佐太天神宮

Last-modified: 2013-10-05 (土) 17:08:39
 

佐太天神宮
さだてんじんぐう
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(参拝日:平成25年4月29日)
住所:大阪府守口市佐太中町7-16-25mapionlogo.gif
主祭神:菅原道真
主な祭礼:10月19日(例大祭)

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↑神門↑
(由緒:パンフレットより)
当宮は、学問の神様として崇敬厚い菅原道真公を御奉祀する神社であります。

昌泰四年(九〇一)に菅公が筑紫の太宰府に遷せられし途中、公の御領地であった当地に暫時滞在され、
その出立にに際して御自身の木像と自画像を残されました。

この時楊枝を土に挿し「わが身の無実の罪たる証拠として二葉の松となって生い栄えよ」と誓われたところ、
程なく発芽して、見事な松の木に成長したので、その名を「アカ松」(明しの松)と称え、
跡地に「アカ松」の名を今に留めています。

延喜三年(九〇三)二月二十五日、公が大宰府で薨去されてより五十年後の村上天皇天暦年中に、里人がその徳を慕って、
残しおかれた木像をお祀りしたのが佐太天神宮の創建であります。

それより河内国茨田郡大庭荘の惣社となり、天正八年(一五八〇)小出播磨守秀政侯が、
続いて元和元年(一六一五)大坂夏の陣の後、三代目吉英侯が社殿を再興、
現在の社殿は江戸時代の老中を務めた淀城主永井信濃守尚政侯が、当宮の社宝である『天神緑起と勧化帳』
(文安三年[一四四六])を見て大いに崇敬し、再興したものです。

まず、寛永十七年(一六四〇)に本殿が再興され、続いて慶安元年(一六四八)に拝殿、神門、鳥居等が造営されました。
いずれも現在に至っておりますが、特に本殿は江戸初期の建築様式を今に伝えるものとして貴重な建造物であります。

正保三年(一六四六)『河内国佐太菅廟記』の中で、儒家、林法験道春(林羅山)は、
佐太天神を北野?太宰府と合わせて三天神と称えています。

又、明暦二年(一六五六)大徳寺の天佑の手記によれば「京より西し、或は西国より上洛する者、老若男女貴賤を問わず、
皆此の宮に詣でて、その輪奐の美に惑ぜざる者無し」と述べています。

以来、三百有余年の間五十年毎に御神忌大祭を齋行し、例年正月、五月、九月の三回に連歌を奉納して近年に至りました。

明治元年三月二十二日、明治天皇大阪行幸の御途次、当宮にあらせられました。

当宮御神殿の額『佐多天満大自在天神』は曼珠印良恕親王の御筆によるもので、
一の鳥居の額『佐太天神宮』は二品竹内御門主良尚親王の御筆によるものであります。

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↑社殿↑
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↑佐太戎社↑
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↑稲荷社↑
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↑手水鉢「願主 淀屋右衛門」↑
(以下、余談)
阪神高速12号・守口線の終点からしばらく国道1号線を京都方面に走ると神社が見えてきます。
守口市の端に位置し、神社は寝屋川市境と接しています。

神社は淀川左岸に面し、菅原道真公が太宰府に流される途中にしばらく船を繋いだ処らしいです。
『河内名所図会』に神社の名前がみえ、近年では『聖跡二十五霊社巡拝双六』を見て訪れる人が多いらしいです。
御朱印と一緒にその双六のコピーをいただきました。天神様の事績と関係する神社が記されています。

江戸時代の大商人・淀屋右衛門が願主となって奉納した手水鉢が境内にあります。
数年前の社殿の工事の際、天井の梁から寄進者の名前を書いた額が見つかりましたが「淀屋」の名前がありました。
淀屋辰五郎や永井尚政・尚庸父子の支援を受けて、江戸時代初期の現在の社殿が整備されました。