生まれ
永禄3年(1560年)越後国魚沼郡上田庄坂戸城
父:樋口兼豊?
母:直江親綱女(泉重歳女とも)
樋口兼豊?の長男として、
越後の坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)に生まれたと言う説と、
湯沢町に樋口姓が多いことから越後湯沢で生まれたという説がある。
どんな人?
容姿端麗・明朗快活で義に厚い。
位の低い出自であったにもかかわらず自分を認めてくれた景勝には終生、恩を感じ、位の高低、富の有無で人間の価値を決めるような見方には強く反発する。
主君・景勝とともに上杉謙信の薫陶を受け「義」の精神、民を愛し、民と生きる心を受け継いだ。
知勇兼備の名将。
おいたち年表
1560年 | 0歳 | 誕生! |
1564年 | 4歳 | 上杉輝虎(謙信)の養子となった上杉景勝(当時の名乗りは長尾顕景)に従って春日山城に入り、そのまま上杉景勝の小姓・近習として近侍。 |
1578年 | 18歳 | 上杉謙信急死後の御館の乱では、父・兼豊と共に景勝方に付く。 |
1581年 | 21歳 | 上杉景勝の側近・直江信綱が殺害される事件が起きる。兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。以後、上杉家は兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る。 |
1583年 | 23歳 | 山城守を称する。 |
1584年 | 24歳 | 狩野秀治?が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次の殆どを担うようになる。 |
1586年 | 26歳 | 新発田重家の乱で、新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐。 |
1588年 | 28歳 | 関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続として改めて山城守の口宣案を賜る。 |
1589年 | 29歳 | 佐渡征伐に上杉景勝と共に従軍。その功により、平定後に佐渡の支配を命じられる。 |
1590年 | 30歳 | 小田原征伐に上杉景勝に従い、松山城を守備していた城代を降し、先兵として八王子城を攻略するなど関東諸城を攻略。 |
1592年 | 32歳 | 朝鮮出兵に上杉景勝と共に参陣して武功を挙げる。上杉領となった庄内地方においても大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切る。 |
1595年 | 35歳 | 上杉景勝が秀吉より越後・佐渡の金・銀山支配を任せられると、兼続はその代官となる。 |
1598年 | 38歳 | 正月、秀吉の命令で上杉景勝が越後から会津120万石に加増移封された際、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられる。8月、秀吉逝去。上杉景勝は大坂に登り翌年会津若松に帰る。 |
1600年 | 40歳 | 4月、上杉家、家康に謀反の疑いをかけられる。兼続は直江状を以って道路橋などの普請や新城の必要を説明し、密告者を究明してその真偽を確かめるべきと、堂々と申し開きをした。 |
1600年 | 40歳 | 6月、謀反の疑いを口実とし、上杉景勝征伐のため伏見を出発してきた家康を白河の南、革籠原に陣し、この地で敵を粉砕しようと待つ。 |
1600年 | 40歳 | 8月、戦機を窺っていた家康は上方で石田三成等の挙兵を聞き、小山を出発して上方に向った。その後兼続も米沢に帰って最上義光征伐の計画をたてる。 |
1600年 | 40歳 | 9月、約4万の兵をもって、敵の支城(畑谷城将江口光清)を攻め落し、進んで長谷堂城(城将志村高治)を囲み、最上軍及び援軍の伊達軍と戦った。若松へ上方の敗報到着し、景勝は即日、兼続に知らせ、直ちに退却を命じた。兼続は全軍を13隊に分け、鉄砲隊の援護によって、余り損害なく米沢に帰った。 |
1601年 | 41歳 | 上杉景勝とともに上洛して家康に謝罪する。家康から罪を赦された上杉景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許された。 |
1608年 | 48歳 | 重光に改名。 |
1609年 | 49歳 | 本多正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど、上杉家に大きく貢献。 |
1614年 | 54歳 | 大坂の陣においても徳川方として参戦し、鴫野の戦いなどで武功を挙げる。 |
1620年 | 60歳 | 江戸鱗屋敷で病死。 |
逸話
●『愛』と言う字を前立にあしらった兜が有名であるが、この『愛』の字については仁愛や愛民の『愛』だとする説や、軍神である愛染明王の『愛』の字を取ったものだと言われている
●正室のお船の方とは仲がよく、生涯側室を一人も持たなかった
●身長は当時の男性の平均身長が約160センチに対して、兼続は180センチ以上あったとされている
●マイ・ポリシーは「愛」
兼続の兜にはデカデカと「愛」という字が書いてあった。ステキ・・・
●兼続 閻魔大王に手紙を書く
兼続の家臣が人を切り殺した時のこと
殺された遺族たちが怒って兼続に直訴しました
兼続は家臣に「慰謝料を払ってあげなさい」と言いましたが、遺族たちは「そんなものいらない!生き返らせろ!!」と怒り収まらず
兼続は「死人をもとに戻すことはできない」と説得しましたが、遺族たちは納得しない
とうとう兼続は「わかった。しかたないからお前たちあの世に行ってくれぬか?」と、なんと遺族たちの首をはねてしまい、その首を河原にさらし、そしてその横に立て札をたてて「閻魔殿。この者たちを使いに出すので、申し訳ないが死人を戻してもらえませんか?」とお願いしたのでありました・・・
●兼続VS伊達政宗のイヤミ合戦
関ヶ原で負けてしまった兼続のいる上杉家は30万石になってしまいました
そんな兼続が大嫌いなのは伊達政宗
ある日、伊達政宗と江戸城ですれ違った時、政宗が「60万石のワシに挨拶しないとは無礼な!」とイヤミ
すると兼続「こりゃすまん!長年戦場でお目にかかってはいましたが、いつも後ろ姿ばかり(逃げる時)だったので、気がつきませんでした。正面から見るのは今日が始めててありますなぁ」とイヤミ返し!!
関連のある人々
●上杉景勝・・・兼続の主君。米沢藩初代藩主である
●お船の方?・・・兼続の正室
●大国実頼?・・・兼続の弟
祐筆の人物批評
由衣・・・主君と逆であったら天下を取ることができたであろうと思われます。ですが今の立場だからこそいいのかもしれません。主君・景勝を支え続けた忠義ある武士。もっと有名になってもいいはずの人物だったので、大河ドラマになり有名になって良かったです。
あいら・・・大河どらまみてからファン
藤原義信・・・大河ドラマで有名になった人なんですよね。人物的にもいい人だと思います
祐筆
●二番手・・・藤原義信「逸話と関連のある人々の所を付け足しました」
●三番手・・・ハガクレ 逸話をプラスしました