生まれ
さなだゆきむら
(真田信繁)
1567年生まれ
1615年没
どんな人?
戦国時代の武将
おいたち年表
1567年 | 0歳 | 甲斐の武田信玄の家臣で後の信濃国上田城主真田昌幸の次男として誕生! |
1575年 | 9歳 | 長篠の戦で武田勝頼が織田・徳川軍に大敗。 父の兄2人が戦死したため父の真田昌幸が家督を継ぐ。信濃国上田に移る |
1582年 | 16歳 | 武田家滅亡。武田勝頼が天目山の戦いで織田・徳川軍に負け自害。 |
1582年 | 16歳 | 真田家は織田家に仕えるも、本能寺の変以降は徳川家康に仕える。 が、不満を持ち上杉景勝の家臣になる |
1585年 | 19歳 | 主家を豊臣家に替え、幸村は豊臣秀吉の元で過ごす |
1590年 | 24歳 | 豊臣秀吉の小田原城攻めに参戦。前田利家の与力として活躍する |
1591年 | 25歳 | この頃、大谷吉継の娘と結婚する。豊臣秀吉から豊臣姓を許される |
1598年 | 32歳 | 豊臣秀吉の死後、徳川家康に従う |
1600年 | 34歳 | 徳川家康の会津征伐軍に加わったものの、石田三成挙兵を知ると父昌幸とともに西軍につくことを決意。 兄の真田信之は東軍についた。どちらが勝っても真田家を存続させるための作戦。 |
1600年 | 34歳 | 関が原の戦いでは、関が原へ行くため中山道を進んできた徳川秀忠軍をおびき寄せ、 秀忠軍を戦に参加させなかった。 が、西軍は敗北。 戦後は、東軍についた兄・真田信之の嘆願により、父親とともに高野山への謹慎となった |
1601年 | 35歳 | 高野山から九度山へ |
1601年 | 35歳 | 長男・大助(真田幸昌)誕生。 |
1611年 | 45歳 | 昌幸死去。 |
1614年 | 48歳 | 徳川家康からイチャモンとつけられた豊臣秀頼のが兵を大阪に集める。 長男大助とともに蟄居先していた九度山を抜け出し大坂城へ。 集まった浪人のうち長宗我部盛親、後藤又兵衛、毛利勝永、明石全登と幸村は大坂城五人衆と呼ばれる。 幸村は城外に討って出る作戦を主張するも受け入れてもらえず篭城することに。 幸村は大坂城の弱点玉造口に出城の真田丸を築き、大坂冬の陣では徳川方に勝利した。 が、毎日の大筒攻撃に脅えた大坂城では和睦をすることに |
1614年 | 48歳 | 徳川家康にスカウトされるが断る |
1615年 | 49歳 | 大坂夏の陣。もはや後がないため、必死で家康の陣へ突入。 その攻撃はすさまじく、家康も自害を覚悟するほどだったが、多勢に無勢。 とうとう追い詰められ、自害した |
逸話
●時代が違えば芸人か!?
幸村はとっても明るい性格だったというお話が残っています
お兄ちゃんの信幸が「幸村はサ、すっごい明るいんだ。それにちょっとしたことで怒らないんだよね」と語っていたとか
また家臣たちは「幸村殿が来ると、その場がとても和むんです」と言っていたとか
どうやら冗談を言って皆を笑わせるのがスキだったようです
●家康叫ぶ!!「親のほうか!?子のほうか!?」
関ヶ原の合戦も終了し、あとは邪魔な豊臣家をぶっ潰すだけとなった家康
早速大阪の陣をスタートさせることに
そこへニュースが
「真田が大阪城に入ったそうです」
すると家康、ガバっと布団から起きて「それは親(真田昌幸)のほうか!?子(真田幸村)のほうか!?」
家臣は「親のほうは去年病死いたしました。大阪城に入ったのは息子・幸村であります」
家康はホッと一安心したのでした
・・・・が、家康の安心は思いっきりハズれることとなり、子のほうは親と同じく戦略家だったのでありました
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関連のある人々
両親
真田昌幸 ・・・父親
宇多頼忠の娘・山手殿・・・母親
兄弟
真田村松
真田信之・・・信濃松代藩初代藩主
真田信勝
真田昌親
姫・・・小山田茂誠室
姫・・・真田幸政の妻
姫・・・鎌原重春の妻
姫・・・保科正光の妻
菊姫・・・最初は宇多頼次?と結婚し、その後滝川一積の妻になる
姫・・・妻木頼照?の妻
於楽
妻
正室:大谷吉継娘・竹林院
子供
長男:真田幸昌
祐筆の人物批評
むっちゃん・・・生き様がかっこいい
祐筆
●一番手・・・愛。めっちゃがんばりました!幸村大好き!!
●二番手・・・ハガクレ 逸話だけプラス