忍陵神社

Last-modified: 2013-06-29 (土) 22:11:57
 

忍陵神社
にんりょうじんじゃ
しのぶがおか.jpg
(参拝日:平成25年4月29日)
住所:大阪府四條畷市岡山2-7-12mapionlogo.gif
主祭神:藤原鎌足
社格:式内小社、村社
主な祭礼:10月10日(例祭)

しのぶがおか1.jpg
↑鳥居↑
(由緒:パンフレットより)
当神社は当地の豪族津桙氏の氏神として創建されたもので延長五年(九二七年)に選定された延喜式神名帳には
河内国讃良郡鎮座津桙神社と記されており江戸期の神社縁起によれば人王四十代天武朝(六七五年頃)に
熊野皇大神を勧請、又清和朝(八七〇年頃)に鎌足公幼少の頃当地に居住せしとの謂れより武運長久を祈り
忍岡に鎌足大明神と号しお祀りした記述があります。

尚創建時は大字大岡山八幡山に鎮座し、奥之宮・下之宮と境内外地は一五,〇〇〇坪余を有しておりましたが、
寛永十一年(一六三四年)に忍岡の地に遷座、明治四十四年(一九一一年)に鎮座地の地名に因んで忍陵神社と改称
すると共に砂東村(現在の字名奈良田畑地区周辺)の氏神馬守社と砂西村(現在の砂地区一帯)の氏神
大将軍社の大神を合祀致しております。

この合祀された馬守大神は古来より牛馬畜産の神として信仰され大将軍神は日本最古の方除神として崇敬されております。

又現在の社殿は昭和九年(一九三四年)室戸台風により倒壊した旧社殿跡に馬守社の社殿を
昭和十年(一九三五年)解体移築したのですが、この社殿も江戸末期(一八六五年)から明治初期(一八八〇年)の
建物である事が判明しております。

この社殿移築工事中に社殿東側から古墳時代前期(四世紀頃)の竪穴式前方後円墳石室が発見され、
保存の覆屋が設けられ貴重な文化財(大阪府指定史跡)として現存しております。

特に忍岡の丘陵地は古代より開け栄えた処でありますが、境内東参道入り口に往時この地を訪れた歌人が詠んだ
忍岡古歌を刻んだ歌碑が建立されており、又永禄六年(一五六三年)にはこの処が岡山キリシタン発祥の地として
文献に登場、立派な教会が建っていた記述もあり、元和元年(一六一五年)大坂夏の陣には徳川方の本陣が設けられ
江戸幕府成立に重要な役割を成した処でもあります。

この歴史ある鎮守の杜も私達の祖先が幾多の困難を乗り越えて今に継承されて来た努力を考える時
この「心のふるさと」忍岡の杜を絶やす事なく次世代に引継ぐ事がこの地域に住む私達の責務であると思います。

戦後荒廃していた境内も昭和五十八~九年(一九九三~四年)に第一次神域整備が行われ、
平成八年(一九九六年)に第二次境内整備として参道の補修・玉垣増設・スロープの新設・東参道鳥居の再建を行い、
平成二十四年(二〇一二年)秋には地域の人達の参道を得て古事記編纂一三〇〇年に事よせて
御社殿を改修すると共に社務所・神具庫を再建し今に至っております。

しのぶがおか2.jpg
↑社殿↑
しのぶがおか3.jpg
↑忍陵古墳↑
しのぶがおか5.jpg
↑行者堂↑
しのぶがおか4.jpg
↑御神木 櫟↑
(以下、余談)
JR学研都市線忍ヶ丘駅近くの宅地の中に丘に鎮座します。
社名は「にんりょう」のほかに、駅名と同じく「しのぶがおか」とも読みます。

戦国時代には三好長慶が居城・飯盛山城の支城として、忍岡古墳の丘陵を利用して岡山城を築きました。
慶長20年(1615年)大坂夏の陣の際、徳川方の本陣が置かれ勝利した縁起のよい場所として「御勝山」と称されました。

現在の神社は、平成二十四年に本殿や社務所を再建しているので、見た目には非常に新しい神社でした。
ですが、覆屋に囲われた忍岡古墳の石室が四世紀頃の遺構として残されており、歴史を感じました。
これは1934年(昭和9年)室戸台風により倒壊した神社を再建する際、発見した竪穴式石室です。

本殿から丘を下り、右手に回り込んだところに行者堂という建物があります。
正式名称は「岡山行者堂」といい、「赤山の頂上に建立されていたが、当地に移動した」との記述があります。
津桙神社の縁起に「役行者開基」とあり、神社が遷座した際に当地にこの建物が遷ったものと思われます。