生まれ
どんな人?
元服後に長尾家家臣や豪族の心をすぐに掴むなど、カリスマ性に富んでいた武将。
自らを毘沙門天の化身と称す、天罰を信じて敵との戦に望む、短気である等、奇抜且つ苛烈な一面もある一方で、
よく涙を流す等、他の戦国大名とは違い非常に繊細な一面があったとされている。
遺品の甲冑の大きさから、身長は156cm程度。
血液型は、誓文の血判からAB型である。
栖吉城で生まれた、という説が伝わっている。
おいたち年表
1530年 | 1歳 | 誕生!長尾為景の末子として春日山城に生まれる。 寅年に生まれたため幼名を虎千代と名づけられる。 |
1536年 | 7歳 | 春日山城下の林泉寺に入り、天室光育禅師から厳しい禅の修業と文武の道を学ぶ。 |
同年8月 | 虎千代の兄・長尾晴景が家督を相続。 | |
同年12月 | 虎千代の父・為景が病死。 | |
1543年 | 14歳 | 元服して平三景虎と名乗る。長尾家領統治のため、三条城及び栃尾城に移り、城主となる。 |
1544年 | 15歳 | 近隣の豪族たちが景虎を若輩者と侮り、攻撃を仕掛けられるものの、栃尾城代本庄氏、三条城代山吉氏、栖吉城主長尾氏の協力もあり、敵を見事撃退。初陣を飾る。 |
1545年10月 | 16歳 | 12日、上杉家家臣黒田秀忠、景虎の兄・長尾景康を殺害して黒滝城に立て籠り謀反を起こす。晴景の命により景虎は、直ちに秀忠討伐の軍を向ける。その時秀忠は降伏する。 |
1546年2月 | 17歳 | 黒田秀忠が再び黒滝城にて謀反。景虎は越後守護上杉定実の命により黒滝城へ出陣。大いに破り、黒田氏を滅ぼす。 |
1548年12月 | 19歳 | 30日。景虎は越後守護上杉定実の調停により、栃尾城より春日山城に入り、兄・晴景と「父子の義」を結び、守護代長尾家を相続する。 |
1550年2月 | 21歳 | 上杉定実が死去し、越後守護上杉家断絶。将軍・足利義輝は景虎に実質的に国主大名としての待遇を与える。 |
同年12月 | 一族の長尾政景が坂戸城に立て籠もり、謀反。 | |
1551年8月 | 1日。長尾政景、景虎に誓詞を送り降伏。これにより越後をほぼ掌握。 | |
1552年1月 | 23歳 | 関東管領上杉憲政が北条氏康に敗れ、景虎を頼り越後へ逃走。景虎は憲政一行を快く受け入れ、憲政のために御館を築造した。 |
同年4月 | 後奈良天皇から従五位下・弾正少弼に叙任される。 | |
1553年2月 | 24歳 | 10日、兄・晴景が病死。 |
同年6月 | 武田晴信に領土を奪われた、村上義清・高梨政頼・井上清政・島津忠直・栗田寛明?ら信濃諸将が、景虎に援助を請う。景虎はこれを受け入れ、直ちに兵八千を率いて川中島へ出陣する。(第一次川中島の戦い) | |
同年9月 | 川中島より帰還。下旬には、精兵二千を率い初めての上洛を果たし、後奈良天皇、次いで将軍・足利義輝に拝謁する。 | |
1554年12月 | 25歳 | 北条城城主北条高広が、武田晴信の調略により謀反。 |
1555年1月 | 26歳 | 14日。安田城主安田景元に柿崎景家らと北条城攻めを行う様に命ずる。 |
同年2月 | 景虎自ら善根に出陣し、孤立無援となった北条高広は降伏する。 | |
同年7月 | 再び兵八千を率いて川中島に出陣。(第二次川中島の戦い) | |
同年閏10月 | 15日。今川義元の調停により、晴信と和睦して越後に帰還する。 | |
1556年6月 | 27歳 | 出家を決意し高野山へ向かう。この時、箕冠城主大熊朝秀が武田晴信と通じ謀反。直ちに春日山城に戻り朝秀を撃破、越後統一を完成させる。 |
1557年2月 | 28歳 | 15日。長尾方の葛山城が武田勢によって陥落。 |
同年4月 | 21日。先の盟約違反に激怒した景虎が、善光寺に着陣する。 | |
同年8月 | 29日。両軍は上野原にて交戦するも、戦線は膠着。(第三次川中島の戦い) | |
同年9月 | 景虎、旭山城を再興する以外の戦果もなかったが、越中にて一向一揆が発生した為、撤退。 | |
同年 | 足利義輝から長尾・武田の両者宛に和睦を勧告する御内書が届く。 | |
同年 | 上杉憲政の養子となる。 | |
1558年 | 29歳 | 上野に出陣する。下野にも進出するも失敗。 |
1559年4月 | 30歳 | 3日。兵五千を率い、上洛。 |
同年5月 | 1日。正親町天皇、次いで足利義輝に拝謁。その後は京周辺の仏閣等を周る。 | |
同年6月 | 29日。帰国の途に着く。 | |
1560年1月 | 31歳 | 正親町天皇の即位大典に幣物を献上して祝賀する。 |
同年3月 | 松倉城主椎名康胤を助ける為、富山城主神保長職を討伐。 | |
同年8月 | 関東管領・上杉憲政を奉じて、厩橋城に入城。厩橋城で越年する。 | |
1561年 | 32歳 | 年が明けると軍を率いて南下し、北条方の諸城を攻略。 |
同年3月 | 小田原城を包囲する。また、その間に上杉憲政より山内上杉家の家督と関東管領職を譲られる。名を政虎と改める。 | |
同年4月 | 松山城を落とし、越後へ撤退。 | |
同年8月 | 一万八千の兵を率い、川中島へ出陣。 | |
同年9月 | 10日、両軍、設楽が原にて激突。(第四次川中島の戦い)志駄義時?・庄田定賢ら戦死。 | |
同年12月 | 足利義輝より『輝』の字を拝領、輝虎と改める。 | |
1562年9月 | 33歳 | 7月と9月に越中に出陣。 |
1563年2月 | 34歳 | 北条・武田連合軍が松山を攻撃。援軍に向かうも到着を待たずに松山城は降伏。激怒した政虎は松山城将・上杉憲勝の子を斬り捨てたといわれる。また、その鬱憤晴らしか騎西城を落とす。 |
同年4月 | 小山城を攻略。 | |
1564年1月 | 35歳 | 29日、和田城攻略を止め、小田城攻めに向かいこれを攻略。城主・小田氏治は土浦城の菅谷政貞の元へ逃亡し、再起を図る。その後、唐沢山城を攻める。 |
同年2月 | 17日、唐沢山城主・佐野昌綱降伏。色部勝長らを唐沢山上に留めて守らせる。 | |
同年3月 | 武田信玄が信越国境に接近。直ちに関東から春日山城留守将の蔵田五郎左衛門?、萩原伊賀守?に実城を死守するよう厳命を出す。 | |
同年7月 | 下旬、兵を率いて春日山城を発する。 | |
29日に善光寺に着陣。 | ||
同年8月 | 1日、更科八幡宮に戦勝祈願をする。 | |
3日、仙川を渡り川中島に進み、武田勢との決戦に臨み、対峙する。(第五次川中島の戦い)。飯山城を修復する。 | ||
同年10月 | 両軍撤退。また、佐野昌綱が背く。 | |
24日、沼田城に着陣。 | ||
27日、唐沢山城を攻略。 | ||
同年11月 | 24日、虎房丸?と佐野の人質三十余名を連れ、色部勝長と共に帰国。 | |
1565年1月 | 36歳 | 8日、武田信玄が上野に侵入したとの報が入り、直ちに沼田城将松本景繁、河田重親?、小中大蔵少輔?、新発田長敦に警戒する様に命じる。 |
同年11月 | 北条氏康と武田信玄が関東の上杉方諸城を攻撃。出陣要請を受けた輝虎は関東に出陣。 | |
27日、館山城主里見義弘が参陣する。 | ||
1566年2月 | 37歳 | 小田城攻めを開始。 |
17日、小田城陥落。 | ||
同年3月 | 千葉胤富の属城である臼井城の原胤貞を攻める。しかし、千葉胤富と北条氏康が原胤貞を支援した為、攻略を諦める。 | |
同年5月 | 9日、関東より帰国。 | |
同年閏8月 | 12日、関東に出陣する為、上野の小泉城主富岡重朝に報ずる。 | |
同年9月 | 5日、上野の金山城主・由良成繁が背き、北条方に通じる。 | |
29日、武田信玄、上杉方の箕輪城を攻略。 | ||
同年12月 | 関東に出陣して沼田城に入り、佐竹義重に参陣を促す。 | |
1567年2月 | 38歳 | 下野の佐野昌綱が再び背く。小山秀綱?・太田資正に参陣を促し、昌綱の唐沢山上を攻める。 |
同年4月 | 6日、厩橋城将・北条高広、北条氏康に応じて謀反を起こす。輝虎は沼田城将の松本景繁・小中大蔵少輔?・柴田右衛門大夫?に北条高広討伐を命じる。 | |
同年5月 | 16日、色部勝長を唐沢山城将に任命し、自身は春日山城に帰還する。 | |
1568年 | 越中の椎名康胤、一向一揆と結び越後を脅かし始める。輝虎は、兵を率いて椎名の松倉城を攻め、さらに神通川を亘って放生津に陣を張る。 | |
同年3月 | 16日、守山城を攻撃し始める。しかし鳥坂城主中条藤資から「本庄繁長謀反」の報せを受け、攻撃を中止する。 | |
25日、春日山城に帰還する。 | ||
同年10月 | 20日、輝虎、春日山城を発する。 | |
同年11月 | 7日、本庄城攻めを開始。 | |
同年12月 | 28日、会津の蘆名盛氏と米沢の伊達輝宗が、本庄繁長を赦免するよう願い出るが、輝虎はこれを拒否する。 | |
1569年1月 | 39歳 | 9日、本庄繁長、少数の兵で輝虎の陣に夜襲をかける。この戦いにて色部勝長が戦死。 |
同年3月 | 本庄繁長、蘆名盛氏・伊達輝宗を通じ輝虎に助命を願い出る。これを容れた輝虎は、繁長の子である本庄顕長?を人質をすることを条件として本領を安堵し、自身は春日山城に凱旋する。 | |
同年8月 | 20日、椎名康胤を討伐する為に越中に出陣、境川を越える。 | |
22日、松倉城を攻撃開始。攻略する。尚、攻略後は、河田長親?を番将として配置する。 | ||
同年12月 | 20日、関東出兵。沼田城に入り、関東諸将に参陣を促す。 | |
26日、北条氏政は沼田城の輝虎に歳暮を送る。尚、関東で年越をする。 | ||
1570年1月 | 40歳 | 11日、佐野昌綱の唐沢山城を攻め、これを北条氏康に報じ、武蔵の岩槻城を太田資正に返還するよう要求する。 |
同年2月 | 18日、北条氏康は誓詞を送り、岩槻城を太田資正に返還し、人質を返すことを約束する。 | |
同年3月 | 5日、輝虎と北条氏康が和睦。(越相同盟) | |
同年4月 | 10日、沼田城にて、三郎と対面し、父子の義を定める。 | |
20日、春日山城に帰還。 | ||
25日、三郎に景虎と名付け、故・長尾政景の娘を景虎の妻とし、春日山城・二の曲輪に置く。 | ||
同年9月 | 5日、武田信玄が厩橋城を侵略しようとしているとの報を聞き、上野に出陣。 | |
同年12月 | 衝突は無く、帰還する。 | |
13日、春日山城にて越中平定の祈願文を納める。尚、これより法号・謙信と称する。 | ||
1571年10月 | 41歳 | 3日、小田原城にて、北条氏康が病死。 |
同年11月 | 大田城主佐竹義重が、武田信玄に通じ、小田原城主・北条氏政や小田城主・小田氏治らを攻める。救援を求められた謙信は、再び関東に出兵。上野の惣社に布陣し、武田勢と対峙する。 | |
同年12月 | 武田信玄の属城・石倉城を攻撃しようとしたが止めて、沼田城に入る。尚、関東で越年する。 | |
1572年閏正月 | 42歳 | 前述の石倉城を攻略。城郭を破却して厩橋城に凱旋。次いで、信玄・北条氏政と利根川を挟んで対峙する。 |
同年4月 | 何の成果も無いまま、春日山に帰還する。 | |
同年8月 | 18日、越中に入り、富山城を攻撃。 | |
同年9月 | 18日、武田信玄が春日山城大手口に侵攻するとの報に驚き、春日山城の警備を厳命する。 | |
同年10月 | 1日、富山城を攻略。 | |
18日、越中の椎名康胤が降伏を申し出るが許さず、帰還した。 | ||
1573年1月 | 43歳 | 越中に入り一向一揆を攻撃する。椎名康胤らが降伏。富山城に守兵を置き帰還する |
年3月 | 5日、椎名康胤が再び背く。謙信は再び越中に入り、富山城を攻撃。 | |
年4月 | 12日、武田信玄病死。 | |
25日、謙信は、越中から春日山城に帰還。 | ||
同年7月 | 椎名康胤、神保長職を討伐して越中平定。 | |
同年8月 | 10日、加賀・越中国境の朝日山城を攻めるも、一向衆の鉄砲攻撃に苦戦。 | |
21日、北条氏政が上野に侵入。関東諸将の要請により越中から帰国し、関東出兵の準備を進める。 | ||
1574年1月 | 44歳 | 26日、関東出陣の触れを出す。 |
同年2月 | 5日、沼田城に入る。徳川家康と呼応して武田勝頼を討伐しようとする。 | |
同年3月 | 上記を警戒して、織田信長が加納永徳筆の「洛中洛外図屏風」一双を謙信に送って機嫌を取る。 | |
同年4月 | 13日、北条氏政と利根川を挟んで対峙し、進んで由良成繁の上野・金山城を攻め、武蔵の鉢形城・忍城・騎西城を放火する。 | |
同年閏10月 | 19日、武蔵の羽生城を破却し、騎西城に放火して、この日に厩橋城に入る。 | |
同年12月 | 越後に帰国する。 | |
1575年1月 | 45歳 | 11日、養子・喜平次顕景に加冠し、景勝と改めさせる。 |
同年2月 | 16日、諸将の軍役を定める。 | |
1576年2月 | 46歳 | 本願寺蓮如と講和。 |
1576年3月 | 蓮池城を攻略。城主・椎名康胤は自害。 | |
同年5月 | 18日、本願寺蓮如との和睦が成立。 | |
同年9月 | 上洛への道を開く為、越中に進軍。 | |
8日、湯山城を包囲し、飛騨口に2城を築き、一向一揆に備える。 | ||
同年12月 | 能登に侵攻、その大部分を平定する。 | |
19日、七尾城を包囲する。 | ||
24日、石動山城を築き、直江景綱、河田吉久?、吉江資堅らに守らせる。 | ||
1577年1月 | 47歳 | 木楽口にて七尾城兵と交戦、打撃を被る。 |
同年2月 | 七尾城総攻撃の準備を進めていたが、北条氏政が謙信方の関東諸城を攻撃。関東諸将の要請を受ける。 | |
同年3月 | 春日山城に戻り、関東出陣の陣触れをする。この時、能登畠山氏の重臣・長続連が織田方に寝返り、謙信方の熊木城・富木城を奪回し、穴水城に迫るとの報せを受ける。 | |
同年閏7月 | 春日山城を出陣し、能登を目指す。 | |
17日、天神川原に陣を定める。 | ||
同年9月 | 15日、遊佐続光に密書を送り、内応を誘う。続光は、温井景隆?と共にクーデターを起こし、長続連を含む長一族を殺害し謙信に投降。七尾城は陥落。(七尾城攻め) | |
18日、謙信、織田勢が手取川を越えたとの報を受ける。 | ||
23日、織田方は七尾城落城を報せを受けると浮き足立ち、夜陰に紛れて退却し始めるも、大雨のせいで手取川が増水して逃げ場を失い、そこに上杉勢が急襲を仕掛ける。(手取川の戦い)? | ||
26日、七尾城を修築。鯵坂長実?・河田長親?・遊佐続光らに守らせ、春日山城に帰還する。 | ||
同年12月 | 23日、謙信は、上杉軍団81名の動員名簿「上杉家家中名字尽本」を作成。 | |
1578年3月 | 48歳 | 9日、春日山城の厠にて倒れる。 |
13日、そのまま一度も目覚める事無く、没。法名・不識院殿真光謙信。 |
逸話
●慈悲深い人物であった。北条高広は2度、本庄繁長は1度、謀反したのにも拘らず帰参させている。また、幾度も反乱を起こした佐野昌綱や、椎名康胤も降伏すれば命まで奪うことは無かった。
●戦場においては、たとえ銃弾が頭をかすめたとしても、自分には当たるわけが無いと信じて恐れもなく戦った。
●村上義清が景虎を頼って越後に来た時の事。謙信は義清に「晴信の兵の用い方はどんなものか?」と聞いた。
義清は「ここ十年間晴信が勝利を得ているが、後の事を考えて慎重に物事を運び、軽率なことは少しもなく、かっても戦前より一層用心深くなり、十里動く所を三里か五里にとどめている」と答えた。
景虎はそれを聞くと「晴信の兵の使い方は、後々を大切にするという事、つまり国を多く取ろうという考え方が基本となっているからだ。自分は国を取る事は考えず、また後々の勝利も考えず、目前に迫っている一戦を大事にするだけである」と言ったという。
●部下達は、謙信の食事により出陣の有無を知った。
●信玄の死を食事中に伝え聞いた謙信は「私は好敵手を失った。再び彼のような英雄にはもう出会えないだろう」と言った。
●信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶めたりする事は、謙信の道徳観に反しており、謙信は信玄の行いに激怒したと言う。
●家臣の亡霊に悩まされた!?
上杉家に仕えていた柿崎景家
景家は猛将で、常に上杉軍の先鋒として活躍していました
が、景家に謀反があるという信長の謀略にひっかかった謙信
景家を殺してしまったそうです
そんな謙信は死ぬ前、無実を訴える景家の亡霊に悩まされたと言われております
●敵に塩を送る・・・の美談
謙信のライバル・武田信玄の領地は海がないため、駿府や相模から塩を買っていました
が、駿府の今川家と信玄がケンカ
怒った今川は、相模の北条と相談して「あいつのとこに塩を送るのやめようぜ!」と、塩止め作戦をスタートさせたのです
それを聞いた謙信は「信玄と争うのは弓矢である。米や塩などがなくては民が気の毒である」と、信玄のところに塩を送ったのです
まさに「敵に塩を送る」なのでした
※が!これは美談であって、ホントのところはただたんに「商売」のため。というのも、謙信のいる越後の塩はずっと前から信州の松本にも送られていた。ということで、謙信は塩止めをせず、そのまんまフツーに商売をしていたのであります
関連のある人々
父・・・長尾為景
母・・・青岩院(虎御前)
養父・・・長尾晴景、上杉憲政
兄弟
長尾晴景
長尾景康
●越後の国人衆
鮎川清長
鮎川盛長
荒川長実
色部勝長
上野家成
大熊朝秀
小国頼久
柿崎景家
加地春綱
河田長親?
北条高広
小島弥太郎
斎藤朝信
新発田長敦
下平修理亮?
竹俣清綱
竹俣慶綱
直江景綱
中条藤資
中条景泰
本庄実乃
本庄繁長
●他国の家臣
小島職鎮?
椎名康胤
長尾輝景
長野業正
長野業盛
温井景隆?
遊佐続光
大宝寺義勝?
大宝寺義興?
藤田信吉?
●上杉一門
●他
加藤段蔵
●主な敵対勢力
武田信玄
北条氏康
佐野昌綱
一向衆?
畠山春王丸?
織田信長
祐筆の人物批評
むっちゃん・・・戦国時代の人物の中では好きな人ベスト3に入ります。清廉潔白というイメージがあります。あ、女性説というのも気になります
由衣・・・謙信が天下を欲しがったら、天下は取れたかもしれません。が、天下を取らず義をとるという姿勢は、歴史上の人物の中でもほれ込むに値します。彼の志に打たれた直江兼続など、優秀な家臣を残しているのも上杉ならでは。
かこりん・・・すごいね!これ作った人
祐筆
●一番手・・・
●二番手・・・鱒
●三番手・・・ハガクレ 逸話をちょこっとプラス