小國神社

Last-modified: 2013-04-28 (日) 07:11:01
 

小國神社
おくにじんじゃ
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(参拝日:平成25年2月11日)
住所:静岡県周智郡森町一宮3956-1mapionlogo.gif
主祭神:大己貴命
一宮:遠江国一宮
社格:式内小社、国幣小社、別表神社
主な祭礼:4月17日(例大祭・小国神社の舞楽)
webサイト:小國神社

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↑鳥居↑
(由緒:パンフレットより)
創祀は神代と伝えられ、上代の事で詳らかではないが延宝八年(一六八〇)の社記によれば、
人皇第二十九代欽明天皇の御代十六年(五五五)二月十八日に本宮峯(本宮山)に御神霊が出現し鎮斎せされた。
後、山麓約六キロメートルの現在地に都より勅使が差遣せられ、社殿を造営し、正一位の神階を授けられた(社記)。

爾来、年々奉幣に預かり、文武天皇大宝元年(七〇一)二月十八日に勅使が奉幣し、特に十二段の神楽を奉奏せられた(社記)。
仁明天皇承和七年(八四〇)六月二十四日従五位下の神階を授けられ(続日本後記)、
清和天皇貞観二年(八六〇)正月二七日は従四位下(日本三大実録)、
同十六年(八七四)二月二十三日には従四位上を加えられ(日本三大実録)、
第六十代醍醐天皇の延喜七年(九〇七)に勅して社殿を改造せしめられ(社記)、延喜式内社に列せられた(延喜式)。

下って第九十六代後醍醐天皇の元弘・建武の変以来、勅使参向が絶え、神主が代わって其の式を行い、
戦乱が相次ぐ室町時代に至っても神事祭礼を欠くことなく奉仕し、朝野の崇敬が極めて篤く、近世に至る(社記)。

元亀三年(一五七二)徳川氏の目代武藤刑部氏定が武田信玄に味方し甲斐の軍勢を招き当社にそむいた時、
神主小國豊前重勝は霊夢に感じ、子息千松麻呂を人質として徳川氏に訴えた。
家康公は神主に命じて御神霊を別所に遷し、願文と三条小鍛冶宗近作の太刀を奉り、戦勝を祈願した後に、
社頭に火を放ち全部の社殿を燃失した。

その後、徳川氏が勝を得て、天正三年(一五七五)家康公は家臣本多重次に命じて、先ず本社を造営、遷宮させ、
次いで同十一年(一五八三)一二月七日天下平定の奉賽として末社・拝殿・廻廊を造営、
同十三年(一五八五)楼門を再建させた。

慶長八年(一六〇三)八月二八日家康公は更に社領として五百九十石の朱印を奉り、
その後、元禄十年(一六九七)には将軍綱吉公が横須賀城主西尾隠岐守に命じて悉く社殿の改造をし、
寛保元年(一七四一)将軍吉宗公より四百両の修復料を寄進された。

明治六年六月十三日に至って、国幣小社に列せられ、明治十五年三月八日再度の大火に遇い、本殿以下悉く失ってしまった。
官命により再建の事となり、明治十九年に完成、九月二十五日遷座祭を執行する。
終戦後は昔ながらに遠江國一宮として崇敬され現在に至っている(社記・徳川実紀)。

また、平成十五年九月十四日、秋篠宮文仁親王殿下同妃紀子殿下には、御親拝及び十二段舞楽を御覧になられ、
平成十八年十一月八日には、神宮祭主池田厚子様が御参拝され、記念に菊桜を御手植えされた。

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↑拝殿↑
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↑舞殿↑
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↑参道↑
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↑境内地図(クリックで拡大)↑
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↑事待池と宗像社・八王子社↑
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↑全国一宮等合殿社↑
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↑家康公立ち上がり石↑
(以下、余談)
国道1号線や東名高速が通る幹線道路から北へ10kmほど外れると、遠江国一宮がある森町に着きます。
最近、新名神高速・森掛川ICが開通しましたので、以前よりも訪問がしやすくなりました。

名称は出雲の「大国」に対してつけられたそうです。

1450年の歴史をもつ神社です。鎮守の杜は古木が生い茂り、荘厳な雰囲気です。
神社は参道がまっすぐ伸び、掃き清められた境内が清々しいです。

この日は建国祭が行われるため、準備が各所で行われていました。
神社まで移動する途中、神社の幟を掲げて歩いている一行を見かけました。おそらく、祭事の参加者と思われます。