石浦神社

Last-modified: 2013-10-05 (土) 15:25:41
 

石浦神社
いしうらじんじゃ
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(参拝日:平成25年1月4日)
住所:石川県金沢市本多町3-1-30mapionlogo.gif
主祭神:大物主大神
社格:式内小社、県社
主な祭礼:10月2日(例祭)

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↑鳥居↑
(由緒:パンフレットより)
当社の草創は、越前国加賀郡に住む三輪の氏人達が、天平年中(七二九~七四八)に居住地に社祠を建て、
大和国大神神社の御神霊である大物主大神を勧請し、三輪神社と号したのが起源とか。
また聖武天皇の天平十一年五月に花山天皇の勅を以て創建とか。或いは、養老年中(七一七~七二三)に松浦氏の女性が
大和国の長谷観音を勧請して創建した加賀石浦の長谷観音堂が前身とも伝承されている。

このように諸説があるが、大昔より加賀郡石浦郷七ヶ村の総社として崇敬を集め、延喜制では加賀郡十三座に列せられた。
やがて本地垂迹説の神仏習合の思想が起こるに及んで、当社に勧請した大物主大神が近江国日吉大社の神と同躰であるので、
当社を石浦山王、或いは地主権現と称した。また、大神神社の神宮寺である大御輪寺の本尊が十一面観音である関係から、
本社の本地仏とし、大和国長谷観音と号し、寛永年間(一六二五~一六四三)末には、
長谷山慈光院と改め、別当社僧が奉仕していた。

創建当社の社地は、下石浦村(今の長町三番丁辺り)の地で、江戸時代の藩士浅香氏・由比氏の邸地の一区域とも、
西外惣構藪ノ内の藩士高畠石見守の旧邸が社地であったとも伝えられ、室町時代にはここに大きな社殿があった。

天正八年(一五八〇)、佐久間盛政が一向一揆の拠点である金沢御坊を攻略した時、兵火に遭いことごとく焼失した。
その時、ご神体と仏像を合祀していたが、本地仏十一面観音は小立野の山崎村の愛宕社に安置し、
その後、卯辰山の観音院に移した。

慶長六年(一六〇一)、加賀二代藩主前田利長公から本多町に社地六百余歩を賜った。
翌年三月二十九日、一向一揆の首領であった山本若狭守家芸が拠点としていたといわれる上石浦村
(今の下本多町三番丁)の旧石浦砦跡地に社殿を再興し、ようやく石浦村に帰座した。

元和元年(一六一五)、この地が藩老本多安房守の下屋敷となった際に邸地内に編入された。
寛保三年(一七四三)十二月には、社地百七十歩が加増され、七百七十余歩となった。

御祭神は、大物主大神・大山咋大神・菊理媛大神・天照皇大神・天兒屋根大神・市杵島姫大神・譽田別大神の七柱である。

『国事雑抄』所収の寛延二年(一七〇九)二月、慈光院より宝幢堂宛の文書には、
「当社者山王権現(大山咋神)惣本地薬師如来・客人大明神(菊理媛神)本地十一面観音・市姫宮(市杵島姫神)
本地如意輪観音、右之三尊者往古天平年中より安置仕候」とある。

氏子地域は、石浦郷七ヶ村(石浦村・笠舞村・保島村・朱免野村・木新保村・今市村・山崎村)で、
現在の武蔵ヶ辻近くから犀川の左岸に至る広大な地域であった。

このように、当社は金沢城地の産土神として、また城の鎮守神として歴代藩主の崇敬も厚く、二代藩主利長公は社殿を再建され、
五代藩主綱紀公の時は若君誕生に際し安産を祈願された。それ以来、安産の神としても人々から厚く信仰されている。

藩老五万石の本多氏も、当社が元は下屋敷地内にあったため、祈祷所となし、
初代本多安房守政重氏が寛永十八年(一六四一)三月に二百両を当社に寄進したのをはじめ、
二代政長氏・六代政行氏、八代政禮氏らが社殿の再建・造営を行うなど、格別の崇敬・奉賽を受けている。

元来、当社は三輪神社として大神神社の主神、大物主大神(大己貴大神・大国主大神)を奉斎してきたが、
本地仏である十一面観音に圧倒され慈光院(俗称ジクイン)の俗称により世人からは寺院として知られ、
三輪神社の社号が忘れられるようになった。

そのため、三輪神社の社号を僭称して、式内社にしようとする神社も出現した。
しかし、当社が延喜式内社三輪神社であることは、承応二年(一六五三)六月二六日書写の『加賀国式内等旧社記』には、
「三輪神社、式内一座石浦郷石浦村鎮座称石浦山王石浦郷七箇村惣社今属石川郡也」と、
記されていることからも明らかである。

旧藩時代、石浦山王・地主権現・慈光院などと呼称され、親しまれた来た当社も、明治維新の神仏分離令により、
明治元年(一八六八)十二月、氏子地の石浦の郷名をとって石浦神社と改称し、
明治十三年(一八八〇)九月、下本多町から広坂通り百十二番地の現在地に移転した。

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↑拝殿↑
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↑稲荷社↑
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↑全国石浦姓サミット↑
(以下、余談)
体験できる美術館として脚光を浴びた金沢21世紀美術館に面して建っています。
周りに規模の大きな公共施設が多い中で、慎まやかに鎮まる社です。

正月ということもあり、小さな境内ながらも、露店が出店していました。
三輪の氏子が奈良時代に居住地に社祠を構え、大神神社の神霊・大物主大神をお祀りしたという古社です。
現在でも参拝者が途切れずに次々と訪れていました。

平成25年9月22-23日は、400年ぶりに全国石浦姓サミットをするそうです。当時の人は生きてないですよね。
あまり聞いたことがないと思いまして調べてみましたら、全国人数約2000人で石川県・富山県に多く分布していらっしゃるようです。