沖田神社・道通宮

Last-modified: 2013-04-28 (日) 07:35:40
 

沖田神社・道通宮
おきたじんじゃ・どうつうぐう
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(参拝日:平成24年12月22日)
住所:岡山県岡山市中区沖元411mapionlogo.gif
主祭神:天照大御神、素戔嗚尊、軻遇槌命、倉稲魂命、句句廼智命、おきた姫
社格:県社
主な祭礼:5月10-11日(春期例大祭)、10月10-11日(秋季例大祭)

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↑沖田神社 鳥居↑
(由緒:パンフレットより)
【沖田神社】
備前国藩主池田綱政公時代に開墾せられた沖新田の産土神として藩公の建立せられたものである。

元禄五年(一六九二年)正月十一日津田永忠が鍬初めをなし実に驚くべき短期間で
潮留め・築堤・疎水・検地を終り約二千町歩にわたる墾田を得、
元禄七年四月に沖新田全体の産土神として、一社を建立せんとし京都の吉田殿に見垣近江守を遣わして正印を勧請した。

同年五月二十三日に『沖田神社』神宣を下付される。

しばらくの間御野郡(現在の岡山市南区福島)住吉宮に鎮座し同年九月三日旧沖田神社
(岡山市中区沖元宮現在の古宮様)へ御遷宮申し上げた。

しかし境内地低く、大風・高潮・洪水には拝殿までも水が差し込む事があったので
十四年後の宝永六年(一七〇九年)現在地に移し奉り今日に至っている。

歴代藩主の崇敬篤く毎年社領五十石(一二五俵)を寄進された。
明治時代に郷社となり大正年間に県社に昇格する。
現在は岡山市中区沖田地区(沖元・桑野)三蟠地区(江崎・江並・藤崎・新築港)操陽地区(倉田・倉富・倉益)
光政地区(光津・政津)津田地区(君津・升田)九蟠地区(豊田・九蟠)氏子三千戸の産土神として
一郷尊信の中心である事は勿論岡山県民崇敬の神社である。

【道通宮】
今を去る天正十年(一五八二年)六月四日備中城主清水宗治落城のおりに次男清水長九郎密かに敵のすきを窺い、
家臣一人従えて逃走する際に、かねてより信仰する道通宮に
『首尾よく逃げれさせ給わば我家末代に至るまで鎮守として奉祠する』と祈願するやすなわち霊験顕れ、
眷属白蛇に守り導かれ、浅口郡西大島御滝山に難なく逃れることを得た。

ここに道通宮を鎮守、蛇はお使いしめとして奉斎し、その子孫は山麓に住居して村民となり四代の後、
伝兵衛の子孫和平治の代になって神威恐れ多く寛政十二年(一八〇〇年)四月十二日沖田神社へ遷し祀り、
現在に至っている。

霊験著しく信徒崇敬者は県内はもとより全国に及んでいる。

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↑沖田神社 拝殿↑
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↑沖田永忠像↑
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↑道通宮 鳥居↑
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↑道通宮 拝殿↑
(以下、余談)
百間川が海に注ぐ臨海地帯、道路は整然と縦横に通っています。
この辺りは沖新田という干拓地で、江戸時代に津田永忠が開墾しました。

もとは岡山市沖元宮の古宮神社がある場所に神社がありましたが、
土地が低いためか水害にあうことがしばしばありましたので、現在地に遷りました。

その沖田神社と同じ敷地に道通宮があります。
備中高松城だった清水宗治の次男・長九朗が落城の際、信仰していた道通宮に次のように祈願しました。
「首尾よく逃れさせ給らば我家末代に至るまで鎮守として奉祀する」
祈願の通り、浅口郡西大島御滝山に逃げおおせました。江戸時代、子孫が当地に祀りました。

最近、拝殿を建替えたようで、非常にきれいな境内でした。