日牟禮八幡宮

Last-modified: 2013-05-10 (金) 23:32:03
 

日牟禮八幡宮
ひむれはちまんぐう
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(参拝日:平成24年10月8日)
住所:滋賀県近江八幡市宮内町257mapionlogo.gif
主祭神:誉田別尊、息長足姫尊、比賣神
社格:県社、別表神社
主な祭礼:3月14-15日(左義長まつり)、4月14-15日(八幡まつり)
webサイト:日牟禮八幡宮

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↑楼門↑
(由緒:パンフレットより)
伝記によれば、第十三代成務天皇高穴穂の宮に即位(一三一)の折、
武内宿禰に命じて、この地に大嶋大神を祀られた(地主神・大嶋神社)のが
比牟礼社の鎮座の始めと記されています。

應神天皇六年(二七五)天皇近江行幸の折、
奥津島神社に参詣されて還幸の折に宇津野々辺に御少憩になり、 御座所を置かれた。

その後年を経て御仮屋の跡に、日輪の形二つ見ることが出来た。

それ故に祠を 建て「日群之社八幡宮と名付く」と記され、
持統天皇五年(六九一)藤原不比等が参拝し、和歌を詠んだに因み日牟礼社に改むとあります。

第六十六代一條天皇の勅願により、正暦二年(九九一)法華峰(八幡山)に社を建て、
宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀り、
寛弘二年(一〇〇五)遥拝の社を麓に建て「下の社と号す」とあり、
現在の社は麓の社に相当すると解することが出来ます。

上下に社殿を整えた八幡さまには、皇室のご崇敬も篤く
弘安四年(一二八一)蒙古襲来の時奉幣あり、康安二年(一三六二)後光厳天皇、
永和元年(一三七五)後圓融天皇と両度とも綸旨を下して 天下の静寧を祈らせ給ひ、
又足利、徳川両将軍家を始め、近江の守護佐々木六角氏以下武家においても、
或は神事の退転を防ぎ又社領を寄進するなど、種々の尊崇の実を尽くされたのであります。

天正十八年(一五九〇)豊臣秀次公法華峰に八幡城築城のため、
上の八幡宮を麓の社に合祀し替地として日杉山に祀る計画であったが、
秀次公は文禄四年(一五九五)自害に及び、日杉山に社は建設されず、
現在の如く一社の姿となったのであります。

慶長五年(一六〇〇)九月十八日徳川家康公関ヶ原決戦の後武運長久の祈願を籠めて参詣し、
御供領五十石の地を寄附せし旨が残されてあり、寛永二十年(一六四四)家光公より御朱印下附があり、
以後寛文五年(一六六五)家綱公の御朱印も残されてあり、徳川氏が当社に尊崇を挙げたものと解されます。

明治九年(一八七六)郷社に列し、大正五年(一九一六)県社に列せられ、
昭和四一年(一九六六)には神社本庁別表神社に加列、神社名を日牟礼八幡宮と改称しました。

秀次公の八幡城は廃城となったが開町された城下町は商人町として発展し、
近江商人を育て、近江商人の守護神として崇敬を集めたのであります。

特に正保の頃、近江商人の亀鑑として、安南屋、西村太郎右衛門の事跡は、奉納絵馬、安南渡海船額、
正保四年(一六四七)が、日本海洋史好古の資料として、菱川孫兵衛の筆と共に珍重され、
重要文化財に指定を受け神庫に蔵しています。

当神社には二大火祭があり、一は三月の左義長祭が、八幡開町よりの城下町六十六ヶ町の氏子により、
一は四月の八幡祭(松明・太鼓祭)は山根十二郷の氏子により、
共に奉納行事として氏子の奉仕で行われています。

両方の火祭りが昭和三十三年(一九五八)滋賀県無形民俗文化財の指定をうけ、
更に平成四年(一九九二)二月には国無形民俗文化財に選定され、
御神徳のまにまに毎年盛大に奉納されています。

本殿裏には屏風岩が聳立ち、鏡池が森厳さをかもします。
八幡さまを祀るが故に地名を八幡と名づけたと伝えています。
観世流の能楽に由緒を謡った日觸詣があります。

近江の守護神として湖国の中心に祀られ、ご神威輝き、広く崇敬される八幡さまであります。

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↑拝殿↑
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↑能舞台↑
(以下、余談)
近江八幡には、八幡山城の城下町が起源となる「八幡伝統的建造物群保存地区」があります。
JR近江八幡駅から少し歩けば、碁盤目状の旧市街地や八幡堀など、絵になる風景が広がります。
保存地区の周辺には、建築家・ヴォーリズの自邸(現在は記念館)や設計した近代建築物も多いです。
その保存地区の北部・八幡山の麓に神社はありました。

左義長祭と八幡祭の2つの火祭があることで知られています。