黒石神社

Last-modified: 2013-05-10 (金) 23:03:16
 

黒石神社
くろいしじんじゃ
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(参拝日:平成24年8月16日)
住所:青森県黒石市市ノ町18mapionlogo.gif
主祭神:津軽十郎左衛門信英神霊
社格:県社
主な祭礼:7月21,22日(大祭)

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↑神門↑
(由緒:パンフレットより)
黒石藩祖 津軽十郎左衛門信英公は、宗藩弘前二代藩主津軽信牧公の次男で藩祖為信の孫に当たり、
元和六年(一六二〇)十月五日江戸に生まれる。

生母は信牧公の正室満天姫と称し徳川家康の養女、実は家康の異母父弟松平康元の娘である。

初め幕府の小姓組番士として出仕し、のち江戸西丸書院番、駿府在番などを勤め蔵米三百俵を給されていた。

明暦二年(一六五六)後の名君とうたわれた弘前四代藩主信政公は十一歳であったので、
信英公は、幕命により信政公の後見役となり弘前城において諸政を司った。

同年八月、公は信政より黒石、平内、それに藩祖為信公が徳川家康から拝領した
上野国勢多郡計五千石を分知され、同時に陣屋を建て町割りを行い黒石藩の基を築いた。

黒石陣屋は今の文化会館から御幸公園へかけての一帯であった。

下って、文化六年(一八〇九)八代親足公の代、一万石に増封され大名に列せられた。

信英公は、幼少より文武に励み、特に当代第一流の軍学者山鹿素行の高弟として兵学を、
その他武術、文学を各師に学び、ほかに遊戯諸芸をも学ばれ、
その人となり温良慈仁にして良政をしかれ、その学識と執政は諸大名の間にも高く評価された。

信英公は、生前儒道を嗜み、その道の造詣深く、葬儀は遺命によりこの地に儒道を以て埋葬された。

明治維新後、旧士族は藩祖信英公の御遺徳を追感欽慕し、明治十二年神祭願いを県令に提出、
官許を得て郷社に列せられ、更に明治十五年県社に昇格したが、戦後社格は廃止された。

くろいし2.jpg
↑社殿↑
(以下、余談)
黒石市街地の一角に神社はありました。訪れた日は黒石よされ祭の開催日でした。
付近の一部の道路は規制されていて、車を停める場所を探すのに苦労しました。

境内はあまり広くないですが、陣屋の隅に霊廟が造られたのが始まりと考えると納得できます。
ちなみに、神門は藩政時代の廟門といわれています。現在のみちのく銀行付近から移設しました。

津軽信英公については私は詳しくありませんが、
明治維新後に旧士族が神祭を申し出るくらい、崇敬を集める方だったのでしょうか。