兵し、熊本城は戦場となったのでした・・・・

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祐筆

●一番手・・・愛
●二番手・・・蒼天