AAR/大スラヴィア帝国/ボヘミア公国時代

Last-modified: 2020-10-18 (日) 08:53:55

黎明の時代 ボヘミア公ネクランの治世

プシェミスル家の当主にしてボヘミアの君主、ボヘミア公ネクランは67歳という老境に入っていたが長男も健在でありさらに長男は男児にも恵まれていたため家の存続は安泰であった。
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しかしボヘミアを取り巻く情勢は決して楽観できるものではなかった。
西のカロリング帝国の後継国家の一つ東フランク王国はカトリック教化の名のもと東への進出を図っており東の大モラヴィア王国は再三にわたってボヘミア公に臣従を要求していた。
これらの外圧を受けネクランは長年連れ添った妻と別れ隣国である下シレジア公の血族と婚姻を結び、軍事同盟を締結することによって自国の独立を図った。
この同盟は見事に働きネクランの残り10年の治世は一度も戦争が起きず、その間ネクランは領国開発を進めた。
この後数百年にわたりのボヘミアの重要な財源になるクトナーホラ銀山の開発もネクランが着手したという。
しかし鉱山の完成を見ることなくネクランは老衰によって永眠した。

享年77歳

黎明の時代 ボヘミア公ホスティビットの治世

ネクランの跡は継いだのは長男ホスティビット
彼の治世については記録はあまり多くない。なぜなら57歳で公位を継承し2年後に亡くなったためだ。
しかしボヘミア公としてクトナーホラ銀山とその開拓地の完成を見届けそれを記念して銀貨を発行したという。
これをきっかけにボヘミアでは貨幣経済が浸透していったとされる。
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享年59歳

動乱の時代 ボヘミア公ボジヴォイの治世

ホスティビットの死後、公位を継承したのは長男ボジヴォイ
彼の治世は戦乱に明け暮れた治世であった。ボヘミア公が二代続けて代替わりしたことによる内乱を狙いキリスト教国であるオーストリア公爵がボヘミアに侵攻したのである。
ボジヴォイは銀山が生み出す富と自らの知略をもって数に勝るオーストリア公爵を退けることに成功し、なんとか独立を堅持する。
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しかしこの戦で負った戦傷をきっかけに14年の治世に幕を下ろす。
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享年41歳

一方、同時期に東フランク王国が代替わりによって南部がバイエルン王国として分離独立。長男が受け継いだ北部の領土はヴァイキングの侵入によって崩壊しボヘミアとおなじく戦乱の時代を迎えていた。

拡張の時代 ボヘミア王ジェネクの治世

ボジヴォイが戦傷によって陣中で亡くなった後、跡を継いだのは長男のジェネクであった。ポジヴォイの死と跡継ぎがわずか11歳の小僧と知ったキリスト教諸国は相次いでボヘミアに侵攻。ジェネクも先代と同様に戦乱に明け暮れることになる。
ジェネクは多くの傭兵を用いて侵攻を退けた。特に南の大国バイエルン王国は三度にわたってボヘミア王国に侵攻したが侵攻軍をジェネクはことごとく粉砕し疲弊したバイエルン王国は内乱期を迎えることとなる。
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バイエルン王国に内乱が発生したことによって外敵の脅威がさったと判断したジェネクは隣国モラヴィア王国に侵攻した。
モラヴィア王国はかつては大国でありスラヴ人のキリスト教化を推進していたが異教徒の侵入によって勢力を減退させつつあった。さらに有力家臣であるニトラ公爵軍がボヘミア侵攻に失敗し軍隊が壊滅したことによって抵抗を行う力はなくボヘミア公国に王国の中心地モラヴィア地方を明け渡した。
ボヘミア公ジェネクはモラヴィア地方を併合し国号をボヘミア王国と改め初代国王として即位を宣言。
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更に東フランク王国の崩壊によって分裂した北部へ遠征を行いカトリック諸侯を次々に征服し領土を大きく広げ、さらにランメルスベルク銀山を手中に入れておりクトナーホラ銀山と並んでボヘミアの発展を支えた。
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北方遠征後は急拡大した国内の安定に努め老衰によって亡くなった。
彼の60年近くにおよぶ治世と功績からボヘミア建国の英雄として讃えられている。

享年69歳