奥平貞治

Last-modified: 2009-12-21 (月) 13:30:05

生まれ

おくだいらさだはる
生まれは不明
1600年関ヶ原の合戦にて死去

どんな人?

戦国時代の武将
奥平貞勝の子として生まれる。
奥平家は従う家を色々変えてる家だった。
貞治の頃の奥平家の当主はお兄ちゃんの奥平貞能で、武田信玄の跡継ぎ・武田勝頼から離れ徳川家康(前は徳川の家臣だった)に再び仕えようとしていた。

でもお父さんや次男の奥平常勝?なんかは「徳川家康はやだ!武田勝頼についてたほうがいい!」と主張。
とうとう長男と貞治は徳川につくことになった。

 

1586年、徳川家康豊臣秀吉が対面した時に秀吉が貞治を欲しがったため秀吉の家臣になった。
1600年に起きた関ヶ原の合戦の時は徳川方につく。
ここで結城秀康の下についた。
本戦のときは西軍だけど東軍に味方するよ!と言っていた小早川秀秋の監視役に。
でもいつまでたっても小早川秀秋が動かない。
とうとう家康が小早川秀秋のいる陣に向かって鉄砲を討ち、やっと小早川秀秋が「大谷吉継を狙えーー!」と寝返ることに。

 

が!!
ここで小早川秀秋の裏切り行為に納得できなかった人がいた。
それが小早川隊先鋒の松野主馬?

松野はどーしても主君の裏切りに我慢できなくって、戦線離脱してしまう。
そのため貞治が指揮官のいない松野隊を率いて大谷吉継を攻め込むことになった。

が、大谷隊も負けちゃいない。
ここで貞治は怪我をしてしまった。
この怪我が元で死んでしまったのでした。

逸話

●貞治には子が居なかったため、徳川家康は貞治母へ供養料300石を毎年渡すということで、貞治の勲功に報いた。


関連のある人々

父親・・・奥平貞勝
兄・・・奥平貞能

祐筆の人物批評

祐筆

●一番手・・・ハガクレ