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「寺門伝記」補録第五・三尾明神祠、及び古説によれば三尾明神は次の如く言い伝えられている。
その昔、伊弉諾尊がこの地に降りられ長等山の地主神となられた。
この神は常に三つの腰帯をつけておられ、その色は赤・白・黒、その形は
三つの尾を引くのに似ていたので三尾明神と名づけられた。
ある時、その三つの腰帯が赤尾神・白尾神・黒尾神となられ、
その中で赤尾神が本神とされ、その出現は太古卯の年、卯の月、卯の刻、卯の方とされる。
白尾神は文武天皇の大宝年中に、
黒尾神は称徳天皇の神護景雲三年(七八九)三月十四日(第二の卯の日)の出現とされている。
社殿に関しては、貞観元年(八五九)卯の年、園城寺の開祖である智証大師円珍が
琴雄谷に復興の後、室町時代、応永年間に足利将軍が現在の本社を再興されたものである。
慶長年間には、太閤秀吉が社殿の修理を加え、若干の朱印を下附せられた。
本社が現在地に移ったのは明治九年五月十二日のことであり、明治十四年に郷社に加列され、
明治二十二年には内務省古社保存資金下附、明治四十三年に県社に昇格している。
また、平成二十一年十一月には本殿が滋賀県文化財に指定されている。
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長等山東麓を流れる琵琶湖疏水のトンネル入口付近に鎮座します。
この長等山の下を通るトンネルは明治23年(1890年)4月に竣工したもので全長2500m以上あります。
当時としては最長のトンネルで、当初は完成が疑われましたが、竪坑など日本初の技術が使われました。
琵琶湖からの取入口と蹴上の落差はわずか4m、全長は12kmになります。高度な技術が使われたのですね。
トンネルを抜けた疎水は山科・御陵を通り、蹴上の水力発電所(電力事業用としては日本初)に至ります。
他にも日本発のコンクリート橋など見所が沢山あります。当時としては大プロジェクトだったのでしょう。
大幅に話題が逸れました。神社のことに話を戻します。
神紋は「真向きのうさぎ」です。昔から兔が神の使いと『寺門伝記』に記述があります。
三尾明神が卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方より出現したとの言い伝えがあります。
応永年間には足利将軍が現在の本殿を再興しました。
明治になって現在地に移りました。本殿は滋賀県文化財に指定されています。
長等神社や志賀八幡神社と同じく、ここも台風18号の大きな被害が残っていました。
上の写真でもたくさんの人が写っていますが、消防署の方をはじめ、たくさんの方が作業されていました。
その方々が乗ってきたと思われる自動車が境内を埋め尽くすくらいに止まっていました。
こんな忙しいときにお邪魔して申し訳ないです・・・
一日も早い復旧をお祈りしています