生まれ
すえつぐ(もうり)もとやす
1560~1601年
どんな人?
毛利元就の八男
母親は側室
出雲国の末次城主になったので「末次」と名乗るようになった
32歳の時に豊臣秀吉による朝鮮出兵に参加した
40歳の時に関ヶ原の合戦が始まると、毛利家は「石田三成につくか徳川家康につくか?」でモメまくった
元康は家内をまとめようと画策しまくった
毛利本家の毛利輝元が西軍の総大将になったため、西軍につき、関ヶ原の本戦前日は大津城を攻め、京極高次を降伏させた
が、本戦には間に合わず、結局西軍は敗北してしまう
それを聞くとすぐさま大阪城へ行き、徹底抗戦の準備をすすめたんだけど、毛利輝元が大阪城を出たため、仕方なく退去した
その後所領を減らされ、42歳で死去した
逸話
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関連のある人々
父親・・・毛利元就
兄
毛利隆元
吉川元春
小早川隆景
二宮就辰
穂井田元清
毛利元秋
天野元政
弟
小早川秀包
正室・・・杉原盛重の娘
後妻・・・吉見広頼の娘・矢野局
息子・・・毛利元宣?
祐筆の人物批評
祐筆
●一番手・・・ハガクレ