崇神天皇三年(紀元前九五)の創建、剱集落の発生と時を同じくして鎮斎せられた。
古くは「剱の宮」と称し、明治以降「金剱神社」の社名が用いられた。
時代により、金剱神宮、金剱明神、剱明神と呼称される時期もあったが、現在は官号に復し、「金剱宮」と称している。
平成十七年(二〇〇五)御鎮斎二千百年年祭が執行された。
「鶴来」という地名の文字は、江戸時代の元禄以降使用されたものであり、元来は「剱」または「剱」と記したことから、
地名と社名が一致した代表的な事例といえる。神社は鎮座地を動くことなく現在に至っている。
『白山記』『源平盛衰記』などによれば、金剱宮は古来白山七社の一つに数えられ、白山本宮、三宮、岩本宮とともに
本宮四社とされ、金剱宮は白山第一皇子と称されている。
尚武の時、身命守護健康の神、生業繁栄の神として信仰が篤く、
寿永二年(一一八三)木曽義仲が倶利伽羅谷合戦の大勝を奉謝し、鞍置馬二十頭を寄進している。
また、文治二年(一一八六)には、奥州へ向かう源義経が金剱宮に参拝し、よもすがら神楽を奉納したと
『義経記』に記されていて、義経奉納の太刀一口があったとの口伝がある。
明治維新の神社制度確立で、郷社に格付け、明治二十八年(一八九五)県社に昇格した。
明治三十九年(一九〇六)十二月、社寺合併と整理通達により新町の恵比須社、古町の大国社、知守町の日吉社、
日詰町の大鳥社の四社が合祀。同四十一年、日吉社、井守社、金刀比羅社の境内三社、
大正三年(一九一四)の十二月には日吉町の日吉神社が合祀されている。
現在境内には、乙剱宮祭神のお子で彦火火出見尊、金刀比羅宮(崇神天皇)、丈六宮(大山咋命)、
金剱宮恵比須社(大阪今宮戎社のご分霊)、粟島神社(少彦名命)、招魂社(地域の御英霊)がある。
神階叙位は、正三位九三三年、従二位九八三年、正一位(寛弘四年・一〇〇七年)に叙せられている。
祭礼では神輿動座の歴史から八三〇年を経るが、現在は『ほうらい祭り行事』としてお神輿が獅子舞・造り物のお供と共に、
街中を巡行する盛大なお祭りが毎年十一月おこなわれる。
鶴来の市街地の外れ、集落を望む山裾にあります。鶴来町の地名の由来ともなった古社です。
神社の前の道路がアイスバーン状態でしたので、坂道を登るのに苦労しました。
神社は崇神天皇3年、弘仁14年・あるいは神亀4年の創建とされています。
新田義顕軍に対する神徳、木曽義仲・倶利伽羅峠合戦の報賽、
源義経が当宮で神楽を奉納するなど、歴史書に幾度か登場します。
白山七社のひとつですが、本宮から遷座した三宮は駐車場が渋滞するほどの大賑わいなのに対し、
こちらは境内に人をほとんど見かけることなく、しんしんと雪が降り積もるばかりでした。